リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

人工知能時代の主体とは何か―行為責任の観点から

AIの時代に必要な能力とは

人工知能は今後次第にネットワーク化されていくだろう。次の時代の人間に求められているのは人工知能に代替不能な能力だ。

総務省のAIネットワーク化検討会議(2016)によれば,人工知能に代替できない能力は創造性,再編成能力,ホスピタリティだとされている。しかしこれは非常に上手く,仕事をしていた人間と人工知能とが置換されることを前提としている。それには人工知能と人間が置き換わること,それ自体を許容する能力が不可欠だろう。果たして,今の私たちにその能力があるものか,どうか。

なんとなく信頼ができないのはなぜか

例えば,外国語の翻訳において,ある人工知能の精度が人間を越えたとしよう。すると,その人工知能はいかなる通訳者よりも正確に通訳できるということになる。それでは,首脳会談などの重要場面での通訳も,その人工知能に任せることができるだろうか。私たちは「なんとなく信頼が置けない」とは感じてしまうのではないだろうか。

なぜ正確であるのに信頼できない,ということが起こるのだろう。人間が理性的な存在ではない,本当にただそれだけのことなのだろうか。人工知能とどう共生するのかを考える上で,この「なんとなく」の問題を避けることはできないだろう。

補足すれば、「なんとなく信頼ができないのはお前がバカだからだ」という説がこれから必ず出る。というかもう出ているだろう。ただそういう人間は相手にしなくて良い。彼らは自分が最先端の人間であることをアイデンティティに据えたいだけなのだ。そのためには「遅れている大衆」が必要である。

社会にAIを本当に普及させたいのならば、その大衆を啓蒙すべきだが、彼らはそうしない*1。なぜならば彼らにとってこの問題は、社会の未来についてではなく、彼らが今アイデンティティの基礎に据えているものについての問題でしかないからである。彼らは人間が時に非合理的に振舞うことを軽視している。彼ら自身も非合理的に啓蒙することを避けているのに、である。

AIには責任が取れない

記号処理ではなく,パターン認識人工知能は必然的にブラックボックスになってしまう。そしてブラックボックスであることの問題は,どうして間違えたのか説明できないということにある。つまるところ,人工知能には責任を取れないのだ。

人間の通訳は,自らのミスについて説明ができる。「語学力が足りていなかった」,「誰かに通訳を歪ませるよう脅された」など。そして「バッシングを受ける」,「仕事がなくなる」など責任を負うことになる。ミスによる説明が真実であるかは別としても,私たちはそこへの想像力を働かせることができる。だからこそ,私たちは通訳を信頼できる。

一方,人工知能のミスの責任はどのように処理されるだろうか。膨大な量のデータを学習してきた人工知能のどこに問題があったのか,それは容易にはわからない。であるばかりか,責任の取らせ方さえもわからない。私たちは,その問題の人工知能をデリートしたとしても,責任を取らせたとは思えないだろう。ましてや自動運転など,人命にかかわる人工知能ならなおさらである。それでは人工知能の開発者にその責任を問う,ということはできるだろうか。しかし,それも現実的ではないだろう。開発者にとっても,人工知能ブラックボックスなのである。

生殖・生命とAIの関連性

このように,人工知能の行為については,誰も責任が取れない。行為の主体(と便宜上呼ぶ)である人工知能にも,開発者にも責任を追及できないものについて,私たちはどのように向き合えばよいのだろう。ここで考えるべきは,最も通俗的な無責任的行為である,生殖についてである。

世間では「子どもは親を選べない」と言ったりするが,それは哲学的には不正確である。子はたしかに親を選べないが,そもそもほかの親を選んだら自分が自分でなくなるのだから,その想定には意味がない。本当の意味での「選べない」,すなわち偶然性に曝されているのは,むしろ親のほうである。
東浩紀(2017)『ゲンロン0』ゲンロンp.217)

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

子どもは親が思うようには育たない。だから,親は本質的には無責任であり,責任を取ることができない。しかし,それでもなお,『ゲンロン0』で著者の東は,「親としても生きろ」と言う。このとき彼は,生物学的な親のことだけを言っているのではない。そうではなくて,象徴的,文化的な親を含む大きな概念の話をしている。それならば,この親の概念を人工知能における開発者に拡張できるのではないだろうか。人工知能は人間の子どものような存在なのだから。

ディープラーニングの場合,なんとなく脳っぽいものを作って,なんとなく学習を繰り返していくと,「あっ,なんかできちゃった」って。だから,既存の学者先生たちから見ると,すごくズルしているようにも見えるし,これは研究対象にならないって言うわけですよ。極端に言えばサイコロを振る機械の研究をしてどうするんだ,と。
(清水亮(2016)『よくわかる人工知能』ASCIIp.261)

『よくわかる人工知能』は対談の形をとっているので,軽い調子で書かれているのだが,それでも,この文章はパターン認識人工知能の開発者の本音を表しているのではないだろうか。だとすれば法律などによって,人工知能の行為の責任を開発者が負うということを定めてしまえば,人工知能の開発自体が減速することは明らかだ。

これからの人工知能の研究には,ある種の無責任性が必然的に伴う。もちろん開発者に,倫理的責任がないというのではない。しかし,「こう育てたい」と願い,入力するデータを取捨選択しても,完全に制御することができないのは事実である。そしてそれは,私たち人類に共通の出来事である生殖においても同じなのだ。

責任を取ることはできない

私たちが取り扱っているのは,もはや便利な機械が誤作動する,といった次元の話ではない。これは新種の生命に近い,不気味な何者かについての話だ。その何者かは,私たちが責任の所在を問うた時に,責任とは何か,と問い返してくる。人間も人工知能同様に,無責任的に増えるではないか,と。責任能力とは人工知能に代替不能な能力なのではない。人間さえも持たない能力なのかもしれないのだ。

例えば,先の通訳の例において,人間の通訳ならば,責任を負うことができると言ったが,それは本当だろうか。人間でさえも,国家間の関係を緊迫させるような行為の責任は負えないのではないだろうか。いや,責任を取ることができることなど本当にあるのだろうか,というように。

「責任取れよな」という言葉は,「おまえには永遠に責任を取ることができない」とう呪いの言葉です。「これこれの償いをしたら許されるであろう」と言っているわけではありません。
内田樹(2015)『困難な成熟』夜間飛行p.22)

困難な成熟

困難な成熟

 

親と成人ー成熟するということ

著者の内田は,責任について絶望的な説明をしながらも,次のようにも言う。責任は誰にも取ることができず,また人に押し付けるものでもなく,引き受けるものだ,と。それは,彼がユダヤ人哲学者レヴィナスの研究者だからこそできるアクロバティックな論理展開である。

アブラハムの主体性は,理解を絶した主の言葉をただ一人で受け止め,それをただ一人の責任において解釈し,生きたという「代替不能の有責性の引き受け」によって基礎づけられる。
内田樹(2011)『レヴィナスと愛の現象学』文春文庫p.98)

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

 

人工知能時代の主体とは,意志―責任から想定される能動的な主体ではない。理解不能な外部からの行為を引き受ける,受動的な主体である。しかも,この「引き受け」は,人に押し付けられるものではない。なぜならば,「あなたは私以上に倫理的であるべきだ」という言葉よりも非倫理的な言葉は存在しないからだ。

人工知能は誰に対してもブラックボックスである。その恩恵を受けつつ,責任だけを開発者に負わせるということはできない。それは「あなたは私以上に倫理的であるべきだ」という言葉に他ならない。私たちは責任を引き受けるしかない。レヴィナスの哲学においては,代替不能の有責性を引き受ける者こそが「成人」と呼ばれる。

私は決して自己責任論,つまり人工知能の行為の責任を使用者に被せようと言っているのではない。目指すべきは,気候変動や自然災害のように,誰にも責任を問えないものとして,皆で責任を引き受けていくことである。そのためには,その人工知能が私企業により開発されたものであっても,国家による補償をしていくような制度等の整備が欠かせないだろう。

