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リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

読書コンプレックス‐Renta!というアプリのCMから

CM批評 マンガ コンプレックス 炎上 アーキテクチャ

Renta!というマンガレンタルアプリのCM

Renta!というマンガレンタルアプリのCMで、マンガを読んでいる女性(麻生久美子)に意識高い系の男がビジネス本を勧めるものがある。女性は男性に引きつった表情を見せ「難しい本読んでれば、マンガ読むよりエラいんですか?」という文字が画面いっぱいに表示される。最後には女性が部屋でまったりとアプリでマンガを読み、ゲラゲラと笑う。

www.youtube.com

私はこのCMにいつも違和感を覚えていた。彼女がこの男性を暗に批判することへの違和感ではない。そうではなくて、その批判の中に現れている錯誤への違和感だ。

ビジネス本=難解という錯誤

CMのなかではビジネス本と難しい本がイコールで結び付けられている。少しでも本を読む人ならビジネス本は難しい本とは考えないはずだ。これにはゲラゲラと笑わずにはいられない。しかし、この錯誤は笑って見逃せるものではない。この画面いっぱいに広がる批判は、本当にこのような意識高い系にのみに向けられているのだろうか。

ビジネス本を難しい本と取り違えるような人が、文芸書や人文書に向ける視線を想像してみよう。恐らく、漫画や雑誌以外のほとんどの本を難しい本とみるのではないだろうか。このCMが笑い飛ばそうとしているのは意識高い系だけではない。全ての読書家が笑われている。

偉そうに本を勧めるその態度が気に食わないのだ、と言う人がいるかもしれない。しかしそれでは「難しい本読んでれば、マンガ読むよりエラいんですか?」という問いは出てこないはずだ。難しい本>マンガという構造はこの女性が元々、心に持っているものだ。そしてこの構造が彼女にコンプレックスを与える。

彼女は、部屋でまったりとアプリで漫画を読み、ゲラゲラと笑う。しかし一点の曇りもなく楽しんでいるのならば「難しい本」を読む男の発言に顔を引きつらせることもなかったのではないか。彼女はどこかで、アプリで漫画を読む自分を蔑んでいる。

このコンプレックスを解消するためには、難しい本を読む人を批判すればいい。だから彼女は「難しい本読んでれば、マンガ読むよりエラいんですか?」と問う。もちろん難しい本読んでれば、マンガ読むよりエラいわけではない。でも本当は誰もそんなこと思っていないのだ。

CMは現代社会を映し出す

ここまで行ったのは、あくまでRenta!のCMの考察である。麻生久美子はもちろん、一般の女性(男性)が悪いわけではないし、CMが打ち出したいテーマとして内容は仕方がないということもあるだろう。しかしCMは広告代理店が作る。彼らは大衆の現在に正確に同期する。本当は大衆をバカにしながら、である。

news.nifty.com

しかしそれならば、このCMを見てスカッとする人も多いのではないか。そのスカッとした人こそが麻生久美子演じるこの女性と同じコンプレックスを抱えている。

志らく炎上から見る読書コンプレックス

最近も、立川志らくの本を読まない若者に対する発言が炎上した。

本を読みたくないという若者については「つまんない人生歩めば?」と匙を投げるコメントを投げかけ、スタジオの笑いをさらっていた。

news.livedoor.com

この言い方は(人を惹きつけるにしても)どうかとも思う。だからといって、炎上するほどのものだろうか。以下がその炎上した模様だ。

12. 匿名 2017/04/06(木) 17:56:55 [通報]
つまんないかどうかはあんたが決める事じゃない


13. 匿名 2017/04/06(木) 17:56:55 [通報]
本以外にもメディアは色々とあるのを知らないのかな?


14. 匿名 2017/04/06(木) 17:57:00 [通報]
本読んでるのに何でそんな嫌みったらしい言い方出来んの?

【女子の反応】有名落語家「つまんない人生歩めば???」本を読まない若者をバッサリ : ガールズ速報 がるそく!

例えば、志らくが「落語を聞かない若者は、つまんない人生歩めば?」と言ったとする。果たしてその発言は炎上するだろうか。「落語なんて聞かねえwww」という意見は出るかもしれないが、炎上はしないだろう。

私たちは(特に読書をしない人間は)本に対する過剰な思い入れを感じているのではないか。だからこそ、読まないことにコンプレックスを抱えてしまう。そのコンプレックスを解消するために読書を無意味なものとし笑い飛ばそうとする。もし人々が落語にコンプレックスを抱えているのなら、先ほど仮定した落語発言も炎上するはずなのだ。

引用した「14. 匿名」なんてハイパーだ。「嫌みったらしい言い方」は本読む読まない関係ないだろう。彼は落語家だ。キャッチーな言葉を使うのは職業柄だろう。本当に「本読んでる人は嫌みったらしい言い方をしない」と思っているのだとしたら「読書幻想」も甚だしい。本を読むことに対するコンプレックスがむき出しになっている文章だと言える。

アーキテクチャから見えてくる批判形式

14のような批判形式はツイッターなどでよくみられる。例えば、今年2月に上野千鶴子が「日本人は多文化共生に耐えられないから移民を入れるのは無理。平等に貧しくなろう」と言って炎上した。

togetter.com

上野の炎上に対し「上野を炎上させるような人が多文化共生していけるとは思えない」というようなツイートがあった。これも14と形式は同じだ。こちらの方が説得力があるが「多文化共生=他者に無批判になること」という暴論を密かに導入している。

「上手いこと言っている風」だが全く論理的でない。もしかしたらツイッターや2ちゃんのような長々と書けないアーキテクチャではこのような形式が威力を持つのかもしれない。しかしそれは感情的になっているに過ぎない。

