リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

女体化と新たな決断主義-アニメ「ナイツ&マジック」から

ナイツ&マジックのテンポの良さ

今期注目のアニメのひとつ「ナイツ&マジック」を見ている。岡田斗司夫が第一話のテンポの良さを面白がっていたので興味が沸いたからだ。一話を見てみるとAパート12分の内に天才プログラマーだった主人公が交通事故に遭い、異世界に転生しちびっ子になり、夢を持ち、大きくなり学校に入学するところまでが描かれている。確かに驚異的なスピード感だ。

岡田はこのあとに続く物語の矛盾した部分*1を指摘するのだが、そこは捨て置く。私が関心を持つのは、何故この主人公が異世界に飛ばされたと同時に美少年になるのかということである。それも、ただの美少年ではない。美少女のように可愛い美少年なのである。転生前プログラマーだった男が、ルネスティ・エチェバルリア(エル)という背も小さく、CVも高橋理依というという完全なロリポジションに納まっている。不思議な話だ。

真っ先に考えられるのは、性別は男だが完全に女というポジション、「シュタゲ」で言うところのルカ子のような萌えキャラを狙っているということだ。確かにない話ではない。しかし、このポジションは主人公にしてはいささかキャラが複雑すぎる。エルは、女の子のように可愛がられることには抵抗感があるようであるし、ここはやはり可愛すぎる男と捉えるべきだろう。

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女体化する主人公

女のような主人公といえば、「ソードアート・オンライン」の二期のキリトを思い出す。ガンゲイル・オンライン内でのキリトのアバターは、美少女という設定であった(CVこそ松岡禎丞のままであったが)。何故しばしば男の主人公、つまりは男が感情移入するキャラクターが、女体化するのか。今回はこれを考えていきたい。

アニメを見る層はポップになってきているとは思う。「シン・ゴジラ」や「君の名は。」は国民的ヒットになったし、なによりいまや誰でも「私オタクだから~」と言う。このような発言は古参の逆鱗に触れること間違いなしだが、私もその一員であることを否定できないので深入りはしない。しかし、やはりアニメを見るのはオタクであるというイメージは根深い。特に「ナイツ&マジック」のようなラノベ原作とその作品群は未だにオタクの聖域だろう。

そう考えてみると、オタクが感情移入するはずの主人公エルが女体化しているという事実は、エルの女体化*2はオタクの願望だということになるだろう。それはキリトにしても同じである。オタクは、その大半が異性愛者(美少女に萌える)であるのにもかかわらず、自らも美少女になろうとしている。オタクは、自身も含め、美少女のみが存在する世界の到来を願っている。それは滑稽に聞こえるが、本質的なことではないだろうか。

宇野常寛の分断線は正当か

かつて宇野常寛は90年代のオタクをひきこもり的、ゼロ年代のオタク(若者)を決断主義的として、線を引いて考えていた。確かに語られる物語の構造としては、決断主義的なものに移行してきたのかもしれない。しかし、考えてみて欲しい。人を傷つけることを、言い換えれば「父になる」ということを恐れるオタクはいなくなったのだろうか。ひきこもり心性は時代的なものではなく、いつの時代も普遍的に存在するのではないか。

これを表しているのが「ナイツ&マジック」や「SAO」の主人公の女体化であろう。女体化は、萌えではなく、反父権主義の表れとして捉えるべきものである。「いつまでもひきこもっていては生きていけない」という決断主義はやはりオタクには厳しいのだ。決断によって相手を傷つけることに私たちは平気にはならない。なぜならば、それこそがオタクの良心の最終防衛線だからである。

「ご都合主義」的決断主義の誕生

女体化した主人公は自身の目標達成のために全力であるが、そこで行われる決断に他者は関与しない。そこには葛藤がない。その決断で誰かが救われることがあっても、誰かを傷つくことがない。また、「けものフレンズ」や「ごちうさ」、「NEW GAME!」のような女の子しか出てこない日常系も、過度にお互いを褒めあい、高めあうことを「日常」としている(けものフレンズが日常系かは意見が分かれるかとは思うが)。

今の時代を支配しているのは、明らかに本質的な決断主義ではない。支配的なのは、決断しつつ、相手を傷つけないという宇野自身が批判してきた「ご都合主義」的決断主義である。その周囲には決断を迫られない日常系が無限に広がっている。

小さな決断に日々悩まされるオタクにとっての「日常」が、 女の子が互いを高め合うこと*3だということの異常性は、ひきこもり心性の根深さを明らかしている。

リスポーンするひきこもり心性

決断主義ではひきこもり心性に勝てなかった。この勝負の結果は今だから言えることではなく、宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』が出版された時点で明らかだった(つまり宇野の東浩紀批判が充分に深くはなかった)はずだ。宇野はゼロ年代決断主義はひきこもり心性を乗り越えていると考えている。「ひきこもりたいが、それでは生き残れない」という感覚が決断主義には織り込まれているというわけである。これは現実を描ききっているだろうか。宇野の論理構造を反転させて借りるならば、ひきこもり心性は決断主義を既に織り込み済みだったとは言えないだろうか。「人を傷つけ生き残るくらいならば、生き残らずとも良い」と。

それは現在100万を超えるとも言われる我が国のひきこもりの数や、そのひきこもりたちが、家を追い出されても自殺するかホームレス化する*4かであるということから考えればわかることである。バトルロワイアルに投げ込まれれば、死を選ぶひきこもりも少なくはないだろう*5。彼らは人を傷つけてサバイヴすることの意味自体を信仰していないからである。ひきこもりは決断主義が前提とする「サバイヴすることが善」という論理内の存在ではない。「サバイヴすることが善」を信仰できていれば、ひきこもる必要などなく、人を傷つけて自分のために生きればよいのだ。