人工知能は,子どものように生まれる。しかしだからこそ主のように理解不能なものになりうるのだった。ある時は子どもに似ており,ある時は神に似ているもの。それに連動して私たち人間は,ある時は無責任的に,そしてある時は責任を引き受ける存在にならなくてはならない。それは親として,また成人として生きることだ。これからの人間に求められているのは,つまるところ成熟の一言に尽きるのである。

*1:これは仮想通貨にも言える話だが、そういった人々は本当に「自己責任論」が好きである。

ボードリヤールとキラーチューン-「インスタ映え」に満足はあるか

東京事変「キラーチューン」再考

2007年に、東京事変によって発表された5枚目のシングル「キラーチューン」は間違いなく最高傑作のひとつだろう。今回は、この名曲を歌詞の面から考えてみたい。しかし、なぜ10年前の名曲をここで語る必要があるのか。大体、ここで歌詞の引用などしようものならJASRACに狙われる危険がある。それでも私がキラーチューンを再考するのには訳がある。

それは、この曲がボードリヤールの消費と浪費の議論をわかりやすく説明しているように思えるからである*1。しかもこの議論は2017年の現在にこそ、考えるべきものだ。ボードリヤールは大量消費・再生産時代には、商品の価値が物自体ではなく、記号として現れることを説いた。一体どういうことか。早速、キラーチューンを用いて考えていこう。

キラーチューンの歌詞分析

キラーチューンの魅力とはなんなのだろうか。そのメロディの素晴らしさは言うまでもないが、ここでは歌詞の魅力を考えてみたい。この曲は次のような出だしで始まる。

「贅沢は味方」

聞いたことのない響きである*2。贅沢から連想されるのは浪費*3だったり、消費だったり、叶姉妹のようなイメージだったり。どちらかというかマイナスのイメージを帯びている。しかし、椎名林檎はそんな言葉を「味方」だという。グッと私たちを引き込む出だしだ。そして次のように続く。

貧しさこそが敵

「貧しさ」は「敵」だという。こちらもこれまでにはなかったパワフルな言葉だ。間違ってはいけないのは、貧しい者が敵なのではないということだ。つまり「豊かであれ」と言っているのである。これは後に出てくる「倹約」の否定であるとも考えられる。

贅沢するには何が必要か

贅沢するにはきっと財布だけじゃ足りないね

贅沢には、お金だけでは足りないらしい。ここで、この後に登場する「私」や「貴方」が「一生もの」であることにつなげて「贅沢には愛が必要だ」と考えるのは早計である。お金より「愛だろ、愛っ。」などという広告屋の、化学調味料香る結論を椎名林檎が語るはずがない(と願っている)。それでは、贅沢には何が必要なのだろう。注目するべきは次に続く歌詞だ。

だって麗しいのはザラにないの

洗脳(わな)にご注意

「財布=お金」だけでなく、「麗しい」ものを選ぶ身体感覚が必要なのだ。これには「洗脳(わな)」にハマらないことが重要という。つまり、ここでは消費の連鎖に巻き込む(洗脳=罠=)広告から逃れ、本当に欲しいもの*4(=麗しいもの)を選ぶことが贅沢なことで、それこそを目指すべきだ、と言っていると考えられる。

消費と浪費は違うbyボードリヤール

このようにキラーチューンを読むと、ボードリヤールの「消費と浪費は異なるものである」という主張が理解しやすくなるはずだ。

私たちは贅沢を非難しがちだ。それは必要以上のものを持っていたり、使ったりすることだからだ。しかし一方で私たちは贅沢を求めている。必要なものを必要な分だけ、という生活はアクシデントに対応できない。貯金がなければ、急に病気をしても対応することができないように。そこには余裕がない。人が豊かに生きるのに、贅沢は必要だ。

そして私たちは、消費も浪費もそれぞれ贅沢なことだと思いこんでいる(ひょっとすると浪費のほうがより悪い意味で不必要な印象を受けるかもしれない)。しかし、それは本当にそうなのだろうか。まずは浪費ということを考えてみる。浪費は不必要なまでに物を受け取ることである。腹八分で栄養上は十分だと言われても、腹一杯に食べたりすることがそれにあたる。

浪費には限界がある。腹一杯になってもなお、食べ続けることはできない*5。つまり満足がある。浪費には限度があり、ストップがある。

消費社会の神話と構造 新装版

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インスタ映えアイデンティティ

一方、消費はどうか。消費は、現在流行っている「インスタ映え」で考えるとわかりやすい。彼、彼女たちは「どこで何を見たか」、「何を食べたか」をインスタグラムに投稿することを重要視する。彼女たちは(過剰な演出によって)キラキラとした日常を過ごしていることを他の者へアピールする。そのアピールのために消費がある。

ここでは「楽しかったか」、「美味しかったか」ということが見落とされている*6。彼、彼女たちが行っているのはまさしく記号の消費である。つまり「あの店に行ったよ」と言うためだけに行っているのだ。それは逆に言えば「(流行っている)別の店にも行かなければならない」ということである。だから終わりがない。

現代美術作家の柴田英里はこのツイートに関連して、インスタ的な食物の「味の不在」について言及している。考えてみれば当たり前である。この商品が与えるのは一時的なアイデンティティである。店側は「これを食べて街を歩く私」のために売っているのである。味が美味しいことは重要ではないのだ。彼、彼女たちは日常をキラキラさせるために、不味くても美味しいと、つまらなくても楽しいと言ってくれる。

消費には、満足がない。商品の消費によって保たれるアイデンティティは必然的な自己矛盾を背負っているからだ。商品が誰かのためだけに作られているということはない。インスタ飯は二十代女子に、ネトウヨ本は四十代のおっさんにというように、それぞれ大量の消費者を狙って作られている。

その商品によって確立されるアイデンティティはもろく儚い*7。無数の「これを食べて街を歩く私」のひとりにすぎないということにすぐに思い至るからだ。消費者は必然的に代替可能な存在である。作り手にとっては「あなたが買わなくても、誰かが買うから問題ない」のだ。そして儚いアイデンティティは崩れ去る。だから半ば強迫的に、次の商品を消費することでアイデンティティの延命を図ることになる。

こうした消費のなかで贅沢することは果たして可能だろうか。消費とは、自ら不満足のスパイラルに陥る、広告代理店による洗脳=罠なのではないか。さらにここで既存の「消費は悪だから倹約しよう」という論調の不備も見えてくる。消費に慣れすぎた贅沢な現代人は倹約するべきだ、というのはおかしい。問題は、消費が満足をもたらさないことにこそある。この議論は、「インスタ映え」の例ではないものの國分功一郎『暇と退屈の倫理学』のなかに詳しく挙げられている。

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 

私たちはむしろ倹約ではなく、満足できる浪費=贅沢こそすべきなのだ。満足するためには「洗脳(わな)」から解放されなければならない。「一生もの」は満足を与える。ここで私たちは再びキラーチューンに戻ってきた。

 すべきは贅沢である

椎名林檎は消費と浪費が別物であること、また「消費ー倹約」の対立構造には無理があることを無意識のうちに気づいている。だからキラーチューンの歌詞は浪費的である。

絶対美しいのは計れないの

溢れ出すから

限界を越え、あふれ出す。そこに満足がある。消費も倹約も満足を与えない。満足を与えるのは、贅沢であり、浪費である。そして浪費はストップする。立ち止まる。運命になる*8。私にとって貴方が、貴方にとって私が「一生もの」であるというように。キラーチューンの肝心要は、このモノへの態度を恋人への態度と重ねていくことにある。

私は貴方を浪費し、貴方は私を浪費する。不思議だが、美しい関係性だ。消費とは違い*9、浪費は「私ー貴方」が代替不能であることを含んでいる。「贅沢」や「一生もの」というモノを連想させる表現から、立ち現れるアイデンティティ。これはインスタ飯による、つまり記号によってもたらされるアイデンティティとは質を異にするものだ。私たちは幸福を目指すなら、モノにおいても、人間関係においても贅沢をしなければならない。そして贅沢するにはあらゆる意味で「財布だけじゃ足りない」のである。

キラーチューン

キラーチューン

 