なぜそんなに熱くなってしまうのか、そこに目を向けるべきだ。そうすることでコンプレックスの存在が、つまりは自分自身の問題が浮かび上がってくるはずなのである。

私は、批評が嫌われる理由もこれに関連していると考えている。しかしその説明を入れると長くなりすぎてしまう。後日に譲ろう。

 

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「中央線沿線」感と「郊外」感が交じり合う荻窪

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「中央線沿線」の魅力

中央線沿線には私たちを惹きつけるパワーがある。下北と並ぶ古着屋王国、高円寺。阿佐ヶ谷の持つ、若手芸人が住んでいる街感。西荻窪は「古きよき」がキャッチフレーズのテーマパークだ。

東浩紀 西荻窪は古本屋が多いので有名なんですが、そういう店に行くと、思想所とか文芸所とかサブカル本とかえらく豊富なんですね。新刊本屋でも普通にぼくの本が置いてありますし。(東浩紀北田暁大『東京から考える』p.33)

北田暁大 (西荻は)荻窪よりも人気があるでしょ?(東浩紀北田暁大『東京から考える』p.34 括弧内筆者による補足)

一方荻窪は・・・

一方、荻窪はどうだろう。これといった強みも見当たらず、商店街も賑わってはいない。先ほど挙げた街と違い、荻窪は土日も中央線の快速が止まる。住みやすいはずなのだ。それなのに、何故こうなったのか。

郊外はどこにでも入り込んでくる。吉祥寺や中野といった中央線沿線の大きな街に先に郊外的なものは入り込んだはずだ。吉祥寺や中野はそれでも大きな街だからイメージを壊されることがない。その後、土日も快速が止まるという利便性から荻窪にも侵攻してくる。そうして荻窪は駅前にドンキがある街へ変わっていく。小さな街のイメージは郊外的なイメージにすぐに感染する。基本的に郊外的なものは大きく、そしてギラギラしている。

はたして荻窪は他の中央線沿線地域に劣る街なのか。『東京から考える』から先ほどの続きを引用してみる。ここからは郊外→他の中央線沿線地域→荻窪という大きな迂回をしながら考えることにしよう。

郊外という名のヒリヒリとした現実

東浩紀 しかし、本屋に行って自分の読みたい本に出会うというのは、嘘みたいな気がするんですよ。そんな世界はぼくのために作られた虚構世界で、本当の現実は、ベストセラーしか置いていないTSUTAYAにある。そういう気がしてしまう。(東浩紀北田暁大『東京から考える』p.33)

本当の現実、東はそれを郊外的なものに見出す。というよりも利便性からいってそうなっていくのだ。大多数が読むことのない本は置かれない。イオンやドンキ、コンビニ的なものが世界を覆う。ファミレスに家族に行き、シネコンでハリウッド映画を観る。これが郊外だ。

私も長い間、辺境の地域に住んでいたが、この間帰省してみるとそこが郊外であることを強烈に実感させられた。よく実書店とアマゾンを比較して、実書店には本との出会いがある、という言説を見かける。私もそれに概ね同意するが、地元のTSUTAYAを目の前にしてはそんなことを口にはできない。売り上げランキングには映画化やドラマ化された本がずらりと並び、人文書に関してはランキング以前に棚すらもない。

それでもそのTSUTAYAは地元書店を廃業寸前に追い込んでいる。端的にいって、辺境の地域にはベストセラー以外は必要とされていない。もちろん、ブックオフにいったってマトモな本にありつけるはずもない。マトモな本を売りにくる読者がそこには存在しないからだ。

テーマパーク的地域の崩壊

そのようなマイルドヤンキー的世界観を地獄とみるか、それでよしとするか。意見は分かれることだろう。しかし着実に東京の郊外化は進む。「中央線沿線」感はテーマパーク的に保存していくのがいつか困難になる。テーマパークの崩壊は下北沢のようにアーキテクチャのレベルで起きる。郊外化は突然、しかも大規模な形でやってくるのだ。

大規模な地域の再開発によって、街のイメージが破壊されるとき思い知ることになる。開発への反対への動機がノスタルジックな幻想に基づいていたことに。いつだって高円寺的なものはマイノリティであるはずなのだ。便利なほう便利なほうへと移行するなかで、今あるイメージは容易に瓦解する。大多数の人間は郊外的なものを求めているのだ。なぜなら郊外はいつでも大多数の人間に合わせて設計されているからである。

荻窪、再び

それでは荻窪に戻ろう。荻窪は郊外が入り込んできたとはいえ、まだまだ「中央線沿線」感を保っている。駅前のあゆみBooks文禄堂のような街の本屋もサラリーマンたちで盛況だ。本屋Titleのように小さいながらも、密度の濃い本棚を提供する本屋もある。

そうすると必然的に荻窪ブックオフに置かれる本のラインナップも魅力的になってくる。私は密かに、地域の指標としてこの「ブックオフ本棚指数」を採用している。この指数は強い偏見を含んでいる(人文書だけが本ではない!)が、かなりの正確性を誇るといっていい。

書店だけでなく、昔ながらの居酒屋や食堂、おしゃれなカフェなども充実している。これといった目玉のない街だが、そこには様々な「中央線沿線」感が残っている。

しかし着実に郊外化もしている。ファミレスや24時間オープンのどでかいSEIYU。先ほど挙げたドン・キホーテ。大手100円ショップのキャンドゥなど。先ほどから悪の権化のように書いてきたこれらは、実際には荻窪を住みよい街にしている。時間を気にせず、生活に必要なものが全て安価で揃うようになっている。