このひきこもり心性の構造的強さ(それは弱さでもある)こそが、決断主義が骨抜きにされ、ご都合主義的決断主義に陥った理由である。これは「ナイツ&マジック」や「SAO」批判ではない。それらは時代が求める物語であることに間違いはない。ひとつ言えることは、宇野が思っているよりもひきこもり心性は根深かったということである。

主人公の女体化は、男の抱える暴力性、父権主義からの逃亡のデザイン的な表れである。これは秀逸なキャラクターデザインである。ただ、このキャラクターの危うさは、ひきこもり心性をデザインに織り込むことで、安易に決断しても誰かを傷つけるということがないように見せてしまう点にある。だから女体化はご都合主義的決断主義に潜む、密輸入された父権主義を隠してしまう*6

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

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 「目には目を」では、皆が盲目になる

私たちの現実は、セルフィッシュに振舞うことが利を得ることにつながる社会である(自覚的なボケ)。しかも彼らはそうせざるを得なかったのだと、免罪されている(ツッコミの排除)。インスタやフェイスブックでは、互いを撫であい、高め合うことで、虚構の「日常」を作りあげている(ツッコミが排除された世界での無自覚なボケ)。それに抵抗するように私たちは、ツイッターなどを通して、何かの当事者としてリアルを叫び(全てのボケに対する過剰なツッコミ)、決断主義を渇望している*7

ここに登場したのが、ご都合主義的決断主義という「物語」である。誰も傷つかず、周りの人は幸福になっていく(明らかなボケに対する正当なツッコミ)。この構造を導入しやすいのが、異世界なのだろう。未発達の土地に知識を持ち込むことで傷つけず、幸福をもたらす*8。しかしこれは「物語」に過ぎない。

私たちはもう一度考えなければならない。皆が皆、リアルを叫び、当事者として「目には目を」と主張することで、皆が盲目になってしまっている現実を(一億総ツッコミ社会)。決断主義とひきこもり心性に欠けていることは、赦すこと、赦されることである*9。私は来るべき「赦し」の物語を心待ちにしている。

*1:無線のような技術があるのならば、敵が自国のロボに乗っていてもすぐに気がつくはずだということなど。

*2:「ナイツ&マジック」や「SAO」を取り上げて、女体化というのは恐らく異論があると思われる。実際、二人は女性の身体になっているわけではない。ここでは「男性キャラの女性的デザイン化」を表す言葉が見つからなかったために女体化と記述する。

*3:これはアイドルにも通底するだろう。彼らの使う「日常」という言葉は本来の意味から遊離している。そんな人間いないだろう、というツッコミがアイドルファンに通用しないのはこのためである。

*4:イギリスでは、成人の子が実家で暮らすということが社会的に許容されていない。だからひきこもりの数は少ないが、若者のホームレス問題が深刻化している。ちなみに、日本のように実家暮らしが許容される韓国では、やはりひきこもりが多い。徴兵制から帰った者がひきこもることも多く、「ひきこもりは鍛えて治せ」というようなマッチョなことは通用しない。

*5:「じゃあ死ねば。」と、ひきこもりへの批判が飛んできそうだが、それが全ての意味において間違っていることは自明なのであえて反論はしない。

*6:ハーレムがハーレムに見えなくなるなど。欲望を満たしつつ、その倫理的な責任からは免除されるようなこと。

*7:自覚的ボケへのツッコミと、無自覚的なボケへのツッコミは違う。後者には突っ込む側の(人生を謳歌しているお前が許せないという)ルサンチマンが見え隠れしている。

*8:このことを表す「知識無双」という言葉があるらしい。これは現代社会の知識によって異世界で無双する(成功を収める)ことであり、「小説家になろう」で多用される一つの技法を指す。

*9:しかし、セルフィッシュな振る舞い(自覚的なボケ)がある限り、赦すことへの不平は募るだろう。だからまずは、自覚的なボケへのアーキテクチャによるツッコミの開発から始めるべきだ。ただ、児童のいる家庭内喫煙の禁止等、今の日本は国民の監視や縛り付けを過激にしていこうとする傾向があるので、熟慮が必要である。私がアーキテクチャによるツッコミを求めるのは、私たちが私たちを互いに赦すためである。監視や縛り付けはその真逆を行くものであるので全く支持しない。

可能世界の倫理を考える-「リゼロ」と「時かけ」から

可能世界とは何か

最近、可能世界の自分について考えることが増えた。これは私の年齢によるものなのかもしれない。就職がリアルになることで、未来の自分の想像ができるようになる。それを逆に言えば、ありえたかもしれない自分との別れでもある。

現在の可能世界論は、可能性や必然性の意味論を扱うため、ソール・クリプキらによって1950年代に導入された。可能世界論では、現実世界は無数の可能世界のなかの一つであると考える。世界について考えうる異なる「あり方」ごとに異なる可能世界があるとされ、そのなかで我々が実際に暮らしているのが「現実世界」である。(ウィキぺディア「可能世界論」より)

 私は頭の中でひとつの飲み会を開いてみた。そこには可能世界の私が勢ぞろいしている(実際にはものすごい数になるだろうが想像の中では8人とかのイメージだ)。

彼らの中には、私が過去付き合えなかった美女と懇ろになっている奴もいる。身体的・精神的不幸に見舞われている奴がいる。そんな彼らに対し、私は敬意と感謝、そして責任を感じるだろう。