*1:キラーチューンの発売日は2007年8月22日であるが、奇しくもその少し前、3月6日にボードリヤールは亡くなっている。

*2:「ぜいたくは敵だ!」は「贅沢は味方」に、「欲しがりません勝つまでは」は「欲しがります負けたって」になど、それぞれ戦意高揚のスローガンをもじったものだというのはすぐにわかる。この時期の椎名林檎は社会の文脈から脱臼することで、つまりひきこもることで、戦前・戦中イメージをただデザインとして取り出すことに成功していた。現在はベタに右翼的に見えることもあるが、社会とのつながりがより強固になったためであるだろう(東京オリンピック関連で椎名林檎がガンガン流れていることが容易に想像できる)。そのため、このキラーチューンの分析において、戦前・戦中的なものへとつなげて考えることは避ける。そこに意味を見出していては、彼女の用意した露骨なミスリードにまんまとハマることになる。

*3:ここでいう浪費はボードリヤール的な浪費ではなく、私たちが普段イメージする意味での浪費である。

*4:「欲望とは他者の欲望である」とはラカンの有名な言葉である。本当に欲しいもの、というと他者の意見から離れた私自身の欲望に基づくもののように思えるが、それが存在するかは疑問である。絶対的に欲しいものが存在するならば、広告は私たちにとってそれほどの効果をもたらさないだろう。本当に欲しいものの存在を無邪気に信じてしまう人ほど、恐らく広告に「洗脳」されてしまう。本当に欲しいものはもしかしたら存在しないのかもしれないのだ。しかし少なくとも、欲望の根本に据える他者を広告にしてしまうと、消費のスパイラルに取り込まれ終わりはない。本当に欲しいものは、「私」の様々な関係に基づく欲望に立って考えるべきだろう。

*5:古代ローマ貴族の文化に、腹一杯になったら吐いてまた食べるというものがあった。貴族は、圧倒的な富の余裕があるためにその限界を先延ばしにする。しかし、最終的には吐かず、食べ終えるタイミングがあるはずである。つまり、貴族の食にも満足があり、ストップがある。この満足がいつまでも訪れないのが摂食障害という病である。

*6:しばしば私を含む集団がインスタグラムに投稿されるということがある。しかし、その投稿の内容はその集まりの「たけなわ」ではないことも多い。インスタ映えはその集まりのクライマックスと必ずしも一致しない。カメラという他者視点を持ち込んでいる時点で、その者はベタな次元で楽しんではいないのだから当たり前である。

*7:これはインスタ飯それ自体と相同的である。

*8:ここでの運命は「わざと逢えたんだ」からわかるように、より自覚的な運命である。否定神学的運命観(あれもこれも本当の運命ではない)でも、純粋無垢な運命観(運命は向こうからやってくる)でも贅沢はできない。なぜなら前者は本物の幻影にとらわれて「秒速5センチメートル」的不幸に陥るし、後者は広告による無限の運命の演出のなかに呑み込まれるからだ。広告は「あなたのためだけに」と誰にでも囁いているのである。そこから逃れる自覚的運命観とは、言うなれば「待ち合わせに遅れる人がいたら、走って迎えにいくのがあなたでしょ」ということになる。

*9:「私」が「貴方」を消費するのであれば、「私」にとって「貴方」は要らなくなったら捨てるもので、貴方の代わりはいくらでもいるということになる。消費において「貴方」は代替可能な存在、恋人というボトルに注がれる詰め替えシャンプーに過ぎなくなる。そうなれば、「私」はもっと良い香りのものや、もっと新しいものが現れれば、躊躇なくそれを求めるだろう。

SNS時代と職場のコミュニケーション-人間関係はON/OFFで切り替えられるか

直接的に、間接的に、人間関係を変えるSNS

過去に、「ツイッター対象喪失」というテーマで記事を書いたことがある。

zizekian.hatenablog.com

このときには、ツイッターアーキテクチャが人間関係を強制的に続行させるということを取り上げた。SNSが恋人と別れた後にも、相手のことが気になって仕方がないという状況を作り出すのではないか、というような話だ。このときに注目しているのはツイッターアーキテクチャそのものであり、ツイッターの直接的な作用の話を終始している。

しかしまた、SNSには人間関係に対する間接的な効果もあるのではないかと最近は感じている。今回は、「SNS時代における間接的な職場のコミュニケーションの変容」について考えてみたい。

飲み会に行きたくないとは何事か

私がゆったりと最高学府(東大じゃないよ)に通っているあいだに、小・中学校時代の同級生たちの多くはもう働き始めている。彼らはSNSなどで愚痴をつぶやくことも多いのだが、仕事を辞めたいとか会社行きたくないなど深刻にみえる人ほど、「職場の飲み会に行きたくない」ということを言う*1

以前も「会社での付き合いがあって」とか「仕方なく」という言葉が職場の飲み会にはつきものだったが、ある種ネタ的な定型句であり、今ほどベタな意味では用いられていなかったように思われる。良好な職場関係で保たれる良好なメンタルヘルスというものを考える際に、なぜ現代において、職場での関係が希薄になったのかを考えることには価値があるだろう。

現実にフィードバックされるSNSの設計

SNSで愚痴をつぶやく、ということに注目してみる。彼らはツイッターなどで愚痴をつぶやく際に、職場の人間に見られることを考えてはいないだろう。事実ツイッターは鍵をかけたり実名を伏せたりすれば、ばれることはない。このSNSの特性は人間に「人間関係はON/OFFで切り替えられる」という錯覚を抱かせる*2

しかし、裏アカウントでのネガティブな発言が通常のアカウントに徐々に染み出してくるように、私たちはそれほど切り替えが上手くはできない。たとえ家計を支えるために働いていても、職場において人間関係は生まれるし、それが円滑に仕事を進めていく上では重要になることもしばしばだ。しかし彼らは「私が認めた人とだけ私は人間関係を結ぶ」ということが可能であるかのように振舞っている。そうして元々あったネタ的な定型句「仕方なく」が、現代においてはベタな意味で捉えられ、職場の飲み会が「昔からある無駄な慣習」ということになってしまっているようだ。

パーツ分けされるコミュニケーション

コンピュータのパーツのように職場はお金を稼ぐ場所で、人間関係は友人とだけでいいと切り分けてしまうことは一見クリアで健康的に見える。しかしそれこそがSNSコミュニケーションのイデオロギーに絡め取られていると言える。どういうことか。これを考えるために、「道具的コミュニケーション」、「自己完結的コミュニケーション」という言葉を導入しよう。

道具的コミュニケーション

コミュニケーションの一様式。送り手が受け手になんらかの情報や意思を正確に伝え,受け手の態度や行動に影響を与える目的の手段として使われるコミュニケーションのことをいう。コミュニケーション過程において,コミュニケーションが送り手の,ある特定の意図の達成のための手段的,道具的観点からなされるのでこの名がある。(道具的コミュニケーション(どうぐてきコミュニケーション)とは - コトバンク

つまるところ、道具的コミュニケーションとは、相手に何らかの変容をもたらすためにされるコミュニケーションである。「〇〇してください」という風に。

自己完結的コミュニケーション

コミュニケーションの機能の一分類。相手に情報や意思を伝え,これに了解を求めるというより,発信人ないし発信集団がこれを表現すること自体を目的とし,そのことによって,自己 (発信人) の心理的緊張を解消し満足させるようなコミュニケーションをさす。意思伝達を目指す道具的,手段的コミュニケーションに対し,表出的コミュニケーションといってもよい。(自己完結的コミュニケーション(じこかんけつてきコミュニケーション)とは - コトバンク

こちらは、「挨拶」や「たわいない話」に代表されるコミュニケーションである。(私も含め)コミュニケーションが苦手な人は「話すことがない」という理由を挙げがちだが、これは「たわいない話」ができない、ということであると言えるだろう。

これらを踏まえると、職場はお金を稼ぐ場所で、人間関係は友人とだけでいいと切り分けてしまうことは、職場=道具的コミュニケーション、友人=自己完結的コミュニケーションという切り分けをしていることにほかならない。これでは新入社員でわからないことが多いのにもかかわらず、協力や援助の要請が難しく、職場の負荷が大きくなるのは当然である。