実は今、荻窪はかなり住みやすい街になっているのではないか。

郊外先進地域としての荻窪

荻窪は「中央線沿線」と「郊外」が混合、共存するハイブリッドな街だと言える。そしてこれこそがもっとも理想的な街なのではないかと私は考える。本屋Titleを覗いて魅力的な本を買ったあと、家系ラーメンで舌鼓をうつなんてことができる街。しかも新宿や池袋などの巨大な都市とは違いのんびりと、である。

近い将来、荻窪の郊外性は増していき、ハイブリッドな街としての荻窪はなくなってしまうのかもしれない。そのなる前に、郊外になりきることもなく、郊外的なものの徹底的な排除でもなく、共存する方法を考え出さなければならない。

お母さんの日々の生活も、一人暮らしの大学生もそれぞれが適度に住みよい街。そんな街を構想しなければ、いつか再開発でドカンと地域の文化は崩されるかもしれないのだ。

「中央線沿線」感を残していく鍵は共存にしかない。荻窪には高円寺や西荻窪の未来が掛かっている。この点で荻窪は中央線沿線の先進的な地域と言えるのかもしれない。日本が高齢先進国を目指しているように、荻窪は郊外先進地域を目指すべきだ。

 

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

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本屋、はじめました―新刊書店Title開業の記録

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望星 2017年 05 月号 [雑誌]

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なぜサブカル批評家は北海道出身なのか

東浩紀 サブカルチャー コミュニケーション 東京 郊外

サブカル批評家の聖地、北海道

サブカルの批評家や作家は北海道出身者が多い。

東浩紀 実際、〇〇年代に入ると、言論人の出身地がそのひとの主張に大きな影を落とすようになる。たとえば、オタク評論の周りでは北海道出身者が目立っている。藤田直哉さんがそうだし、『ファウスト』系の作家では滝本竜彦佐藤友哉がいる。宇野(宇野常寛)さんも高校は北海道。彼らのリアリティはぼくの感覚とはかなりちがう。(『ゲンロン4』p.121 引用内括弧は筆者による)

加えてさやわかも北海道出身であったはずだ。なぜそうなるのか、考えてみる。それにはまず、私の話から始めざるを得ない。

まずは、私の話をしよう

私も辺境の地から東京へやってきた身である。辺境のサブカル野郎としてヒソヒソと暮らしてきて、大学進学とともに東京へやってきた。私の心の聖地は高円寺、である。

しかしだ。上京して数年が経ったが、私は高円寺にどっぷり浸かってはいない。もちろん下北にも、中野にも、秋葉原にも私の街だ!と感じることはない。それはなぜか。

そこで、これは私だけなのかもしれないが、辺境でサブカル野郎としてやっていた頃は、サブカルチャーをコミュニケーションツールとして使ったことがないことに気がついた。

サブカルチャーに意味はあるか

友だちはいた。しかし彼らは音楽で言えば西野カナや世界の終わりにハマっていた。彼らはド大衆であった。だから音楽の話はしなかった。アニメやマンガの趣味も合わない。好きなゲームも合わない。だからその話もしない。私は深夜のお笑いラジオが好きなのだが、それも誰も聞いていない。だからその話もしない。

それでも中学、高校は楽しかった。日々のこと、今起こっていること、その無意味で無内容なコミュニケーションが最高に楽しかった。コミュニケーションは本来、無意味で無内容でよいのだ。そこにこそ、幸福は住まう。

しかし、私のサブカルチャーとの関わりは孤立していった。私はサブカルチャーをコミュニケーションに使わないので、そこに意味を求め始める。サブカルチャーは、つまり一本の映画は、マンガは、アニメは、ゲームは、ラジオは、そこに内容=意味がなければならない。無意識にそう考えるようになっていった。

 コミュニケーションのためのサブカルチャー

これは都心のサブカル野郎やオタクには見られない心性なのではないだろうか。彼らは同じ作品を見ている沢山の仲間に囲まれている。だからそこにはサブカルチャーを介したコミュニケーションが起こる。それは最高に幸せなことだし、私も憧れる。

しかしだ。そこにはコミュニケーションのためのサブカルチャーという意味合いが次第に強まってくる。アニメについて語るには、そのアニメを無条件で肯定しなければならないような。

東浩紀 宮台さんの社会学を支えているのは、サブカルチャーが人格的なクラスター(集団)と連動すると言う前提です。つまり、サブカルチャーで重要なのは、内容よりむしろそれを介したコミュニケーションだということですね。(『東京から考える』p.145)

そこには批評がない。正確にいえば、批評が必要ない。

もちろん東京には批評がなく、北海道には批評がある、ということに短絡させようとは思わない。

 幻想の東京へ上京

しかし、上京してきて残念だったのはそのことが大きい。私は今までサブカルチャーでコミュニケーションをしたことがなかった。だからこそ、東京にそのコミュニケーションの可能性を夢見ていた。

東京には確かにサブカルを通じた人間関係が広がっていた。しかしそれは無意味で無内容なものが圧倒的だった。そしてサブカルに意味を求める私にはそれでは物足りなかった。

この私の思いは、完全にないものねだりだ。私自身もサブカルチャーを通じた有意義なコミュニケーションなどしたこともないし、どんなものかもわかっていないのだから。

しかし、勝手に東京にはそれがあると思い込み憧れていた。存在しないものを東京に見続けてきて、それに対して劣等感に近い憧れを抱いていたのだ。

なぜ北海道出身のサブカル批評家が多いのか。その由来はこの「(幻想の)東京への憧れ」があるのではないだろうか。

意味への意思と批評的思考

サブカルチャーをコミュニケーションに使えないこと。その不自由さが意味への意志となり、あるタイプの批評的思考が育っていくということは考えられるのではないだろうか。

そうでなければ私はどうすればいいのか。私のような辺境のサブカル野郎たちはどうすればいいのか。負け戦だろうと構わない。私は、辺境のサブカル野郎と運命を共にするつもりだ。