 タイムリープと倫理

私は沢山の自分を前にして「お前になり代わりたい」とか「お前じゃなくてよかった」ということは思わないだろう。そして彼らと別れた後も「あいつら元気にしてるかな」と、ふと思い出したりするだろう。それは安いナルシシズムかもしれない。しかし、私には、これは倫理であるように思われる。

時をかける少女」というアニメ映画がある。細田守を国民的アニメ映画監督に押し上げた2006年公開の作品だ。この作品の良さは、人の想いや行動にはキャンセルしてはいけないものもあるんだということを主人公の真琴が学ぶことにある。

私たちは日々後悔し、「あの時こうしていれば」などということを考える。このどうしようもない想像こそが、タイプリープものに私たちが惹かれる理由だろう。しかし、時かけの一番のテーマは「あの時こうしていればが実現することで変わってしまう何か」に対する想像力だ。時かけがヒットしたのは、想像されるその先をみせたからであったのだ。

和子(叔母であり原作の主人公)が真琴に伝えたのは、タイプリープの先輩による倫理の教えであり、これによって真琴は動きはじめたと考えるべきだ。真琴が「千昭の告白」を必死に取り戻そうとするのは可能世界の私・あなたに対する敬意によるものだ。真琴は告白されてから時間差で「千昭のこと、私も好きかも」と思うような流されやすく俗っぽい女の子ではない(と思いたい)。

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告白=挨拶への応答責任

告白というのは挨拶のようなものだ。これは私が挨拶のように気軽に告白できるモテ男であるということではない。告白は「あなたともっとコミュニケーションが取りたい」ということだけを伝えているのであり、これは挨拶の本質そのものである。

挨拶が苦手、という人間が一定数いるのもこのためだろう。挨拶ができない人は「あなたとコミュニケーションが取りたい」わけではないということを示したいか、「あなたとコミュニケーションが取りたい」ことを知られたくないかのいずれかである。後者はコミュニケーションの欲望の過剰であり、挨拶=告白の難しさを表すいい例である。

だからこそ告白=挨拶はキャンセルしてはならないものだ。告白=挨拶は白くてやわらかい腹を相手に見せる行為なのだ。それでいて承諾して私と同じ時を共有するか、振って私を傷つけるかを選べ!という選択肢を突きつける行為でもある。

リゼロは面白い!だが・・・

 「Re:ゼロから始める異世界生活」というライトノベル原作のアニメを最近見ていた。通称リゼロ。一話の出来は秀逸だったと思う。というか一話で惹きこまれて一気見をしてしまった。とにかく高橋李依演じるエミリアが可愛い。「このすば」のめぐみんのイメージが強かったが、こんなに天然お姉さん的に振舞うのが上手いとは・・・。

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リゼロファンにはレムの告白(18話)がこのアニメの名シーンだという人も多いだろう。しかし、私としては17話までの主人公スバルのワンパターンの振る舞いに飽き飽きしていたところだったのであまり感動できなかった*1

可能世界の倫理規定違反

スバルは基本ポンコツである代わりにタイムリープができる。しかしタイムリープをするのには死ぬことでしかできない。これは「死に戻り」と呼ばれるが、この死に戻りによってスバルは壊れていく。この何度もリトライすることによる主人公自身の疲弊は「シュタインズ・ゲート」で既視感がある。しかもスバルはギャンギャン叫ぶタイプなので、感情のインフレといった感じでこちらが置いてけぼりを喰らい、イライラしてくる。

しかも、何度もリトライするなかで、エミリア言ってはいけないことを言ってしまう(17話)。このシーンは、エミリアと喧嘩別れをした後に起こるので、スバルが全く成長していないように見える。

このスバルの暴力的な態度は可能世界の倫理を侵している。スバルがエミリアを本当に守りたいのならば、可能世界のエミリアをも大切にしなければならないはずなのだ。このスバルの態度は見ていて「ああ、この後死に戻るんだな」と感じてしまうし、事実彼は死に戻る。

スバルが感情的になるのは死に戻りのリアリティなのかもしれないが、死に戻りができるからこそ不用意に選択肢を選んでいるようにも見える。可能世界のエミリアを毀損することは、現実世界のエミリア、物語の重みそれ自体を毀損する。

人を傷つけたり、人が大切にしているものを損なったりした場合、それを「復元する」ことは原理的に不可能です。(内田樹『困難な成熟』p.17)

あなたが配偶者とか恋人に向かって、「あなたのその性根の卑しいところが私は我慢できないの」とか「お前さ、飯食うときに育ちの悪さが出っからよ、人前で一緒に飯食うのやなんだよ、オレ」とか、そういうめちゃくちゃひどいことを言ったとします。でも、言ったあとに「これはあまりにひどいことを申し上げた」と深く反省して、「さっきのなしね。ごめんね。つい、心にもないことを言ってしまって・・・・・・」と言い訳しても、もう遅いですよね。もう、おしまいです。復元不能。(内田樹『困難な成熟』p.18)

責任=無限の賠償請求

引用文は、責任は無限の賠償を請求する、という文脈において登場しており、内田自身は、それを良いことだとは思っていないだろう。裁きには赦しが付随すべきだからである。しかし、この引用文に責任の本質というものが端的に表れている。