面白い話は、道具的コミュニケーションである

 先ほどの定義からいうと、おかしく感じられるかもしれないが、私は「面白い話は、道具的コミュニケーションである」と考えている。お笑い芸人は、しばしば「面白い」ことと「楽しい」ことを厳しく分別する。サークルなどにいる「ヘタな芸人より面白い先輩」は芸人からすると、明るく「楽しい」人でしかない。その面白さは内輪での面白さであり、「自己完結的コミュニケーション」の関係性のなかで「楽しさ」が「面白さ」と勘違いされているに過ぎない。

一方、芸人のいわゆる「すべらない話」は一般化された「面白さ」である。私たちが芸人のネタで笑うとき、それは芸人と私自身の関係性のなかで笑うのではない。関係性とは無関係に笑うのである。だからこそ、プロの芸人はプロたりえるのだ。芸人はそのネタ中に、客イジリをすることがあるが、それは基本的に外道とされる。なぜなら、それは客と芸人の関係性をその場で作ることによって生じる「楽しさ」が「面白さ」と混同されているからである。

ここまでの話を追っていただけたなら、本当の「面白さ」とは道具的コミュニケーションである、ということにも納得いただけるのではないだろうか。面白い話は相手に、笑うという行為をさせる(つまり〇〇してくださいという)道具的コミュニケーションである。つまり、「面白さ」とは関係性の「楽しさ」とは無関係に立ち上がるものであるということだ*3

つまらなさを受け入れること

なぜお笑いの話に迂回したのかというと、「つまらない」コミュニケーションこそ重要だと私は言いたいからだ。これはどういうことか。

職場の人間のたわいもない話が、「つまらない」と感じられることはよくあるだろう。しかし職場の人が「面白くない」からコミュニケーションしないというのは「道具的コミュニケーション」の檻から抜け出せていないからに他ならない。職場の人と関係性を築いていないならば、その話はつまらなくて当たり前なのだ。私たちが関係性の外部にいて、なお職場の人間の話が「面白い」などということがあるならば、その人間は稀有なお笑いの才能の持ち主だということに他ならない。そんなわけはないだろう。

私たちが普段接する人間は、その人間との関係のなかに巻き込まれない限り「つまらない」ものなのである。しかし、その関係に巻き込まれれば、面白さがわかってくる。だって私たちの友人たちは皆、お笑いの才能がなくとも「面白い」のだから。職場=つまらない、友人=面白いという方程式は「私が面白い人間と友人関係にある」ということを表しているのではない。私は私と関係を持つ人間を「面白い」と思うのだ。

よく街のカップルの会話が、つまらなすぎて愕然とすることがあるだろう。しかし、それは私たちが関係の外部にいるからに他ならない。私たちも、恋人に対してはとてもつまらないことを言うものなのだ。この現実を受け入れることだ。つまらないコミュニケーションを続けられる関係のなかにしか「楽しさ」からくる「面白さ」は生まれない。だってカップルは、それでも笑っているでしょう?

「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える (岩波ブックレット)

「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える (岩波ブックレット)

 

*1:飲み会に行きたくないとは何事か、と思う。最高学府(重ねて言うが東大ではない)に通う者にとって飲み会は這ってでも行くものである。これはマッチョな考え方であるかもしれない。しかしここでの「行きたくない」は「お酒弱いから飲めない」とかそういうことではなく、友人以外との飲み会などつまらないに決まっているという考えているものを想定している。

*2:そんな勘違いをする奴は馬鹿だ、と言う人がいるかもしれない。しかしSNSが魅力的なのは、間違いなくそこにホンモノの人間関係があるからである。「人間関係はON/OFFで切り替えられない」ように、私たちは「現実の人間関係とSNSをON/OFFで切り替えられない」のではないか。

*3:もっと詳細に説明するならば、関係性の「楽しさ」とは無関係の「面白さ」というものが本当に存在するかは疑わしい。というか少なくとも、昨今のバラエティが芸人の素の姿にスポットライトを当てるように、プロの芸人であっても「楽しさ」による「面白さ」を追求するということがある。さらに、ヨシモト∞ホールなどでネタを見てみるとわかることだが、明らかに客(多くは女子高生など)は芸人と関係性を築こうとしているし、関係性を楽しんでいる。このことから、無邪気に「面白さ」と「楽しさ」は違うと主張することはできないのだが、この考え方が多くの芸人のアイデンティティを支えていることは確かだ。とにかく、芸人は「面白さ」を一般化するために頑張っているところが大きい。最終的に「面白さ」が内輪のものでしかありえなかったとしても(つまり「楽しさ」でしかなかったとしても)、その内輪をより大きなものにしようという気概はあるだろう。

SAO総論-第一章「科学技術による父の復権」

三度目の正直!SAO論を打ち立てろ!

リロノウネリではこれまでに二度、アニメ「ソードアートオンライン(以下SAO)」について語ってきた。一度目はアルヴヘイム・オンライン(以下ALO)における須郷=オベイロンとの戦いについて。二度目はガンゲイル・オンライン(以下GGO)における男の娘化するキリト(桐ヶ谷和人)について。私はその二つの記事を関連付けて考えていなかった。文脈が全く異なるように思われたからである。

zizekian.hatenablog.com 

zizekian.hatenablog.com

だが最近、その二つの記事に、そしてSAOに流れる通奏低音に気がついた。『教養としての10年代アニメ』を読むなかで、語られていること、また語られていないことを考えているうちに、考えていたことが一つにまとまっていったのだ。この本では「まどマギ」や「とある科学の超電磁砲」などテン年代の重要なアニメを取り上げているが、その中にはSAOも入っているのだ。

(117)教養としての10年代アニメ (ポプラ新書)

(117)教養としての10年代アニメ (ポプラ新書)

 

 反復される「父」というテーマ

SAOは現代のSFとして、近い未来に到来するARやVR技術としての側面から多く語られてきた。確かにSAOの主題は「進歩する技術」だろう。しかしこのテーマの裏には常にべったりと「父」という、もう一つのテーマが張り付いている*1。ここではSAO総論として、これまでに語られてこなかった、SAOの裏のテーマである「父」ついて考えていこうと思う。

物語を包む偉大なる父としての茅場晶彦の存在。サチを失うこと、またヒースクリフに敗北するというキリトの去勢エピソード。ユイによるキリトの父性の復権(これはアスナ処女懐胎でもある)。須郷伸之=オベイロンとの戦い。そしてGGOにおいて男の娘化するキリト。SAOには父というテーマが変奏されて流れ続けている。

SAO総論というからにはブログの一回分の文章量では語りつくせない。そのためリロノウネリでは、これから数回に分けてSAO総論をお送りする。第一回である今回は茅場晶彦を取り扱う。

物語を包む偉大なる父=茅場晶彦

父という観点でSAOを語るならば、やはりまず茅場晶彦から始めねばならないだろう。

量子物理学者、天才的ゲームデザイナーとして知られ、桐ヶ谷和人にとっては憧れの人物だった。(茅場晶彦 (かやばあきひこ)とは【ピクシブ百科事典】

夢見た空に舞う鋼鉄の城「アインクラッド」とナーヴギア完成後、1万人のプレイヤーを道連れにSAOのデスゲーム化を宣言。
ゲームマスターとしてゲームを監視する一方、一般プレイヤーを装い団長としてSAO最強のギルド《血盟騎士団》を育て上げ、進行役として攻略を先導しSAOプレイヤー達を導いてきた。(茅場晶彦 (かやばあきひこ)とは【ピクシブ百科事典】

彼はSAOという物語を作り上げた。このデスゲームには1万人が巻き込まれ、キリト達プレイヤーは決断主義的に振舞うこと余儀なくされている。キリト達プレイヤーは、サバイヴするために、ひきこもることを許されない。その意味で、SAOは宇野常寛のいう『ゼロ想』世代の作品に見える。しかしこれはゼロ年代の作品ではなく、言わばテン年代の作品だと私は考える。それは単純にこのアニメが2012年に作られたからではない。どういうことか。