 

ゲンロン4 現代日本の批評III

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「けものフレンズ」と東浩紀『ゲンロン0』

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けものフレンズ」と『ゲンロン0』

けものフレンズ」が世間を沸かせている。東浩紀『ゲンロン0』も世間を沸かせている。私にとっての世間が狭い、という可能性は否定しない。しかし『ゲンロン0』によって「けものフレンズ」を語るということに意味がある、と考える。少なくとも私は楽しい。

『ゲンロン0』 第2部家族の哲学

『ゲンロン0』では、第五章から家族の哲学が展開されていく。ヴィトゲンシュタインの家族的類似性を用いて、私たちの類似性の感覚を問い直す。東は家族の概念を保守から取り戻し、現代のワードとして復活させていく。

そこではピーター・シンガーの議論が持ち出される。シンガーは徹底的な功利主義から人間の新生児よりも成熟したチンパンジーのほうが高い「人格性」を持つので法的に守られるべきだとした。それは論理的には正しいのだろう。しかしやはり私たちは、新生児よりもチンパンジーを優先することは不自然だと考える。それはなぜか。

東はそれを類似性の概念を拡張することで説明している。私たちは、ペットの犬や猫、ハムスターまでも家族と感じる。それは「ペットも家族である」という比喩の域を越えている。私たちは「ペットは飼い主に似る」と言って類似性を感じている。いまやペットのためなら自らの命も惜しまないという人がいることを否定できない。

新生児への愛は実はここから来るのではないか、と東は考える。新生児は成熟した私たちからは遠い存在だ。人間と動物との距離がそこにはある。しかし、高い「人格性」のない新生児に人格を感じとり、そこに愛を感じる。私たちの新生児への愛は、実は既に愛(類似性)が種を超えることの証左なのではないか。そのような愛(類似性)による柔軟なつながりこそが家族なのではないか。

 「けものフレンズ」への接続

ここで「けものフレンズ」の話をしよう。フレンズたちは「動物がヒト化したもの」だという。

フレンズたちはデザインも人が動物のコスプレをしているような形で、あの独特のCGに慣れてしまえば親近感が沸いてくる。彼女らは生態にあわせた性格を備えていて、ツンデレキャラのようにアニメの文脈に慣れた私たちにとっては、すんなりと受け入れられるものだ。

アニメ内では飼育員による登場動物の生態の説明があり、フレンズとリアルの動物の往来を体験することになる。それはアニメのキャラとしてのフレンズと、リアルの動物の境界を曖昧にしていく。

けもフレ」を観た後、もはや私たちは動物園のサーバルキャットを何の抵抗もなしに「サーバルちゃん」と呼ぶだろう。現実のサーバルキャットを見て、サーバルちゃんと会った気分になってテンションが上がるだろう。

しかしこれは「けものフレンズ」が動物に人間性を与えた作品だというよりも、むしろ私たちが動物に人間性を感じるからこそヒットした作品だと言えるのではないだろうか。

以前からケモナーと呼ばれる人々がいる。

モナーとは、同人ジャンルにおける「ケモノ」を愛好する者、というような意味のスラング。この「ケモノ」には獣人も含まれていると思われる。kemono + er でケモナー

モナーとは、ケモノを愛する者、もしくはその様を指す造語(スラング)である。具体的な愛好対象範囲について知りたい人はケモノを参照。

ピクシブ百科事典)

中には性の対象としてケモノをみる強者もいるようだ。性の対象として、或いは萌えの対象としてケモノを捉えられる、ということ。この私たちの愛の所在にこそ希望がある。

けものフレンズ」を土壌に繰り広げられる哲学

家族の哲学を立ち上げる際に、既存の言葉で語れば(赤ちゃんを愛することが大切だ、など)その言葉は正しく伝わっていかない。肯定的にも否定的にも「家族」という言葉に過剰に反応してしまう人がいる。それは今、家族という言葉が置かれている状況からくるものだ。東はそれを巧みに避けていく。

東は新生児の愛=動物への愛という構図にしていく。しかしこれも以前であれば抵抗感が強い言葉であるはずなのだ。ケモナーはおそらく「けものフレンズ」の登場まで、特異な存在であったはずである。しかし「けものフレンズ」は私たちの愛が容易に種を越えていくことを自覚させてくれた。

ネタバレを恐れずに言うと、かばんちゃんが(動物としてのヒトがフレンズ化した)フレンズからヒトに戻るシーンを考えるとわかりやすい。あのシーンでかばんちゃんは動物としてのヒトから人間になっている。でも私たちは、動物としてのかばんちゃんも、人間としてのかばんちゃんも同じように類似性=愛の目線でみることができる。これは類似性=愛が種を越えることを端的に示している。

この「けものフレンズ」が作り上げた議論の土壌を舞台に繰り広げられる哲学、それが『ゲンロン0』の第2部、家族の哲学だ。『ゲンロン0』は時代の流れさえも味方につけている。或いは、東浩紀は意図的に時代を味方につけたのだ。彼のひとり勝ちはこれからも続いていく。しかも恐らくこれからは顕著な形で。

 

ゲンロン0 観光客の哲学

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哲学探究

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『神の悪フザケ』マンガ批評「自己否定的な自己愛の迷路―暴露と欺瞞」