これを可能世界に拡張してみよう。死に戻った後の現実世界においてエミリアは、スバルにひどいことを言われたことを覚えていない。これを根拠にスバルがエミリアにひどいことを言うことは正当化される。しかし、可能世界においてひどいことを言われ、死んだエミリアは蘇らない。この責任からは逃れられないはずなのだ。

にもかかわらずスバルには責任感が欠如している。だからスバルの精神的疲弊は説得力を持たない。可能世界のエミリアを大切にできないスバルは、可能世界のエミリアを助けられないことに疲弊しないはずだからだ。それならばマリオを何十機も費やしてゲームをクリアするように、エミリアを何十回も殺して、助けてしまえばいい。

とはいえリゼロは面白い

散々に書き散らしたが、面白いからこそ、14~17話くらいの中弛みに我慢ならなかったのだ。リゼロは世界観もキャラクターも魅力的で2期があれば是非見たいと思っている。もはや、タイトルとも矛盾するが、時かけのように「死に戻り」の回数制限を迎えて、死んだら終わりの主人公にするべきでは、とも思う。スバルが本質的な成長を遂げて、可能世界の倫理に基づいた物語になっていけばそれに越したことはないのだが。

可能世界の倫理について考えることは、可能世界のリアリティを考えることだ。そして可能世界のリアリティこそが、現実世界のリアリティに厚みを加えることになる。リアルの断片だけが世界中で叫ばれている今だからこそ、もっとマクロな視点での想像力を持ちたいものである。

*1:これは私がアマゾンプライムで連続視聴(イッキ見)していたことにもよるだろう。週に30分ずつならば感想違ったかもしれない。まあ、私の感想はどうでもいいので捨て置く。原作の攻殻を最近読んで以来、捨て置くというワードにハマっている。攻殻はマンガなのに欄外に注があり、捨て置くという言葉が頻繁に登場する。

5000兆円或いは、おちんちんランド開園

Twitterで見かける5000兆円ネタ

「5000兆円欲しい!」や「おちんちんランド開園」というネタが、Twitter上で流行りに流行っている。流行ってからもう3ヶ月は経っているネタだが、未だにバズツイートの返信欄などで見かけることがある*1。今回はこれらがなぜ流行ったのか、分析してみたい。

これらのネタはなぜバズった(面白い)のだろう。賢明な人ならば「いや、そんなのつまらない」と言うかもしれない。しかし、そういう人こそ、このネタの本質を見誤っているのではないだろうか。

このネタの本質は、文字面の面白さにあるのではない。むしろワードとしては凡庸な部類に入るだろう。「5000兆円欲しい?だから何?」とか「おちんちんランド?お前バカなの?」というのが普通だろう。しかし元ネタをみてみると、文字面以上の魅力があるのも確かだ。画像を見ながらその魅力について考えていこう*2

5000兆円欲しい!或いはおちんちんランド開園

これが「5000兆円欲しい!」の元ネタ画像である。f:id:zizekian:20170803152129p:plain

次におちんちんランドの一連のネタ。まずは開園。

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そして、すぐに閉園。

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広がる、めちゃシコパラダイス。

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ざっと見回しても、これらのネタの面白さは、文字面というよりもフォントやエフェクトにあるということがわかるだろう。

無意識に形成された「フォントあるある」

これらのネタの特徴は、パチスロやバラエティ番組で使われるフォントや特殊効果が使用されていることにある。言ってしまえば凡庸で軽薄なフォントだ。パチスロのチラシやバラエティ番組でこの特殊効果が使われるとなると、「グランドオープン!」とか、番組のテロップ的なものになる。例えばこんな感じか。

錦糸町のパチンコ屋。グランドオープンで画像検索するとすぐに出てくる。

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次は一時代を築いたバラエティ「いきなり!黄金伝説。」から。

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これらのフォントは、意識してみてみると、私たちの目を引くようにギラギラと必死にアピールしていることがわかる。しかし普段は、このようなエフェクトが街やテレビに溢れすぎていて、逆に全く意識されていない。パチスロのチラシのフォントは無意識の中で私たちの「あるある」になっていたのだ。

(私の記憶の中での)レイザーラモンRG曰く、「『あるある』はありすぎることでは面白くない。確かにあるのだが、今まで意識されてこなかったことを掘り起こすことで面白くなる。」*3

その意味で「5000兆円欲しい!」や「おちんちんランド開園」というネタはひとつの「あるある」である。文字面で勝負しているのではなく、フォントで勝負している。

しかしまた、このフォントとこの文字面が化学反応を起こしているということも事実だろう。でなければ、ここまでの拡散はあり得なかっただろう。最後に、これらのネタの「あるある」ではない側面について考えることにしよう。

文字列とエフェクトの化学反応

 このネタの構造を説明するならば、次のようなものになるだろう。「凡庸で軽薄な文字面を凡庸で軽薄なフォント(あるある)で表現する、という『ないない』」。わかりにくいだろうか。ひとつひとつ順を追ってみていこう。

「5000兆円欲しい!」というのは無邪気でバカなワードである。しかしこのワード自体に大きなインパクトはない。しかし、この無邪気でバカなワードを、パチスロあるあるのフォントによって表現するということは今までされてこなかった。今までは一応、意味のある内容に対してこのフォントは使われていたのだ。

つまりこのネタは「あるある」でありながら「ないない」でもあるのである。「ないない」とは「あるある」の逆で、「そんなものは存在しない」という面白さである。文字面とフォントが交わることで「ないない」というインパクトが生まれている*4

凡庸で軽薄な文字面を凡庸で軽薄なフォントで表現するというのは表面的な構造はモノフォニー的になっている(つまりわかりやすい、つまらない)。しかし一方で、このネタには文脈依存的に構造をみてみると「あるある」と「ないない」が同居している。これがポリフォニー的笑いを生み出す。このねじれが「面白いのだが、なぜ面白いのかがわからない」と感じさせるのだ。

これらを「バカなネタが流行っている」と一蹴することは容易い。しかし凡庸で軽薄な文字面と凡庸で軽薄なフォントの組み合わせが生み出す「あるある」と「ないない」の同居という構造は、高度にお笑い的である*5。その深みの一歩手前で思考停止して、つまらないと考えるのは早計ではないだろうか。

  

フォントのふしぎ  ブランドのロゴはなぜ高そうに見えるのか?