90年代では、エヴァンゲリオンにおいて父の権能は、シンジの逃走(ひきこもり化)により失効していた。ゼロ年代には、生き残るためにはひきこもれないというサバイヴの物語が多くなってくる。「バトル・ロワイヤル」や「デスノート」がそれら決断主義の代表である。しかしここでも、父の権能は復活しない。彼らは父に戦わされているのでも、父になるために戦っているのでもない。理由もなく、生き抜くためだけに戦っていた。

しかしテン年代の作品であるSAOでは、ナーヴギアという「技術」によって、明らかに強い父が復活している。私が『テン年代の想像力』を書くならば、テーマは「科学技術による父の復権」にするだろう*2

 キリトの父としての去勢

茅場はSAOという物語の行方をみるために、血盟騎士団の団長キースクリフとして自らプレイヤーになっていた*3。彼は「キリトが副団長アスナを引き抜こうとしている」ということで、キリトに決闘を申し込む。キリトが負けたら血盟騎士団に入れというのだ。

結果としては、キリトはキースクリフに敗北する。*4これはキリトの第二の去勢である(第一の去勢はサチの死。次回以降に取り扱う)。キリトは、この敗北によって血盟騎士団に仲間入りすることになる。これはキリトがゲームクリアの欲望を持つきっかけであり、父としてのキリトが立ち上がる契機でもある。

ラカンは、人間が言語、欲望を持つ過程に去勢があるのだと考えた。それに従うと、キリトがゲームをクリアする欲望を抱くのも、VRやARを現実世界で研究しようとするのも茅場の影響なのだ。彼はキリトの生物学的な父ではないが、社会的な父といえる。SAO以前では茅場晶彦として、SAO内ではキースクリフとしてキリトの父なのである。

物語と一体化する茅場晶彦

SAOクリアを賭けたキリトとの激闘の末、プレイヤーとしては勝利を収めるもキリトとアスナの絆が巻き起こしたゲームシステムを超越した奇跡により相打ちに近い形で敗れた。
茅場晶彦 (かやばあきひこ)とは【ピクシブ百科事典】

その際肉体的には死亡したが、脳のスキャニングを実行、その精神はネットの海を漂い生も死も超越した存在となりALOでのキリトの窮地を救い、同時に「世界の種子」VRワールド制作プログラム「ザ・シード」を託しネットの海に消えていった。(茅場晶彦 (かやばあきひこ)とは【ピクシブ百科事典】

彼はキリトに敗れ死ぬのだが、どちらかというと攻殻草薙素子やオビワンのフォースとの一体化といった感じであり、死後もキリトに影響を与え続ける。実際に彼は第一期のラスト、ALOのオベイロンとの戦いでキリトを助ける*5

さらに「ザ・シード」なる全てのVRゲームの基礎となるプログラムを残す。シード=種子という名前からも分かるとおり、これは精子だと言える。つまりアインクラッド以後の世界、ALOやGGOも言わば茅場の子どもなのだ。SAOという物語がVRゲーム上で繰り広げられている限り、それは茅場の世界内の物語なのだ。

メディキュボイドの設計

茅場は、デスゲームの主催者でありながら完全な悪役という描かれ方はしない。アインクラッドの崩壊を見つめる姿も美しく描かれており、観ている私たちもそれほど悪い印象を持たなかったはずだ。

茅場のイメージをさらに向上させるのが、アニメ第2期のラストである。メディキュボイドの設計が彼によるものだということが判明するのだ。メディキュボイドとは以下のようなものだ。

VR技術を医療用に転用した世界初の医療用フルダイブ機器。ベッドと一体化した箱型となっている。開発者は神代凛子だが、基礎設計は茅場晶彦が行なっている。
ゲーム機であるアミュスフィアと異なり、出力はナーヴギア以上に強化され、CPUはAR(拡張現実)技術にも対応可能なスペックを確保している。電磁パルス発生素子の密度はナーヴギアの数倍で、脳から脊髄までカバーしており、アミュスフィアやナーヴギアでは難しい体感覚の完璧なキャンセルも可能となっている。
ターミナルケアをはじめとして多くの分野で活用が期待されており、紺野木綿季がその試作1号機の被験者となっている。(メディキュボイド VR技術を医療用に転用した世界初の医療用フルダイブ機器。ベッド... : ソードアート・オンライン 登場人物プロフィール - NAVER まとめ

茅場は技術によって、ポストモダンの世界で消失していた大きな物語を再建した。彼は技術を用いて多くの命を奪い(破壊)、また一方では生きる喜びを取り戻させた(創造)。その動機は不明瞭であって、自然的、超越的である。SAOは技術によって父=神=大きな物語が復活する世界を描いているといえよう。

茅場晶彦は物語と一体化するような規模の父だ。だからこそ彼は様々なレイヤーから父としての権能を発揮する。彼はSAOのゲームマスターという物語の偉大なる父であり、キリトの(憧れの茅場晶彦または団長キースクリフとして)社会的な父であり、「ザ・シード」を残した、全てのVRゲーム(つまりは今後の物語の骨格=身体)の父なのである。

今回は、全編を通して多大なる影響を与え続ける父、茅場晶彦を取り上げた。次回は、父としてのキリトを中心に考えていくつもりだ。アスナと関係を深め、ユイの父になるということはどういうことなのか。SAO総論②を楽しみにしていただけると幸いだ。

*1:原作者の川原礫には「アクセルワールド」という別の作品がある。これにも「親」や「子」というワードが登場する。「父」というものは裏テーマというより川原の作家としての問題意識なのかもしれない。

*2:この技術というのが厄介だ。科学技術は頭打ちにも見えるからである。それなのに何故、技術によって父は蘇るのか。これは私たちの科学技術の発展への不安の裏返しなのではないか。異世界にスマホを持ち込んで無双するのも、ナーブギアという夢の装置がVRと言われることで近い未来の物語だと思ってしまうのも、これ以上の科学の進展が信じられなくなっているからこそ信じてしまうのではないか。シンギュラリティはひとつの疑似科学であり、変奏された終末論であるという考え方がある。技術の発達も、その極限においては物語であり、それを信じることは信仰することに近づくのだ。

*3:この時点ではキリトはキースクリフ=茅場であることを知らない。

*4:正確には、構造的に勝てないということにキリトが気がつくことで、後にゲームクリアすることに繋がったので単純な敗北とは言えない。しかしここではキリトの敗北経験自体が問題であるので、その点は捨て置く。

*5:これは正当な子がオベイロンではなく、キリトであるという茅場の意思表明とも考えられる。

告白ハラスメントとは何か

告白ハラスメントの「発明」

告白ハラスメントというものが新たに「発明」されたらしい。告ハラが果たしてハラスメントと言えるのかということについてここで考えるつもりはない。それを言い出したら感動ポルノだってポルノではない。ニュアンスはなんとなくわかるのでそれを積極的に読み取っていく*1

diamond.jp

記事に書かれているのは、関係性が構築されていない男性から告白を受けた女性が「脇が甘かったかもしれない」と自分を責めてしまったということ。また男は「やらないで後悔するよりやって後悔することを選ぶ」という理由で告白したこと。そこから次のように続く。

なぜ、ある人にとっては告白がセクハラになり得るのか。それは、告白とは、強制的に相手との関係を作る行為だからである。告白するまでは、赤の他人、知人程度だった二人も、どちらかが告白することで「告白した側/告白された側」の関係にはめ込まれてしまう。自分の人生と交差することなんてあり得ないと思っていた相手が、強引に自分の人生の「当事者」になる。それを暴力と感じる女性もいるのだ。

 また、告白するということは、「相手と自分の人生が地続きであると想定して、相手にもそれを想像してもらい、是非を問う」という一連の流れを強いる行為でもある。そこには、当然、性的な関係も含めた未来のビジョンが含まれる。しっかりとした関係ができていない相手にそれを求めるのは、確かにセクハラに近いものがあるのかもしれない。

男からの愛の告白はセクハラなのか (ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo!ニュース

正しいことを言っているようだ。概ね同意できるようなことが書かれている。それを「告白ハラスメント」と呼ぶこと以外は。繰り返すが私はハラスメントの意味の話をしているのではない。「告ハラ」のもたらすであろうパフォーマンスを問題にしているのである。

