リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

男の娘と新たな決断主義-アニメ「ナイツ&マジック」から

ナイツ&マジックのテンポの良さ

今期注目のアニメのひとつ「ナイツ&マジック」を見ている。岡田斗司夫が第一話のテンポの良さを面白がっていたので興味が沸いたからだ。一話を見てみるとAパート12分の内に天才プログラマーだった主人公が交通事故に遭い、異世界に転生しちびっ子になり、夢を持ち、大きくなり学校に入学するところまでが描かれている。確かに驚異的なスピード感だ。

岡田はこのあとに続く物語の矛盾した部分*1を指摘するのだが、そこは捨て置く。私が関心を持つのは、何故この主人公が異世界に飛ばされたと同時に美少年になるのかということである。それも、ただの美少年ではない。美少女のように可愛い美少年なのである。転生前プログラマーだった男が、ルネスティ・エチェバルリア(エル)という背も小さく、CVも高橋理依というという完全なロリポジションに納まっている。不思議な話だ。

真っ先に考えられるのは、性別は男だが完全に女の子というポジション、「シュタゲ」で言うところのルカ子のような萌えキャラを狙っているということだ。確かにない話ではない。しかし、このポジションは主人公にしてはいささかキャラが複雑すぎる。エルは、女の子のように可愛がられることには抵抗感があるようであるし、ここはやはり可愛すぎる男と捉えるべきだろう。

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男の娘化する主人公

女の子のような主人公といえば、「ソードアート・オンライン」の二期のキリトを思い出す。ガンゲイル・オンライン内でのキリトのアバターは、美少女という設定であった(CVこそ松岡禎丞のままであったが)。何故しばしば男の主人公、つまりは男が感情移入するキャラクターが、男の娘化*2するのか。今回はこれを考えていきたい。

アニメを見る層はポップになってきているとは思う。「シン・ゴジラ」や「君の名は。」は国民的ヒットになったし、なによりいまや誰でも「私オタクだから~」と言う。このような発言は古参の逆鱗に触れること間違いなしだが、私もその一員であることを否定できないので深入りはしない。しかし、やはりアニメを見るのはオタクであるというイメージは根深い。特に「ナイツ&マジック」のようなラノベ原作とその作品群は未だにオタクの聖域だろう。

そう考えてみると、オタクが感情移入するはずの主人公エルが男の娘化しているという事実は、エルの男の娘化はオタクの願望だということになるだろう。それはキリトにしても同じである。オタクは、その大半が異性愛者(美少女に萌える)であるのにもかかわらず、自らも美少女になろうとしている。オタクは、自身も含め、美少女のみが存在する世界の到来を願っている。それは滑稽に聞こえるが、本質的なことではないだろうか。

宇野常寛の分断線は正当か

かつて宇野常寛は90年代のオタクをひきこもり的、ゼロ年代のオタク(若者)を決断主義的として、線を引いて考えていた。確かに語られる物語の構造としては、決断主義的なものに移行してきたのかもしれない。しかし、考えてみて欲しい。人を傷つけることを、言い換えれば「父になる」ということを恐れるオタクはいなくなったのだろうか。ひきこもり心性は時代的なものではなく、いつの時代も普遍的に存在するのではないか。

これを表しているのが「ナイツ&マジック」や「SAO」の主人公の男の娘化であろう。男の娘は、萌えではなく、反父権主義の表れとして捉えるべきものである。「いつまでもひきこもっていては生きていけない」という決断主義はやはりオタクには厳しいのだ。決断によって相手を傷つけることに私たちは平気にはならない。なぜならば、それこそがオタクの良心の最終防衛線だからである。

「ご都合主義」的決断主義の誕生

男の娘化した主人公は自身の目標達成のために全力であるが、そこで行われる決断に他者は関与しない。そこには葛藤がない。その決断で誰かが救われることがあっても、誰かを傷つくことがない。また、「けものフレンズ」や「ごちうさ」、「NEW GAME!」のような女の子しか出てこない日常系も、過度にお互いを褒めあい、高めあうことを「日常」としている(けものフレンズが日常系かは意見が分かれるかとは思うが)。

今の時代を支配しているのは、明らかに本質的な決断主義ではない。支配的なのは、決断しつつ、相手を傷つけないという宇野自身が批判してきた「ご都合主義」的決断主義である。その周囲には決断を迫られない日常系が無限に広がっている。