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豊富な作例ですぐに使いこなせる 和文フリーフォント260

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ツイッターの心理学:情報環境と利用者行動

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*1:この手の元ネタを何度も引用して使用しているのを見かけるたび、私はつまらないと感じている。元ネタの構造的な面白さと、けもフレ民が「すっごーい!」というように、それを無限に引用・複製していくことのつまらなさを一緒にしてはいけない。

*2:ネタを分析することほど無粋なことはない。しかし、「私が面白いと感じること」と「それがなぜ面白いのか」は別な問題であるために、無粋を承知で分析を試みた。

*3:私の記憶では「オードリーのオールナイトニッポン」にRGがゲストとして登場した回で、このようなことが言われていたと記憶している。若林の発言であったようにも思われる。

*4:「ないない」はお笑いの手法としては禁じ手のようにも思われる。原理上、「ないない」の数は無限であり、これを面白いというと終わりのないメタ合戦になる。松本人志が『さや侍』で大ゴケしたのはこのメタ構造の罠にかかったからである(一番つまらないものが一番面白いというように)。だから「おちんちんランド」というフレーズは伊集院やアルコ&ピースのラジオでは登場しそうであるが、テレビには(下ネタだからということではなく)登場しそうにないのである。

*5:私の知り合いは「めちゃシコパラダイス」の画像を見て、音まで聞こえたという。つまり彼の中でこのフォントはそれほどまでに絶妙な「あるある」だったわけだ。そしてその表現技法を用いて「めちゃシコパラダイス」というフレーズが表されるという「ないない」に思わず笑ったのだ。

モナーコインをマイニングしてみた

不労所得は人類の夢

不労所得・・・その妖しげな響きに誰しもが魅了される。アフィリエイトやメルマガ、マルチ商法不労所得と結びつくそれらの言葉全てはいまや過去の遺物だ。

不労所得2017。それは仮想通貨マイニングだ!!!

高騰のニュースで、にわかに注目を集めている仮想通貨。ビットコインに代表されるそれらを、日本円で買わずとも手に入れる方法がある。それが仮想通貨マイニングだ。

マイニングにはグラボが必須

なんて書いているが、私はマイニングなる言葉をつい3日ほど前知った。

マイニングとは日本語でどうやら採掘のことらしい。仮想通貨を流通させるお手伝いを自分のPCでさせる代わりに、報酬として仮想通貨を少しもらえるみたいなロジックだそうだ。

PCといってもCPUでは全くダメなのだそうだ。GPU、つまりグラフィックボードの力でガリガリ掘ることで、働かずにカネを稼ぐというのだ。特にAMDのグラボは効率がよいらしく、店頭からも、ネットからも消えてしまったらしい。次いで、NVIDIAのグラボが人気なんだとか。バランスを考えるとNVIDIAに軍配が上がるというデータもあるようだ。

NVIDIA・・・?

えぬびでぃあ?何か聞いたことのある名だ。そう思い私は愛してやまないZ420のフタをガバッと開ける。そこにはNVIDIA Qadro K2000の文字が!

ネトゲ好きでもCGクリエイターでもない私だが、今使っているPCにはグラボが刺さっている。速そう、という馬鹿な理由で中古のワークステーションを買った過去の自分に感謝しかない。

NVIDIAで掘る→不労所得

最強の方程式を完成させた私は、早速マイナーとしてのキャリアを歩みだした・・・

モナーコインを掘る

日本発の仮想通貨が存在する。その名をモナーコインという。

      ∧_∧     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  ( ´∀`)< オマエモナ
 (    )   \_____
     | | |
  (__)_)

こいつがシンボルの仮想通貨だ。今年の初めには1MONAは3円程度だったのだが、今や60円ほどのところをうろうろしている。価値が20倍になった通貨だ。今回はこれを掘る。堀りまくって不労所得

設定が結構ムズかしい、けどできる

設定は結構難しい。先人たちのホームページを覗きつつ、ウォレットやマイニングプールへの登録、マイニングソフトのダウンロード、batファイルの書き換え。

文系の私にはファイルの書き換えなど気の遠くなる作業だ。何度も書き換え、何度も失敗し、しかしその度に方程式を念仏のように唱える。私は既にNVIDIA教徒だ。

ついに始まったマイニング

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え、めちゃくちゃかっこいいじゃん。。厨二心を掴まれた私は、次に本当に稼げているのか確認する。

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おおお!これが増えていく私のMONA不労所得が生まれている!!

高等遊民のデータをチラ見せ

私は、マイナー=高等遊民としての一歩を踏み出した。しかし上には上がいるというものだ。私以外のマイナーはどれだけ稼いでいるのか。貴族社会のデータを見てみよう。優れたマイナーは、現状に満足しないものなのだ。

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 ん?