それ、パワハラです 何がアウトで、何がセーフか (光文社新書)

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時かけ」と「告ハラ」 

私の「時かけ」に関する以下の記事は、さきほどの告ハラ論と対にして考えることができる。

zizekian.hatenablog.com

時をかける少女」というアニメ映画がある。細田守を国民的アニメ映画監督に押し上げた2006年公開の作品だ。この作品の良さは、人の想いや行動にはキャンセルしてはいけないものもあるんだということを主人公の真琴が学ぶことにある。

(中略)

和子(叔母であり原作の主人公)が真琴に伝えたのは、タイプリープの先輩による倫理の教えであり、これによって真琴は動きはじめたと考えるべきだ。真琴が「千昭の告白」を必死に取り戻そうとするのは可能世界の私・あなたに対する敬意によるものだ。真琴は告白されてから時間差で「千昭のこと、私も好きかも」と思うような流されやすく俗っぽい女の子ではない(と思いたい)。

可能世界の倫理を考える-「リゼロ」と「時かけ」から - リロノウネリ

アニメ版「時かけ」において主人公真琴はまず、千昭の告白をキャンセルするためのタイムリープを行う。そして、そのキャンセルという行為の暴力性に気がつき、千昭の告白を取り戻そうとする。

告白というのは挨拶のようなものだ。これは私が挨拶のように気軽に告白できるモテ男であるということではない。告白は「あなたともっとコミュニケーションが取りたい」ということだけを伝えているのであり、これは挨拶の本質そのものである。

(中略)

だからこそ告白=挨拶はキャンセルしてはならないものだ。告白=挨拶は白くてやわらかい腹を相手に見せる行為なのだ。それでいて承諾して私と同じ時を共有するか、振って私を傷つけるかを選べ!という選択肢を突きつける行為でもある。

可能世界の倫理を考える-「リゼロ」と「時かけ」から - リロノウネリ

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告ハラの反証可能性

時かけ」と「告ハラ」は真逆の結論に達している。「時かけ」も好き、「告ハラ」の存在にも賛成という者は次のように言うかもしれない。「千昭と真琴の関係は告白することが正当な関係に達している。」、「時かけは高校生の物語だ。大人には大人の人間関係がある。」、「千昭はカッコいいから別だ。魅力のない男性とは違う。」などなど*2

確かにそうだ。しかし、どんなに会っていたって「告白が正当ではない関係だった」と言うことはできる。私があなたに感じている距離と、あなたが私に感じている距離が一致しているかは論証不可能だからだ。さらに言えば「時かけは高校生の物語だ」というのなら告白に「性的な関係も含めた未来のビジョン」が含まれている、なんていう中二男子的な反応もやめていただきたい。魅力のない男性からの告白は告ハラだということに関しては、もはや言いがかりだろう。

私は「告ハラ」の論理自体は別に間違ってはいないと考えている。いや「正しすぎる」のだ。つまり反証可能性がないのである。関係性の深さも、性的であるかどうかも、魅力的かどうかも全て。反証不能なものは論理的には無敵であるが、説得力を持たない*3

反証可能性(はんしょうかのうせい、英: Falsifiability)とは、科学哲学で使われる用語で、検証されようとしている仮説が実験や観察によって反証される可能性があることを意味する。

科学哲学者のカール・ポパーが提唱。平易な意味では「どのような手段によっても間違っている事を示す方法が無い仮説は科学ではない」と説明される。(反証可能性 - Wikipedia*4

「される側」としての告白

結論から言えば、告白ハラスメントは一種の炎上商法として嗤ってよいものだろう。だが、やはり告白自体は「やらないで後悔するよりやって後悔することを選ぶ」というような定型句で語ってよいものではない*5。告白は「される側」に大きな責任を負わせるからだ。しかしそれを問題に思っているのなら、告ハラなんて言ってないで「されて困った告白」について語ればよいのである。この類の知は事例集的にしか積み上げることができないのだから。

告白は責任を求める強迫だ。「お前が俺を振ったら、俺は傷つくぞ!」という強迫なのだ。だからそれに責任を感じてしまうのも仕方のないことだ。そこには事実、責任が発生しているのだから。白くてやわらかい相手の腹を、「される側」は切り裂かなければならない。その行為の責任は代替不能の責任として「される側」にのしかかる。これは誰かの責任が不当に私に降りかかっているのではなく、他ならぬ「される側の私」の責任なのだ*6

その責任を全うせずに、逃れるには「お前が傷ついても私には関係ない」と思ってしまえばいい。「告ハラ」などというデリカシーのない発想をする人にはそれができるはずなのだから。

*1:もちろん〇〇ハラスメントという呼び名が増え続けることで、深刻なハラスメントの議論のエネルギーを浪費してしまう可能性はある。これは大きな問題であるが、私の出る幕ではない。

*2:アニメ「時をかける少女」自体が、少女の積極性をテーマにしつつも、実は男目線から描かれているのだと批判することも可能かもしれない。「時かけ」のファン層の感覚的男女比は5:5という印象を受けるが。

*3:例えば「神様を信じていれば救われる」ということは反証不能である。「救われなかった」と思われる場面でも、それは神様を十分に信じていなかったからだとか、信じていたからその程度で済んだのだとか説明可能だからだ。つまりそれを論理的には間違っていると糾弾することができない。ただ同時に、私たちはそれを信じることもできないだろう。

*4:最近のWikipediaの信頼性はブリタニカに匹敵するらしい。なのでこのブログでは積極的にウィキから引用していく。日本語版の話ではないのかもしれないが。

*5:この定型句的反応こそが女性の怒りの原因にあるのではないか。「あなたは少年ジャンプ的発想で告白しているのに、私はそれを断ることで責任を感じているのだ!」という具合に。

*6:この責任をシステムによってなかったことにしてしまおうというのが「告ハラ」のパフォーマンスである。真琴の告白キャンセルを制度的に導入しようとしているとも言える。システムならば、その暴力性にも無自覚でいられるからだ。アイヒマンユダヤ人殺戮に関与しても平然としていたように。

男の娘と新たな決断主義-アニメ「ナイツ&マジック」から

ナイツ&マジックのテンポの良さ

今期注目のアニメのひとつ「ナイツ&マジック」を見ている。岡田斗司夫が第一話のテンポの良さを面白がっていたので興味が沸いたからだ。一話を見てみるとAパート12分の内に天才プログラマーだった主人公が交通事故に遭い、異世界に転生しちびっ子になり、夢を持ち、大きくなり学校に入学するところまでが描かれている。確かに驚異的なスピード感だ。

岡田はこのあとに続く物語の矛盾した部分*1を指摘するのだが、そこは捨て置く。私が関心を持つのは、何故この主人公が異世界に飛ばされたと同時に美少年になるのかということである。それも、ただの美少年ではない。美少女のように可愛い美少年なのである。転生前プログラマーだった男が、ルネスティ・エチェバルリア(エル)という背も小さく、CVも高橋理依というという完全なロリポジションに納まっている。不思議な話だ。

真っ先に考えられるのは、性別は男だが完全に女の子というポジション、「シュタゲ」で言うところのルカ子のような萌えキャラを狙っているということだ。確かにない話ではない。しかし、このポジションは主人公にしてはいささかキャラが複雑すぎる。エルは、女の子のように可愛がられることには抵抗感があるようであるし、ここはやはり可愛すぎる男と捉えるべきだろう。

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男の娘化する主人公

女の子のような主人公といえば、「ソードアート・オンライン」の二期のキリトを思い出す。ガンゲイル・オンライン内でのキリトのアバターは、美少女という設定であった(CVこそ松岡禎丞のままであったが)。何故しばしば男の主人公、つまりは男が感情移入するキャラクターが、男の娘化*2するのか。今回はこれを考えていきたい。

