リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

可能世界の倫理を考える-「リゼロ」と「時かけ」から

可能世界とは何か

最近、可能世界の自分について考えることが増えた。これは私の年齢によるものなのかもしれない。就職がリアルになることで、未来の自分の想像ができるようになる。それを逆に言えば、ありえたかもしれない自分との別れでもある。

現在の可能世界論は、可能性や必然性の意味論を扱うため、ソール・クリプキらによって1950年代に導入された。可能世界論では、現実世界は無数の可能世界のなかの一つであると考える。世界について考えうる異なる「あり方」ごとに異なる可能世界があるとされ、そのなかで我々が実際に暮らしているのが「現実世界」である。(ウィキぺディア「可能世界論」より)

 私は頭の中でひとつの飲み会を開いてみた。そこには可能世界の私が勢ぞろいしている(実際にはものすごい数になるだろうが想像の中では8人とかのイメージだ)。

彼らの中には、私が過去付き合えなかった美女と懇ろになっている奴もいる(と信じたい)。身体的・精神的不幸に見舞われている奴がいる。そんな彼らに対し、私は敬意と感謝、そして責任を感じるだろう。

 タイムリープと倫理

私は沢山の自分を前にして「お前になり代わりたい」とか「お前じゃなくてよかった」ということは思わないだろう。そして彼らと別れた後も「あいつら元気にしてるかな」と、ふと思い出したりするだろう。それは安いナルシシズムかもしれない。しかし、私には、これは倫理であるように思われる。

時をかける少女」というアニメ映画がある。細田守を国民的アニメ映画監督に押し上げた2006年公開の作品だ。この作品の良さは、人の想いや行動にはキャンセルしてはいけないものもあるんだということを主人公の真琴が学ぶことにある。

私たちは日々後悔し、「あの時こうしていれば」などということを考える。このどうしようもない想像こそが、タイプリープものに私たちが惹かれる理由だろう。しかし、時かけの一番のテーマは「あの時こうしていればが実現することで変わってしまう何か」に対する想像力だ。時かけがヒットしたのは、想像されるその先をみせたからであったのだ。

和子(叔母であり原作の主人公)が真琴に伝えたのは、タイプリープの先輩による倫理の教えであり、これによって真琴は動きはじめたと考えるべきだ。真琴が「千昭の告白」を必死に取り戻そうとするのは可能世界の私・あなたに対する敬意によるものだ。真琴は告白されてから時間差で「千昭のこと、私も好きかも」と思うような流されやすく俗っぽい女の子ではない(と思いたい)。

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告白=挨拶への応答責任

告白というのは挨拶のようなものだ。これは私が挨拶のように気軽に告白できるモテ男であるということではない。告白は「あなたともっとコミュニケーションが取りたい」ということだけを伝えているのであり、これは挨拶の本質そのものである。

挨拶が苦手、という人間が一定数いるのもこのためだろう。挨拶ができない人は「あなたとコミュニケーションが取りたい」わけではないということを示したいか、「あなたとコミュニケーションが取りたい」ことを知られたくないかのいずれかである。後者はコミュニケーションの欲望の過剰であり、挨拶=告白の難しさを表すいい例である。

だからこそ告白=挨拶はキャンセルしてはならないものだ。告白=挨拶は白くてやわらかい腹を相手に見せる行為なのだ。それでいて承諾して私と同じ時を共有するか、振って私を傷つけるかを選べ!という選択肢を突きつける行為でもある。

リゼロは面白い!だが・・・

 「Re:ゼロから始める異世界生活」というライトノベル原作のアニメを最近見ていた。通称リゼロ。一話の出来は秀逸だったと思う。というか一話で惹きこまれて一気見をしてしまった。しかもとにかく高橋李依演じるエミリアが可愛い。「このすば」のめぐみんのイメージが強いが、ポンコツお姉さんもできるのだ。

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リゼロファンにはレムの告白(18話)がこのアニメの名シーンだという人も多いだろう。しかし、私としては17話までの主人公スバルのワンパターンの振る舞いに飽き飽きしていたところだったのであまり感動できなかった*1