 

 

一位の人と、1500倍の差があるじゃないか!!

てか、Punihikuさんの数値ちっちゃ!!!

 

 

 

甘くはないマイニングの世界

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一日PCを動かし続けて、0.097MONA手に入る計算になっている。

 

 

0.097×60=5.82円。

6円足らず。電気代すらペイできねえじゃねえか!!!

 

 

 

Quadroはマイニングには向かないようです

どうやらNVIDIAでもGeForceシリーズというゲーム向きのグラボがマイニングには向いているようで、Quadroシリーズではダメなようだ。私のQuadroK2000はゲームより3DのCGなどを扱うのに向いているようで、ヤフオクでは中古で15000円程度で売れている。売りさばいてGeForceに乗り換えて、さらなるマイナー道を歩もうか・・・

 

ASUS NVIDIA GeForce GTX1060搭載ビデオカード メモリ6GB TURBO-GTX1060-6G
 
仮想通貨とブロックチェーン (日経文庫)

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いまさら聞けない ビットコインとブロックチェーン

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相対性理論『証明Ⅲ』を観てきた

はじめてのやくしまるえつこ

昨夜、中野サンプラザホールにて相対性理論『証明Ⅲ』を観てきた。相対性理論のライブには初参戦だったが、運よく一階の5列目くらいの絶好の席だったのでかなり楽しめた。ツインドラムのドカドカ音は暫く耳に残りそうだが・・・

「ウルトラソーダ」で始まったライブ。薄い幕が客席とステージの間に張っている。ここをスクリーンとしてリアルタイムのやくしまるえつこがドットに分解され映し出される。幕の向こうにやくしまるが見える。私はスクリーンに映るゴーストとやくしまる本人を交互に見ながら、遂に始まったライブに感動していた。

ケルベロスわんわんするやくしまる

2~3曲演奏した後、「幕が開いたら、そこはもう、相対性理論プレゼンツ、証・明・Ⅲ」とやくしまる。「ケルベロス」が始まる。やくしまるは二つの犬の顔のパペットを手にはめ、彼女の顔と合わせて3つの顔を持つケルベロスになった。「地獄の番犬わんわーん」に合わせて両手のパペットがわんわんする。可愛すぎる。30歳を迎えているとは信じられない(失礼)。

すっかり相対性理論に引き込まれてしまっている。意外にもパワフルな演奏と、対照的に完全に感情を統御したやくしまる。噂には聞いていた、沈黙の中ゆっくりと水を飲むやくしまるも見れた。彼女はライブの熱気が冷えてしまうことをまったく恐れていない。というか、もはや水を飲むというパフォーマンスが成立している。

演技性のレイヤーが一枚剥がれた「アンコール」

うっかり、ライブレポのようなことをしそうになっている。それはもっと適任な人達がいるだろうと思うから、そちらに任せたい。私が今回考えたいのはアンコール時のやくしまるについてだ。ここからは、やくしまるえつこやくしまるえつこというキャラクターを演じている、ということを前提に話を進めていく。やくしまるが作詞・作曲時にはティカ・α名義に変えることからそのことは自明であるように思われるからだ。

「またね」といってステージを降りたやくしまるを私たちは手拍子でアンコールの流れに持っていく。しかしその途中で映像演出が始まってしまい、アンコールが成立していない状態で手拍子が止んでしまった。このよくわからない流れの中、相対性理論が戻ってくる。これは演出上のミスだったのかもしれない。それが影響したのか、帰ってきたやくしまるは、演技性のレイヤーが一枚剥がれていた印象を受けた。

前列だからこそわかる情報量の変化

『証明Ⅲ』はアンコール前で終わったのだ、と感じたくらいだ。めちゃめちゃ笑顔であるとか、しゃべり方が違うとか、そういうわかりやすい変化ではない。これは前列だからこそわかる、情報量の微細な違いだ。アンコール前までのやくしまるは、自分の有機性を押さえ込み、無機物のように振舞っていた。機械のように自分から発される情報、声のトーンや仕草や、表情などを全てコントロールしていた。しかしアンコール時には、機械になりきれないことからくる人間らしさが漏れ出てしまっていた(あえて漏れ出させたとも考えられるが)。

ここで間違えてはいけないのは、私がみたのは、やくしまるの人間性と音楽が結びつくというような、安易な人間らしさではないということだ。機械になりきれないことからくる人間らしさは、究極的である。言ってしまえば、数学における点が面積を持たないということと、どんな点もそこにある限り面積を持ってしまうことの関係に似ている。

ボカロと比較されてきたやくしまる

先ほど、演技性のレイヤーが一枚剥がれるという表現をした。彼女は世代的に、いつもボカロと比較されてきた。感情を込めない歌い方と、自分の情報のコントロールの徹底など、類似点はやはり多い。しかし、レイヤーを剥がせば剥がすほど、人間らしくなるという点ではボカロと真逆だ。彼女は人間だから、当たり前なのだが。

ボカロはどこまでいってもやはり機械である。レイヤーを剥がせば剥がすほど、機械に戻っていく。初音ミクのキャラクターが立体的になるのは、有志によって作り上げられた膨大なレイヤーがあってこそである。そして、リアリティを損なうレイヤー=情報は「ミクはそんなこと言わない!」と弾き出される。初音ミクは膨大なレイヤーが調和することで成り立っている。