アニメを見る層はポップになってきているとは思う。「シン・ゴジラ」や「君の名は。」は国民的ヒットになったし、なによりいまや誰でも「私オタクだから~」と言う。このような発言は古参の逆鱗に触れること間違いなしだが、私もその一員であることを否定できないので深入りはしない。しかし、やはりアニメを見るのはオタクであるというイメージは根深い。特に「ナイツ&マジック」のようなラノベ原作とその作品群は未だにオタクの聖域だろう。

そう考えてみると、オタクが感情移入するはずの主人公エルが男の娘化しているという事実は、エルの男の娘化はオタクの願望だということになるだろう。それはキリトにしても同じである。オタクは、その大半が異性愛者(美少女に萌える)であるのにもかかわらず、自らも美少女になろうとしている。オタクは、自身も含め、美少女のみが存在する世界の到来を願っている。それは滑稽に聞こえるが、本質的なことではないだろうか。

宇野常寛の分断線は正当か

かつて宇野常寛は90年代のオタクをひきこもり的、ゼロ年代のオタク(若者)を決断主義的として、線を引いて考えていた。確かに語られる物語の構造としては、決断主義的なものに移行してきたのかもしれない。しかし、考えてみて欲しい。人を傷つけることを、言い換えれば「父になる」ということを恐れるオタクはいなくなったのだろうか。ひきこもり心性は時代的なものではなく、いつの時代も普遍的に存在するのではないか。

これを表しているのが「ナイツ&マジック」や「SAO」の主人公の男の娘化であろう。男の娘は、萌えではなく、反父権主義の表れとして捉えるべきものである。「いつまでもひきこもっていては生きていけない」という決断主義はやはりオタクには厳しいのだ。決断によって相手を傷つけることに私たちは平気にはならない。なぜならば、それこそがオタクの良心の最終防衛線だからである。

「ご都合主義」的決断主義の誕生

男の娘化した主人公は自身の目標達成のために全力であるが、そこで行われる決断に他者は関与しない。そこには葛藤がない。その決断で誰かが救われることがあっても、誰かを傷つくことがない。また、「けものフレンズ」や「ごちうさ」、「NEW GAME!」のような女の子しか出てこない日常系も、過度にお互いを褒めあい、高めあうことを「日常」としている(けものフレンズが日常系かは意見が分かれるかとは思うが)。

今の時代を支配しているのは、明らかに本質的な決断主義ではない。支配的なのは、決断しつつ、相手を傷つけないという宇野自身が批判してきた「ご都合主義」的決断主義である。その周囲には決断を迫られない日常系が無限に広がっている。

小さな決断に日々悩まされるオタクにとっての「日常」が、 女の子が互いを高め合うこと*3だということの異常性は、ひきこもり心性の根深さを明らかしている。

リスポーンするひきこもり心性

決断主義ではひきこもり心性に勝てなかった。この勝負の結果は今だから言えることではなく、宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』が出版された時点で明らかだった(つまり宇野の東浩紀批判が充分に深くはなかった)はずだ。宇野はゼロ年代決断主義はひきこもり心性を乗り越えていると考えている。「ひきこもりたいが、それでは生き残れない」という感覚が決断主義には織り込まれているというわけである。これは現実を描ききっているだろうか。宇野の論理構造を反転させて借りるならば、ひきこもり心性は決断主義を既に織り込み済みだったとは言えないだろうか。「人を傷つけ生き残るくらいならば、生き残らずとも良い」と。

それは現在100万を超えるとも言われる我が国のひきこもりの数や、そのひきこもりたちが、家を追い出されても自殺するかホームレス化する*4かであるということから考えればわかることである。バトルロワイアルに投げ込まれれば、死を選ぶひきこもりも少なくはないだろう*5。彼らは人を傷つけてサバイヴすることの意味自体を信仰していないからである。ひきこもりは決断主義が前提とする「サバイヴすることが善」という論理内の存在ではない。「サバイヴすることが善」を信仰できていれば、ひきこもる必要などなく、人を傷つけて自分のために生きればよいのだ。

このひきこもり心性の構造的強さ(それは弱さでもある)こそが、決断主義が骨抜きにされ、ご都合主義的決断主義に陥った理由である。これは「ナイツ&マジック」や「SAO」批判ではない。それらは時代が求める物語であることに間違いはない。ひとつ言えることは、宇野が思っているよりもひきこもり心性は根深かったということである。

主人公の男の娘化は、男の抱える暴力性、父権主義からの逃亡のデザイン的な表れである。これは秀逸なキャラクターデザインである。ただ、このキャラクターの危うさは、ひきこもり心性をデザインに織り込むことで、安易に決断しても誰かを傷つけるということがないように見せてしまう点にある。だから男の娘化はご都合主義的決断主義に潜む、密輸入された父権主義を隠してしまう*6

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

 

 「目には目を」では、皆が盲目になる

私たちの現実は、セルフィッシュに振舞うことが利を得ることにつながる社会である(自覚的なボケ)。しかも彼らはそうせざるを得なかったのだと、免罪されている(ツッコミの排除)。インスタやフェイスブックでは、互いを撫であい、高め合うことで、虚構の「日常」を作りあげている(ツッコミが排除された世界での無自覚なボケ)。それに抵抗するように私たちは、ツイッターなどを通して、何かの当事者としてリアルを叫び(全てのボケに対する過剰なツッコミ)、決断主義を渇望している*7

ここに登場したのが、ご都合主義的決断主義という「物語」である。誰も傷つかず、周りの人は幸福になっていく(明らかなボケに対する正当なツッコミ)。この構造を導入しやすいのが、異世界なのだろう。未発達の土地に知識を持ち込むことで傷つけず、幸福をもたらす*8。しかしこれは「物語」に過ぎない。

私たちはもう一度考えなければならない。皆が皆、リアルを叫び、当事者として「目には目を」と主張することで、皆が盲目になってしまっている現実を(一億総ツッコミ社会)。決断主義とひきこもり心性に欠けていることは、赦すこと、赦されることである*9。私は来るべき「赦し」の物語を心待ちにしている。

*1:無線のような技術があるのならば、敵が自国のロボに乗っていてもすぐに気がつくはずだということなど。

*2:ここでは「男性キャラの女性的デザイン化」を表す言葉として男の娘を用いる。つまり精神が女性であるかは関係がない。「ナイツ&マジック」と「SAO」において主人公の精神は、むしろ積極的に男性である。

*3:これはアイドルにも通底するだろう。彼らの使う「日常」という言葉は本来の意味から遊離している。そんな人間いないだろう、というツッコミがアイドルファンに通用しないのはこのためである。

*4:イギリスでは、成人の子が実家で暮らすということが社会的に許容されていない。だからひきこもりの数は少ないが、若者のホームレス問題が深刻化している。ちなみに、日本のように実家暮らしが許容される韓国では、やはりひきこもりが多い。徴兵制から帰った者がひきこもることも多く、「ひきこもりは鍛えて治せ」というようなマッチョなことは通用しない。

*5:「じゃあ死ねば。」と、ひきこもりへの批判が飛んできそうだが、それが全ての意味において間違っていることは自明なのであえて反論はしない。

*6:ハーレムがハーレムに見えなくなるなど。欲望を満たしつつ、その倫理的な責任からは免除されるようなこと。

*7:自覚的ボケへのツッコミと、無自覚的なボケへのツッコミは違う。後者には突っ込む側の(人生を謳歌しているお前が許せないという)ルサンチマンが見え隠れしている。

*8:このことを表す「知識無双」という言葉があるらしい。これは現代社会の知識によって異世界で無双する(成功を収める)ことであり、「小説家になろう」で多用される一つの技法を指す。

*9:しかし、セルフィッシュな振る舞い(自覚的なボケ)がある限り、赦すことへの不平は募るだろう。だからまずは、自覚的なボケへのアーキテクチャによるツッコミの開発から始めるべきだ。ただ、児童のいる家庭内喫煙の禁止等、今の日本は国民の監視や縛り付けを過激にしていこうとする傾向があるので、熟慮が必要である。私がアーキテクチャによるツッコミを求めるのは、私たちが私たちを互いに赦すためである。監視や縛り付けはその真逆を行くものであるので全く支持しない。