可能世界の倫理規定違反

スバルは基本ポンコツである代わりにタイムリープができる。しかしタイムリープをするのには死ぬことでしかできない。これは「死に戻り」と呼ばれるが、この死に戻りによってスバルは壊れていく。この何度もリトライすることによる主人公自身の疲弊は「シュタインズ・ゲート」で既視感がある。しかもスバルはギャンギャン叫ぶタイプなので、感情のインフレといった感じでこちらが置いてけぼりを喰らい、イライラしてくる。

しかも、何度もリトライするなかで、エミリア言ってはいけないことを言ってしまう(17話)。このシーンは、エミリアと喧嘩別れをした後に起こるので、スバルが全く成長していないように見える。

このスバルの暴力的な態度は可能世界の倫理を侵している。スバルがエミリアを本当に守りたいのならば、可能世界のエミリアをも大切にしなければならないはずなのだ。このスバルの態度は見ていて「ああ、この後死に戻るんだな」と感じてしまうし、事実彼は死に戻る。

スバルが感情的になるのは死に戻りのリアリティなのかもしれないが、死に戻りができるからこそ不用意に選択肢を選んでいるようにも見える。可能世界のエミリアを毀損することは、現実世界のエミリア、物語の重みそれ自体を毀損する。

人を傷つけたり、人が大切にしているものを損なったりした場合、それを「復元する」ことは原理的に不可能です。(内田樹『困難な成熟』p.17)

あなたが配偶者とか恋人に向かって、「あなたのその性根の卑しいところが私は我慢できないの」とか「お前さ、飯食うときに育ちの悪さが出っからよ、人前で一緒に飯食うのやなんだよ、オレ」とか、そういうめちゃくちゃひどいことを言ったとします。でも、言ったあとに「これはあまりにひどいことを申し上げた」と深く反省して、「さっきのなしね。ごめんね。つい、心にもないことを言ってしまって・・・・・・」と言い訳しても、もう遅いですよね。もう、おしまいです。復元不能。(内田樹『困難な成熟』p.18)

責任=無限の賠償請求

引用文は、責任は無限の賠償を請求する、という文脈において登場しており、内田自身は、それを良いことだとは思っていないだろう。裁きには赦しが付随すべきだからである。しかし、この引用文に責任の本質というものが端的に表れている。

これを可能世界に拡張してみよう。死に戻った後の現実世界においてエミリアは、スバルにひどいことを言われたことを覚えていない。これを根拠にスバルがエミリアにひどいことを言うことは正当化される。しかし、可能世界においてひどいことを言われ、死んだエミリアは蘇らない。この責任からは逃れられないはずなのだ。

にもかかわらずスバルには責任感が欠如している。だからスバルの精神的疲弊は説得力を持たない。可能世界のエミリアを大切にできないスバルは、可能世界のエミリアを助けられないことに疲弊しないはずだからだ。それならばマリオを何十機も費やしてゲームをクリアするように、エミリアを何十回も殺して、助けてしまえばいい。

とはいえリゼロは面白い

散々に書き散らしたが、面白いからこそ、14~17話くらいの中弛みに我慢ならなかったのだ。リゼロは世界観もキャラクターも魅力的で2期があれば是非見たいと思っている。もはや、タイトルとも矛盾するが、時かけのように「死に戻り」の回数制限を迎えて、死んだら終わりの主人公にするべきでは、とも思う。スバルが本質的な成長を遂げて、可能世界の倫理に基づいた物語になっていけばそれに越したことはないのだが。

可能世界の倫理について考えることは、可能世界のリアリティを考えることだ。そして可能世界のリアリティこそが、現実世界のリアリティに厚みを加えることになる。リアルの断片だけが世界中で叫ばれている今だからこそ、もっとマクロな視点での想像力を持ちたいものである。

*1:これは私がアマゾンプライムで連続視聴(イッキ見)していたことにもよるだろう。週に30分ずつならば感想違ったかもしれない。まあ、私の感想はどうでもいいので捨て置く。原作の攻殻を最近読んで以来、捨て置くという言葉にハマっている。攻殻はマンガなのに欄外に注があり、捨て置くという言葉が頻繁に登場する。