『ゲンロン5』とのつながり

目指すべきものとして、完璧に統御されたやくしまるがある。しかし、やくしまるが人間である限り完璧な統御はありえない。この間に生まれる人間性。これは究極的で、失いようがないものだ。ここで『ゲンロン5』より佐々木敦の発言を引用しておこう。

ロボットなら完璧にできる再現や反復は、人間には絶対にできない。必ずズレや疲労や失敗といったものが生じてくる。梅沢さんの言葉を借りれば「理論値」にはなれない。そこにはつねに隙間があるわけです。ぼくはこの理論値と人間が到達可能な場所とのあいだ、隙間こそを「幽霊」と呼ぶべきではないか、そこに可能性があるのではないかと思います。

機械と人間の往還

アンコール前までは、つまり『証明Ⅲ』内では、やくしまるは理論値を叩き出していた。そこではティカ・αやくしまるえつこパーティション分割が完璧になされていた。メンバーの熱い演奏と無機質なやくしまるの後ろにそれらを動かすティカ・αがいるような印象を与えていた。これぞ、相対性理論だ!これを観にきたんだ!という感じだ。

しかし、アンコールでは彼女のコントロールに隙が生まれる。このこと自体を感じ取った人は少ないかもしれない(私の勘違いだと言われても否定はできない)。しかし、その微細な変化自体は会場全体も肌で感じていたとは思う。彼女のあまりにも短いアンコール、そこで演奏された「LOVEずっきゅん」と「天地創造SOS」で事実会場は締まったのだから。何かの「証明」は次の「理論」の土台になる。私はこれからも、彼女たちを追っていくつもりだ。

 

天声ジングル

天声ジングル

 
フラッシュ オブ ドーパミン

フラッシュ オブ ドーパミン

 
ゲンロン5 幽霊的身体

ゲンロン5 幽霊的身体

 

シオカラ節に歌詞はいるのか

任天堂を背負っていくスプラトゥーン

スプラトゥーンは2015年に発売された任天堂の大人気アクションシューティングゲームである。ポップなカラーとキャラクター、BGMで新たな世界を作り上げ、今後10年20年と任天堂を背負っていくことが期待されている。2017年7月21日にはスプラトゥーン2が発売されることが決定しており、ニンテンドースイッチの品薄状態に拍車を掛けている。

サバゲーやミリタリーといったものの持つ男臭さや危うさ(それには政治的なものの含まれる)から開放されたことが勝因だろう。サバゲーの持つ戦略や連帯意識、爽快感をポップでカラフルに仕上げることで、男女かまわず人気となった。

フェティッシュな「音」

さらに特筆すべきは音である。インクがぽちゃぽちゃと地面にはじける音、インクの中をイカが泳ぐにゅるにゅるとした音に、飛び出すときのぶしゅーっという気持ちのよい発射音。キャラクターの色や造形と相まってかなりフェティッシュな仕上がりを見せている。それだけではない、BGMもまた、最高なのである。

www.youtube.comシオカラーズとは、スプラトゥーンにおけるアイドルだ。彼女たちのライブをみればわかるだろうが、曲には歌詞らしきものがあるのだが、なんと言っているのかはわからない。この言葉は「イカ語」と呼ばれており、対戦中などにBGMとして流れていても集中を削がない上に、曲にノッているうちにイカの世界に呑み込まれていくような役割を背負っている。

平沢進「sign」との共通点

「イカ語」はスプラトゥーン内の言葉だ。スプラトゥーンの世界観を担保に、「イカ語」はその存在感を確かなものにしている。しかし、それは私たちにとっては音でしかない。

この関係をみて私は思い出す。それは数年前の平沢進の「Sign」ブームだ。「Sign」には確かに歌詞があり、平沢の存在が、歌詞の世界の存在を担保していた。にもかかわらず、私たちには歌詞カードは与えられない。検索しても出てこない。平沢は「Sign」の歌詞を公開しなかったのである。

だからこそ「ワージッ!」から始まるファンによる歌詞の怒涛の二次創作が始まったのだ。

その後「Aria」では平沢自らが公認する形で二次創作が作られ、作品を台無しにする(褒め言葉)企画が行われた。それは聞こえたものを素直に書き取ったものから、日本語として無理やり聞き取ったために世界観と相反する内容になっているものまで多種多様で面白かった。

空耳レストラン―Aria―【修正版】 by 露沢 例のアレ/動画 - ニコニコ動画

しかし、台無しにするとはいっても、それは音の次元での話だ。平沢の世界観自体は、本人が自覚的に崩している部分はあるが、全く毀損されない。なぜならば、私たちは異国の曲の音だけを二次創作として膨らませるだけで、その異国の曲の意味までは台無しに出来ないからである(曲の歌詞が発表されていないのだから)。

名曲「シオカラ節」とマーケティングの失敗

しかし任天堂は「シオカラ節」というスプラトゥーン界きっての名曲に公式自ら歌詞をつけてしまう。

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カラオケなどで子どもたちが歌いやすいようにという配慮からだろうか。しかし、考えてみて欲しい。子どもたちには妖怪ウォッチポケモンなど歌う曲など無数にあるはずで「や うぇに まれぃ」などという歌詞から始まる曲の面白さはわからないだろう。「シオカラ節」を歌うのは大人だ。

そして大人は、音だけ与えられて、それが言葉になっていないときに創作意欲を燃やす。しかし、公式から歌詞を与えられてしまえば、それが唯一の正解となって、空耳や非公式の歌詞は間違いになってしまう。結果的にそのジャンルでの創作は伸び悩むことになる。