マンガ 齋藤環 ジジェク 心理学 マンガ批評

壮絶な鬱マンガとしての『神の悪フザケ』

私はこの漫画を読み終えるのに、漫画一冊ではありえない期間を要した。それは時間が掛かったということではない。この漫画の情報量は多いわけではない。そうではなく、読み続けることができないのだ。めまいがしそうなほど醜い世界が描かれているからである。しかもその世界は私と無関係ではない。過去に私に、または周りの誰かに起こっていたことをアンプで増幅させているかのような世界なのである。

こんな醜いことは、私の中高時代には起こっていなかった、と言いたい。しかし私の記憶から、過去のクラスメイトが溢れてきて、否定することができなくなる。彼らは私に「そんなことはなかった」とは言わせない。私はこの漫画から上手く距離を取ることができない。だからせめて、この漫画の抱える「どうしようもなさ=絶望」について本当にどうしようもないものなのか、と問うてみたいと思う。

 絶望を露呈させようとする衝動

この漫画を描いた山田花子は、92年に自殺している。そのことについて稚拙ではあるが考えてみたい。まず、この作品に流れる通奏低音は、絶望を露呈させようとする衝動だと言えるだろう。これは斎藤環の『キャラクター精神分析』のなかにある「自己否定的な自己愛」と呼ばれるようなものである。

彼らは一種の「負け組」意識を共有しており、そうした負の刻印は運命的なもので、努力やチャンスでは変わりようがないと確信しているかのようだった。一見自己嫌悪に見えるほどの否定的な意識は、しかしその確信ぶりにおいて「自己否定的な自己愛」と呼ぶに値する。(斎藤環(2014)『キャラクター精神分析―マンガ・文学・日本人』筑摩文庫 p.41)

これは2008年に多発した通り魔の容疑者についての一文であるが、この自己についての否定的な確信は山田の特徴も捉えているのではないだろうか。山田はこれでもかと追い討ちをかける手法が得意であるようだ。醜い男の子の心が善良でないこと。醜い女の子が男の子にフラれた後、クラス中から「男の子がかわいそうだ」と攻められてしまうことなど。

それらの描写を通じて、どうしようもないやつは本当にどうしようもない、ということを笑いにしている。彼女にとって少年ジャンプのような「友情」「努力」「勝利」は欺瞞である。或いはクラスの人気者たちだけが味わえる栄誉なのである。山田は醜い者が心優しいという既存のエンターテイメントの表現を笑う。醜い者も(皆と同じように)心も醜いといった具合である。

 『ナチュラル・キッド』に表れる山田花子の思考様式

本漫画には女の子を主人公にしたものの他に『ナチュラル・キッド』という作品が収まっている。知的に障害があると思われる児童の物語である。その中で、山田の心の声のような描写がある。

もともと人間は不平等。宿命(能力等)の違いを認め合うのが本当のいみでよい社会だと思うんだけどなあ。(山田花子(2000)『神の悪フザケ』青林工藝舎 p.156)

わからないことはない考え方である。彼女は平等という欺瞞を剥がそうとしている。その先の絶望を露呈させようとしている。「不平等であることを認めてしまえ、皆もわかっているのだろう」と言っているように聞こえる。小学校時代、普通学級で何らかの障害があるだろう子と一緒に授業を受けたりすると、そのことを考えさせられたものだ。ここで授業を受けることが、本当に彼にとって幸せなことなのかと思うのだ。だからこの考えがシニカルで冷静で現実的であるように見えてしまう。しかしここには大きな絶望の落とし穴がある。

 そして絶望へ

山田の考え方、つまり平等という欺瞞を剥がして例えば、誰かが私より先に会社で昇進を果たすということについて考えてみる。すると私は彼が上司に気に入られたせいで昇進したのだと考えることができなくなってしまう。それは欺瞞なのだから。私が彼より劣っているから昇進できなかったのだということになる。

昇進と能力がイコールで結びつくことは、耐え難いことだ。このように平等という欺瞞を剥がしてしまうと、その世界の弱者を救い出すことは絶望的に困難である。救いの手を差し伸べようとしたとたん、それは救いようもない生来の弱者ということになってしまうからだ。山田は恐らく平等の欺瞞を剥がしたとき、自身がその不平等による弱者側であると考えていただろう(でなければ欺瞞を剥がそうとは思えない)。そして山田は自らの論理で自己を傷つけることになる。自らの論理で自らを救いようもない生来の弱者にしてしまう。それが無意識的であったにせよ、「そんなことはわかりきっていた」にせよである。先ほども言ったように、これは「自己否定的な自己愛」である。私たちは自らに刻まれた負の刻印を運命的なものだと思い込んでしまう傾向がある。

絶望の隠蔽という希望

資本主義は「公正」でないという事実は、資本主義を大衆にとって受け入れやすくする重要な特徴なのである。わたしの失敗はわたしの能力不足によるのではなく偶然による―そう分かれば、わたしは失敗してもずいぶん楽に暮らしていける。(スラヴォイ・ジジェク(2008)中山徹(訳)『暴力-6つの斜めからの省察』(2010) 青土社 p.114)

しかしジジェクが言うようにそれでは「楽に暮らしていけ」ない。皮肉の篭ったこの文章は「絶望の隠蔽」という山田とは逆の考え方を提示している。絶望の隠蔽という欺瞞は、無意味なものではない。むしろ大きな役割、心と現実の間に滑り込みその関係をソフトにするという役割を果たしている。しばしばその覆いは現実そのものよりも重要であったりする。