可能世界の倫理を考える-「リゼロ」と「時かけ」から

可能世界とは何か

最近、可能世界の自分について考えることが増えた。これは私の年齢によるものなのかもしれない。就職がリアルになることで、未来の自分の想像ができるようになる。それを逆に言えば、ありえたかもしれない自分との別れでもある。

現在の可能世界論は、可能性や必然性の意味論を扱うため、ソール・クリプキらによって1950年代に導入された。可能世界論では、現実世界は無数の可能世界のなかの一つであると考える。世界について考えうる異なる「あり方」ごとに異なる可能世界があるとされ、そのなかで我々が実際に暮らしているのが「現実世界」である。(ウィキぺディア「可能世界論」より)

 私は頭の中でひとつの飲み会を開いてみた。そこには可能世界の私が勢ぞろいしている(実際にはものすごい数になるだろうが想像の中では8人とかのイメージだ)。

彼らの中には、私が過去付き合えなかった美女と懇ろになっている奴もいる(と信じたい)。身体的・精神的不幸に見舞われている奴がいる。そんな彼らに対し、私は敬意と感謝、そして責任を感じるだろう。

 タイムリープと倫理

私は沢山の自分を前にして「お前になり代わりたい」とか「お前じゃなくてよかった」ということは思わないだろう。そして彼らと別れた後も「あいつら元気にしてるかな」と、ふと思い出したりするだろう。それは安いナルシシズムかもしれない。しかし、私には、これは倫理であるように思われる。

時をかける少女」というアニメ映画がある。細田守を国民的アニメ映画監督に押し上げた2006年公開の作品だ。この作品の良さは、人の想いや行動にはキャンセルしてはいけないものもあるんだということを主人公の真琴が学ぶことにある。

私たちは日々後悔し、「あの時こうしていれば」などということを考える。このどうしようもない想像こそが、タイプリープものに私たちが惹かれる理由だろう。しかし、時かけの一番のテーマは「あの時こうしていればが実現することで変わってしまう何か」に対する想像力だ。時かけがヒットしたのは、想像されるその先をみせたからであったのだ。

和子(叔母であり原作の主人公)が真琴に伝えたのは、タイプリープの先輩による倫理の教えであり、これによって真琴は動きはじめたと考えるべきだ。真琴が「千昭の告白」を必死に取り戻そうとするのは可能世界の私・あなたに対する敬意によるものだ。真琴は告白されてから時間差で「千昭のこと、私も好きかも」と思うような流されやすく俗っぽい女の子ではない(と思いたい)。

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告白=挨拶への応答責任

告白というのは挨拶のようなものだ。これは私が挨拶のように気軽に告白できるモテ男であるということではない。告白は「あなたともっとコミュニケーションが取りたい」ということだけを伝えているのであり、これは挨拶の本質そのものである。

挨拶が苦手、という人間が一定数いるのもこのためだろう。挨拶ができない人は「あなたとコミュニケーションが取りたい」わけではないということを示したいか、「あなたとコミュニケーションが取りたい」ことを知られたくないかのいずれかである。後者はコミュニケーションの欲望の過剰であり、挨拶=告白の難しさを表すいい例である。

だからこそ告白=挨拶はキャンセルしてはならないものだ。告白=挨拶は白くてやわらかい腹を相手に見せる行為なのだ。それでいて承諾して私と同じ時を共有するか、振って私を傷つけるかを選べ!という選択肢を突きつける行為でもある。

リゼロは面白い!だが・・・

 「Re:ゼロから始める異世界生活」というライトノベル原作のアニメを最近見ていた。通称リゼロ。一話の出来は秀逸だったと思う。というか一話で惹きこまれて一気見をしてしまった。しかもとにかく高橋李依演じるエミリアが可愛い。「このすば」のめぐみんのイメージが強いが、ポンコツお姉さんもできるのだ。

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リゼロファンにはレムの告白(18話)がこのアニメの名シーンだという人も多いだろう。しかし、私としては17話までの主人公スバルのワンパターンの振る舞いに飽き飽きしていたところだったのであまり感動できなかった*1

可能世界の倫理規定違反

スバルは基本ポンコツである代わりにタイムリープができる。しかしタイムリープをするのには死ぬことでしかできない。これは「死に戻り」と呼ばれるが、この死に戻りによってスバルは壊れていく。この何度もリトライすることによる主人公自身の疲弊は「シュタインズ・ゲート」で既視感がある。しかもスバルはギャンギャン叫ぶタイプなので、感情のインフレといった感じでこちらが置いてけぼりを喰らい、イライラしてくる。

しかも、何度もリトライするなかで、エミリア言ってはいけないことを言ってしまう(17話)。このシーンは、エミリアと喧嘩別れをした後に起こるので、スバルが全く成長していないように見える。

このスバルの暴力的な態度は可能世界の倫理を侵している。スバルがエミリアを本当に守りたいのならば、可能世界のエミリアをも大切にしなければならないはずなのだ。このスバルの態度は見ていて「ああ、この後死に戻るんだな」と感じてしまうし、事実彼は死に戻る。

スバルが感情的になるのは死に戻りのリアリティなのかもしれないが、死に戻りができるからこそ不用意に選択肢を選んでいるようにも見える。可能世界のエミリアを毀損することは、現実世界のエミリア、物語の重みそれ自体を毀損する。

人を傷つけたり、人が大切にしているものを損なったりした場合、それを「復元する」ことは原理的に不可能です。(内田樹『困難な成熟』p.17)

あなたが配偶者とか恋人に向かって、「あなたのその性根の卑しいところが私は我慢できないの」とか「お前さ、飯食うときに育ちの悪さが出っからよ、人前で一緒に飯食うのやなんだよ、オレ」とか、そういうめちゃくちゃひどいことを言ったとします。でも、言ったあとに「これはあまりにひどいことを申し上げた」と深く反省して、「さっきのなしね。ごめんね。つい、心にもないことを言ってしまって・・・・・・」と言い訳しても、もう遅いですよね。もう、おしまいです。復元不能。(内田樹『困難な成熟』p.18)

責任=無限の賠償請求

引用文は、責任は無限の賠償を請求する、という文脈において登場しており、内田自身は、それを良いことだとは思っていないだろう。裁きには赦しが付随すべきだからである。しかし、この引用文に責任の本質というものが端的に表れている。

これを可能世界に拡張してみよう。死に戻った後の現実世界においてエミリアは、スバルにひどいことを言われたことを覚えていない。これを根拠にスバルがエミリアにひどいことを言うことは正当化される。しかし、可能世界においてひどいことを言われ、死んだエミリアは蘇らない。この責任からは逃れられないはずなのだ。

にもかかわらずスバルには責任感が欠如している。だからスバルの精神的疲弊は説得力を持たない。可能世界のエミリアを大切にできないスバルは、可能世界のエミリアを助けられないことに疲弊しないはずだからだ。それならばマリオを何十機も費やしてゲームをクリアするように、エミリアを何十回も殺して、助けてしまえばいい。

とはいえリゼロは面白い

散々に書き散らしたが、面白いからこそ、14~17話くらいの中弛みに我慢ならなかったのだ。リゼロは世界観もキャラクターも魅力的で2期があれば是非見たいと思っている。もはや、タイトルとも矛盾するが、時かけのように「死に戻り」の回数制限を迎えて、死んだら終わりの主人公にするべきでは、とも思う。スバルが本質的な成長を遂げて、可能世界の倫理に基づいた物語になっていけばそれに越したことはないのだが。

可能世界の倫理について考えることは、可能世界のリアリティを考えることだ。そして可能世界のリアリティこそが、現実世界のリアリティに厚みを加えることになる。リアルの断片だけが世界中で叫ばれている今だからこそ、もっとマクロな視点での想像力を持ちたいものである。

*1:これは私がアマゾンプライムで連続視聴(イッキ見)していたことにもよるだろう。週に30分ずつならば感想違ったかもしれない。まあ、私の感想はどうでもいいので捨て置く。原作の攻殻を最近読んで以来、捨て置くという言葉にハマっている。攻殻はマンガなのに欄外に注があり、捨て置くという言葉が頻繁に登場する。