公式による歌詞は世界観を壊す

公式による歌詞の発表は二次創作を妨げるだけではない。それは世界観をも壊しかねない。私たちの中で最初「シオカラ節」は音と意味(これは隠されてはいるが)で分かれている。この時、二次創作は音のみを取り出してその内容を発展させる。だからこそ、どのような二次創作が行われようと、スプラトゥーンの世界は傷つくことも、揺らぐこともない。二次創作とは別の次元で「イカ語」を含む世界観が存在しているからだ。

一方公式が歌詞を出してしまうことは、(当たり前だが)二次創作よりもスプラトゥーンの世界自体を揺るがせる。何故なら、私たちはスプラトゥーン任天堂が作ったものだと知ってしまっているからだ。

二次創作において「や うぇに まれぃ」はファン(つまりは「イカ語」を解さない人間)が音として聞き取ったものだ。しかし公式が「や うぇに まれぃ」と発表することは「意味など存在せず、音だけがある」という事実を私たちに突きつける。このとき任天堂は、スプラトゥーンの世界観を毀損している。

「何を見せるか」から「何を見せないか」へ

スプラトゥーンの世界は本当は存在しない。そんなのはわかりきっていることだ。しかしわかっていることと、わかっていることをわざわざ見せ付けられることは違う。ジジェクは言う。「妻が浮気していると雰囲気でわかっていても、夫は寛容を装って「仕方がないか」と許します。しかし、その現場写真を見せられれば話は別です。」これはメディア全般に通じているといってもよい。報道においては全てを見せるべきだが、ゲーム会社は見せないことを上手く使って、世界観を守っていくべきだろう。

スプラトゥーンの世界は存在しないのだが、任天堂と私たちが共犯関係を結ぶことで、つまりはどちらも「存在しない」とは言わないことによって、存在している「かのように」私たちには感じられる。しかし公式の歌詞発表は張りぼての裏側を感じさせてしまった。もはや張りぼてを本物の景色に見せるのは、CGの技術ではなく、情報の統制によってである。それに任天堂は失敗した。

もちろんそれは売り上げに大きく響くということはないだろう。しかしもう既に、任天堂がゲーマーに一方向に発信する時代は終わりを迎えている。この時代、ゲームの出来云々と同程度に重要になるのは、ユーザーに何を見せて、何を見せないかだ。タレントの伊集院光が指摘するように、ゲームはそのリアリティを上げれば上げるほど、出来ないことや存在しないことの不自然さが浮き彫りになってしまう。これをどれだけ見せないかが次世代の鍵を握っていると私は考える。

 

Splatoon 2 (スプラトゥーン2)

Splatoon 2 (スプラトゥーン2)

 
Splatoon ORIGINAL SOUNDTRACK -Splatune-

Splatoon ORIGINAL SOUNDTRACK -Splatune-

 
Aria

Aria

 

「別に猫が好きではありません」

暇な女子大生もすなるTinderといふもの、やってみた

友人に勧められて、Tinderを始めてみる。まあ、なんというか気が滅入るようなアプリだ。女の子を「好き」か「そうではない」かで左右にスワイプし続けるのだが、これを裏側では女の子もやっているのだ。

無限の情報の波に運命という言葉が流されていく。私だって運命などという青臭いものを鵜呑みにしているわけではない。しかし、運命の欺瞞を白日の下に晒すというのも同じくどこか青臭い。人生の面白みを減退させる行為だ。オトナは運命の運命性を毀損しない。人生が面白ければ、それが一番よいのである。

Tinderを使えるほど私たちは「理性的」ではない

私たちはTinderが使いこなせるほど「理性的」ではない。現実に知り合った女の子に「スターウォーズ私も好きです。」と言われるのと、Tinderで出会った女の子に「スターウォーズ私も好きです。」と言われることは、やはり違うのだ。

恐ろしいのはTinderに運命性を毀損されて現実に知り合った女の子のスターウォーズ発言にまでも「おお!」と思えなくなることだ。Tinderは弱い酸のように私たちの現実を溶かしていく。(スターウォーズはファンが多すぎて、元々「おお!」とはならないだろうが、例である。)

そして私はどきっとする。

しかしこのアプリを通じて、面白い女の子に出会ったこともまた事実である。彼女とはスワイプするまでのほんの一瞬の出会いであった。(マッチしなかったのですね。だからTinderが嫌いなんじゃないか。笑)

黒いパーカーを着た、黒髪ショートの女の子。背景には赤や白のライトがきらめいている。都心の夜、といったところだろうか。

切れ長だがしかし大きい目がキリリと私を向いている。とても可愛い。漂うコーラ女子感。

zizekian.hatenablog.com

猫っぽい。この女の子自身も猫好きに違いn

このくらいのタイミングで私はプロフィールに目をやる。

 

「別に猫が好きではありません」

 

どきっとする。私が考えている2手先をいっている。

「よく猫っぽいっていわれます」

とかなら、どきっとはしなかっただろう。

この感性がすごい!

それにしても、この女の子の感性は素晴らしいと思う。友人とかに何度か言われたんだろうか。それともTinderでそんなやりとりをすることに飽き飽きしていたのだろうか。

やくしまるえつこ繋がりで言えば、なんとなく相対性理論の「さわやか会社員」のようでもある。

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彼女はこんなこと言われたくないだろうが、もう出会うことも無いだろうし、敢えて言おう。

「そういうところも、猫っぽい。」

 

ハイファイ新書

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フラッシュ オブ ドーパミン

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