会社で自分が出世できないことが、上司に好かれていないからだと、思うことができれば、私は働き続けることができる。そして私が出世したならば、それは自分の頑張りによるものだと思うことができる。これらの思い込みが事実であるかはさほど重要ではない。私自身が納得できれば物語であろうと問題はない。絶望を覆う隠蔽の最大の機能は、様々な物語を生み出すことを可能にすることにある。

子どもたちがヒソヒソ話で盛り上がれるのは、その内容が面白いからではない。ヒソヒソ話の面白さは隠れていることによって、私たちにそこには重要な何かがあるのだと思い込ませることにある。隠れているというその事実が重要なのである。私には山田がヒソヒソ話の内容を知って、つまらないと言っているように見える。絶望を露呈させることには、確かに強烈なリアリティがある。世界を「わかった」感じを与えてくれる。しかし、絶望を覆い隠しているものを無碍にしてはいけない。そこから物語が生まれるのだ。そして人生の面白さは物語に住まうのである。

 

定本神の悪フザケ

定本神の悪フザケ

 
暴力 6つの斜めからの省察

暴力 6つの斜めからの省察

 

『パンズ・ラビリンス』映画批評「ファンタジーと現実を繋ぐ発想の転換」

映画批評 映画 心理学 コンプレックス

映画『パンズ・ラビリンス』批評

今回は『パンズ・ラビリンス』の批評を。かなり論理の飛躍、恣意的な読み取りが見られるのはご愛嬌。

主人公の少女オフェリアは最初、これから巻き込まれるファンタジーと類似した物語を読んでいる。そして行き先は、新たな父のいる山奥の戦場である。彼女は、母が妊娠中の長旅で具合を悪くしている間にナナフシと出会う。彼女はそれを妖精だと信じこむところから映画は始まる。

オフェリアは妖精に導かれ、迷宮の中の地下と繋がるところに行くことになる。そこで、悪魔とも神とも見えるような容姿をした地下の番人パンと出会う。彼はオフェリアに、3つの試練を課し、その試練が浮かび上がる本を彼女に授ける。この本を開くのは、彼女が一人でいる時でなくてはならず、さらに彼女の母が苦しんでいるときには血が浮かび上がるような本である。そのためこの本は、彼女の思うことが浮かび上がってくる本だと言える。そしてそれは、この本を起点に進むファンタジーそのものがオフェリアの幻想だということを表明しているように思われる。

オフェリアが試練の中で、反抗するのは1度だけである。それは、盲目の怪物の目の前に置かれたぶどうを2粒食べてしまうことだ。第一の試練でオフェリアはグロテスクな虫やカエルの体液のようなものから逃げ出さず、鍵を発見することに成功している。ここの時点では、不快であっても忠実に試練に耐えている。しかし第二の試練では、盲目の怪物に殺されたであろう大量の子どもの靴があるにもかかわらず、危険を冒してでもぶどうを食べてしまう。これはなぜなのかについて考えてみたい。

ファンタジー=現実逃避のための装置

私はファンタジーの世界を、彼女の作り出した現実からの逃避の装置であると考える立場をとる。その視点で考えると、オフェリアはぶどうを食べることで、ファンタジーの世界から抜け出し、普通の人間として生きることを決めているように見えるのである。

オフェリアが第一の試練を乗り越えた後、次の試練にすぐに進まなかったためにパンが枕元にやってくる。そのとき彼女は、母親の体調が良くないからだとパンに弁明する。しかし或いはこうも考えられる。母親の体調が良くないという耐え難い状況に追い込まれたからこそパン(という幻想)が枕元に登場したのだと。

そこで、母親の体調が良くなるという、マンドラゴラを受け取る。或いは、オフェリア自身がマンドラゴラというものを作り出し、信じることで落ち着こうとしている。彼女は(彼女の作り出した)マンドラゴラで母親を救おうと考えた。それは、彼女にとって現実世界における希望である。彼女は逃避先のファンタジーの世界で現実世界の希望を得る。このアクロバティックな論理で彼女は、(無意識的にではあるが)人間として成長を遂げようとする。

オフェリアはなぜぶどうを食べたのか

その後、オフェリアは第二の試練に挑戦している。試練はファンタジーの世界のお話を進めるためにある。つまり彼女がより、どっぷりとファンタジーの世界に浸かるため、より現実から逃げるために試練を受けている。この試練をクリアすれば王女への道に一歩近づくことを意味しており、これは彼女の表の欲望である。しかし、無意識では人間的に成長しようという欲望があり、そのためにはファンタジーにのめり込み過ぎてはならない。

だからこそ、彼女は現実とファンタジーのどちらを選ぶのかという葛藤に巻き込まれることになるのだ。最終的に、妖精の制止を振り切って彼女がぶどうを食べるのは、ぶどうが食べたかったからではない。葛藤の中で、現実世界で生きるという選択をしたからである。これは禁断の果実を食べ、楽園を追放されるアダムとイヴを想起させる。

そう考えると、怪物に食べられ靴だけを残すことになった子どもたちは、ファンタジーの世界から抜け出し、現実世界で生きることを決めた者たちが散っていった姿なのではないかとも考えられる。そして、残念ながらオフェリアも自らが選んだ現実世界の厳しさの前に散ることになるのである。

命からがら第二の試練から還ってきたオフェリアは、やってきたパンにぶどうを食べてしまったことを明かす。しかしパンは、オフェリアが試練を果たし戻ってきたはずであるのに、ぶどうを食べるという失敗のために王女への道が閉ざされたと告げる。もともとパンはオフェリアの命のために、怪物の目の前に置かれたものを食べることを禁止したはずである。試練を達成したのに王女にはなれないという、ここには小さな矛盾が起きている。   

これは、オフェリアがパンという存在と決別し、現実の世界を生きていくという決断なのだ。彼女はここで、普通の人間として生きていくことを嫌がっているが、無意識的には成長し、普通の人間になることを望んでいる。母のために生きようとしている。パンがオフェリアを見切るのではなく、オフェリアがパンと別れようとしているのである。

度重なる勇気くじき

しかし、それもうまくはいかない。まずはマンドラゴラを育てる姿を義父である大尉に見つかってしまう。そしてそれを、オフェリアが助けようとした母自身の手で焼かれてしまう。母親はオフェリアをファンタジーの世界から現実へ引き戻そうと焼くのだが、実はマンドラゴラ自体がオフェリアを現実へ戻す鍵だったのだ。オフェリアの目からはマンドラゴラが焼かれることで母という守る対象(それは守ってくれる対象でもある)が死ぬことになる。

そして、厳しすぎる義父のもとから離れるために、メルセデスと逃亡を決行する。メルセデスは、義父と、義父を優先する母よりもオフェリアのことをわかる存在である。しかし、その逃亡も失敗に終わり、メルセデスレジスタンスであることを黙っていたという罪で父親にぶたれてしまう。これは明らかに父が子にとる態度としてはありえないものである。

このような度重なる現実世界による勇気くじきによってオフェリアの前には、決別を告げたはずのパンが戻ってきてしまうのである。パンは、弟を抱いて、迷宮の中へ来いという。ここで一度、大尉であり弟の父親、オフェリアの義父の話をしよう。なぜ弟を連れて行く必要があるのか、その手がかりは義父にあるのだ。

義父の抱えるコンプレックス

大尉である義父は、父子関係というものに強いコンプレックスがあるように見える。ウサギ狩りをしていた父子を捕まえた際には、父を擁護する子を執拗に殴り、最終的に二人を殺すのである。かばんの中にはウサギが入っており、無実であったことがわかるが、反省の様子はない。また、父が死ぬ時刻を残していた懐中時計を自ら修理し使っている。そしてそのことを他の人間には隠している。妻の腹には男児がいることを信じて疑わず、妻の生命よりも男児の生命を優先するように医師に伝える。

おそらく、彼は亡き父親を恐れており、また自らが恐れられる父親のポジションに着くことを夢見ている。そして、オフェリアはこの義父の息子への思いに気づいている。だからこそ、パン(彼女に命令を下す者)は義父が大切にしている弟を迷宮に連れてくるようにいうのである。つまり、後の試練が弟の血を捧げることであるように、オフェリアは隠れた弟への攻撃性をそのファンタジーに込めるのである。オフェリアは、義父への復讐と、義父の愛情が弟へ注がれることへの嫉妬を、パンの与える試練として自らに課すのである。

 オフェリアを救うアクロバティックな論理

しかし、オフェリアは弟を傷つけることができなかった。そして追ってきた義父に殺されることになるのだ。オフェリアは試練を乗り越えられなかったが、しかし復讐心と嫉妬心に打ち勝った。彼女が最後に見るファンタジーの王国は弟の代わりに自分が傷つくことによって開かれた。現実世界での栄誉が今度はファンタジーの世界での希望となるというアクロバティックな論理がまたもや登場する。

他者の苦しみを、我が苦しみとして引き受けることで立ち上がる希望、誰にも代替不能な責任を引き受けることで立ち上がる主体性。私はこの極限の構造をレヴィナスの「アブラハム的主体」やフランクルの『夜と霧』で知っている。彼女は最期に、自らの死を無意味なものから意味あるものに変えたのである。対照的に、大尉である義父はこの後すぐに殺されるのだが、彼は自らの死を息子に意味づけしようとするが、新たな母親になるだろうメルセデスに打ち消されてしまう。彼は息子に、自分の死んだ時刻はおろか名前すらも伝えられない。彼はいままでの残虐行為を、自らの死の無意味をもって償うことになるのである。

 

『モモ』書評「システムの無謬性と想像力の欠如」

齋藤環 心理学 書評 東浩紀

『モモ』に描かれる世界のシステム

幸福のために限りある時間を有効に使おうとする。その振る舞いは間違っていない。しかし人々が時間に対して過度な合理性を求めると、今度は合理的に時間を使うことが目的化されてしまう。つまり、なんのために時間を切り詰めているのかという部分を忘れてしまう。

うつ病の妄想には貧困妄想というものがある。自分は貧困状態にあると思い込んでしまうというものだが、ここでのお金が『モモ』では時間に置き換わっている。 

『モモ』では世界の細かな状況は明らかにされていないが、今日、私たちが読んでも深い感動を覚えるのは、時間に追われる世界というものに私たちがどっぷり浸かっているからだ。そして残念ながらそこから抜け出すことはできそうにない。時間に追われる世界を構成しているシステムは、もはや私たちの一部だからである。

いまや「システム」とは、単に「利用するもの」ではなく、「我々に存在根拠を与えるもの」なのだ。われわれはシステムを日々利用して生きるのではない。むしろわれわれは日々、システムによって〈生かされて〉いるのだ。(斎藤環(2016)『承認をめぐる病』筑摩文庫 p.234)

斎藤環は『承認をめぐる病』のなかで、システムと人々の関係を原初的な母子関係になぞらえて考えている。万能の母親=システムに依存し、人々は万能感を調達する。ここではシステムは人々の自己愛の一部に食い込んでしまっている。

灰色の男 と経済の論理

『モモ』のなかでも灰色の男の登場後は、(システムの典型である)ファストフード店など、人々がピリピリとしている場面が多く描かれる。これはファストフード店という(安く早く食事が提供される)システムとそれを運営している不完全なニノの分裂による怒りだ。システムの絶対視からくるのは、ミスを犯す人間へのほとんど義務のように湧き上がる怒りである。

ここで時間泥棒、つまり灰色の男たちについて考えてみたい。灰色の男たちの所属が時間貯蓄銀行というのは面白い。これは灰色の男たちは時間というものを、経済の論理で語るということを端的に表している。例えば、理髪店のフージーは毎日、車椅子の女性に花を持っていく。それを灰色の男は無駄な時間だという。私たちはそれを読み「なんて酷い論理だ!」と思うだろう。しかしこの論理は、長谷川豊の人工透析自己責任論や相模原障害者施設殺傷事件という形で私たちの身近なところにまで侵食してきている。人工透析自己責任論などを聞いていて思うことは、彼ら自身がその立場になることを全く考慮していないということだ。ここでは想像力が欠如している。

灰色の男たちは時間の計算を平坦に行う。日常を数百倍、数千倍と引き伸ばして生涯を算出する。つまり日常のつまらなさ、変化のなさを強調する形で人々に語りかけるのだ。このような論理に言いくるめられてしまうのは、フージーに「未来もきっと変わらないのだ」という確信があるからだ。これも想像力の欠如といえる。この一致は偶然であろうか。

また、灰色の男たちは人間から時間を奪うのに、基本的にはなにもしないということも象徴的だ。一度、時間の使い方について人々に語るだけで、その後は勝手に人々が時間に追われ始めるのだ。システムは根付いてしまえば、人々自身に食い込み自動的に稼動し続ける。

システムの外部にいるモモ

ここでやっとこの物語の主人公モモについて考えてみる。モモはカシオペイヤに導かれて、マイスター・ホラと出会ったただ一人の女の子だ。モモは勉強ができたわけでもなく、特別に勇敢だということもない。しかし彼女は時間の核心に行き着いた。それはなぜか。

モモは浮浪児だ。どこから来たのかも、何歳なのかもわからない。その点で彼女は完全にシステムの外側にいる。だからこそ、周りの人間はモモに救われる。モモは喧嘩や悩みを解決するだけではなく、よく遊ぶために大切な存在だ。傾聴に徹するカウンセラーのようにモモは何をするわけでもなく、その場にいることが大切なのだ。
モモは時間を使うとき、合理性や効率などを考えていない。モモは熟考するベッポや物語を語るジジと仲がいい。彼らといる時間が無駄だとは一切考えない。そしてこれこそが時間の本質を捉えた過ごし方なのだ。

けれど、時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです。(ミヒャエル・エンデ (1973)大島かおり(訳)『モモ』(1976)岩波書店,p95)

モモはシステムの外側にいることで、時間の核心にたどり着いた。そして人々を救うために戦い、世界に時間=生活を取り戻してみせた。しかしモモのような戦いをシステムにどっぷり浸かる私たちにできるだろうか。最後にひとつ『モモ』を読んでいて思い出したことがある。これが現代人におけるシステムとの折り合いのつけ方のヒントになるかもしれない。

フードコート授乳問題と東浩紀

だいぶ前の話であるが2017年1月11日の朝日新聞に「授乳室があるのにフードコートで授乳している人がいて迷惑だ」という投書がありツイッターで話題を呼んでいた。確かに、公の場で授乳することにイヤだという人はいるのかもしれない。そしてイヤだと言う事も制限はできない。現代ではイヤだという言葉は拡散されて私たちにまで届く。まるで私たちの総意であるかのように。

これに対し批評家の東浩紀ツイッター上で「イヤな人がイヤだというのは勝手だが、それを無視するのも勝手だ。」と発言した。これは母親を擁護するありきたりな発言であるように見える。しかし、考えてみるとかなり鋭い指摘であるのではないだろうか。

ここで重要なのは東が、子育ての大変さについての「思いやり」などに言及しないことだ。もちろん東は「思いやり」で済ますことが「正しい」問題だとわかっているはずだ。しかし「投書した人もこれから結婚して子どもを生んだらわかる」などとは言わない。恐らく感覚的に、そんなことでは解決できないことに気がついている。思いやりすらもシステムが担う時代になっている。それは一見、便利なようでいて私たちから思いやりの想像力を奪うのだ。

フードコートに授乳室があるのは私たちの優しさからではない、システムとしてあるのだ。そしてシステムからはみ出た人間に、システムに生かされる人間は怒りを覚える。この時に私たちは想像力が働かなくなる。

そこで東は無視してもいいのだと言う。つまり、システムから聞こえる声を聞かないという選択を勧めるのだ。相手を変えようとするという意見に対し、あなたが間違っていると返すのではない。柔らかく言えば「そういう意見もあるよね」と受け流すのである。

 エンデとポストモダン

ミヒャエル・エンデは『モモ』のあとがきで、この物語が「将来起こること」であることを匂わせている。エンデは『モモ』を1973年に著した。これはポストモダンと言われる時代の少し前にあたる。しかし『モモ』は「システムによって生きる」から「システムによって生かされる」ように切り替わるポストモダンの世界を巧みに描き出している。

その解決は児童文学らしく夢に溢れているが、扱う問題が私たちに馴染み深いだけに考えさせられてしまう。便利さと生きにくさが加速するシステムのなかにあって想像力を持ち続けられるか。それを考える「時間」くらいは盗まれずにもっておきたいものだ。

 

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 
承認をめぐる病 (ちくま文庫 さ 29-8)

承認をめぐる病 (ちくま文庫 さ 29-8)

 
ゲンロン0 観光客の哲学

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