小さな決断に日々悩まされるオタクにとっての「日常」が、 女の子が互いを高め合うこと*3だということの異常性は、ひきこもり心性の根深さを明らかしている。

リスポーンするひきこもり心性

決断主義ではひきこもり心性に勝てなかった。この勝負の結果は今だから言えることではなく、宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』が出版された時点で明らかだった(つまり宇野の東浩紀批判が充分に深くはなかった)はずだ。宇野はゼロ年代決断主義はひきこもり心性を乗り越えていると考えている。「ひきこもりたいが、それでは生き残れない」という感覚が決断主義には織り込まれているというわけである。これは現実を描ききっているだろうか。宇野の論理構造を反転させて借りるならば、ひきこもり心性は決断主義を既に織り込み済みだったとは言えないだろうか。「人を傷つけ生き残るくらいならば、生き残らずとも良い」と。

それは現在100万を超えるとも言われる我が国のひきこもりの数や、そのひきこもりたちが、家を追い出されても自殺するかホームレス化する*4かであるということから考えればわかることである。バトルロワイアルに投げ込まれれば、死を選ぶひきこもりも少なくはないだろう*5。彼らは人を傷つけてサバイヴすることの意味自体を信仰していないからである。ひきこもりは決断主義が前提とする「サバイヴすることが善」という論理内の存在ではない。「サバイヴすることが善」を信仰できていれば、ひきこもる必要などなく、人を傷つけて自分のために生きればよいのだ。

このひきこもり心性の構造的強さ(それは弱さでもある)こそが、決断主義が骨抜きにされ、ご都合主義的決断主義に陥った理由である。これは「ナイツ&マジック」や「SAO」批判ではない。それらは時代が求める物語であることに間違いはない。ひとつ言えることは、宇野が思っているよりもひきこもり心性は根深かったということである。

主人公の男の娘化は、男の抱える暴力性、父権主義からの逃亡のデザイン的な表れである。これは秀逸なキャラクターデザインである。ただ、このキャラクターの危うさは、ひきこもり心性をデザインに織り込むことで、安易に決断しても誰かを傷つけるということがないように見せてしまう点にある。だから男の娘化はご都合主義的決断主義に潜む、密輸入された父権主義を隠してしまう*6

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

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 「目には目を」では、皆が盲目になる

私たちの現実は、セルフィッシュに振舞うことが利を得ることにつながる社会である(自覚的なボケ)。しかも彼らはそうせざるを得なかったのだと、免罪されている(ツッコミの排除)。インスタやフェイスブックでは、互いを撫であい、高め合うことで、虚構の「日常」を作りあげている(ツッコミが排除された世界での無自覚なボケ)。それに抵抗するように私たちは、ツイッターなどを通して、何かの当事者としてリアルを叫び(全てのボケに対する過剰なツッコミ)、決断主義を渇望している*7

ここに登場したのが、ご都合主義的決断主義という「物語」である。誰も傷つかず、周りの人は幸福になっていく(明らかなボケに対する正当なツッコミ)。この構造を導入しやすいのが、異世界なのだろう。未発達の土地に知識を持ち込むことで傷つけず、幸福をもたらす*8。しかしこれは「物語」に過ぎない。

私たちはもう一度考えなければならない。皆が皆、リアルを叫び、当事者として「目には目を」と主張することで、皆が盲目になってしまっている現実を(一億総ツッコミ社会)。決断主義とひきこもり心性に欠けていることは、赦すこと、赦されることである*9。私は来るべき「赦し」の物語を心待ちにしている。

*1:無線のような技術があるのならば、敵が自国のロボに乗っていてもすぐに気がつくはずだということなど。

*2:ここでは「男性キャラの女性的デザイン化」を表す言葉として男の娘を用いる。つまり精神が女性であるかは関係がない。「ナイツ&マジック」と「SAO」において主人公の精神は、むしろ積極的に男性である。

*3:これはアイドルにも通底するだろう。彼らの使う「日常」という言葉は本来の意味から遊離している。そんな人間いないだろう、というツッコミがアイドルファンに通用しないのはこのためである。

*4:イギリスでは、成人の子が実家で暮らすということが社会的に許容されていない。だからひきこもりの数は少ないが、若者のホームレス問題が深刻化している。ちなみに、日本のように実家暮らしが許容される韓国では、やはりひきこもりが多い。徴兵制から帰った者がひきこもることも多く、「ひきこもりは鍛えて治せ」というようなマッチョなことは通用しない。

*5:「じゃあ死ねば。」と、ひきこもりへの批判が飛んできそうだが、それが全ての意味において間違っていることは自明なのであえて反論はしない。

*6:ハーレムがハーレムに見えなくなるなど。欲望を満たしつつ、その倫理的な責任からは免除されるようなこと。

*7:自覚的ボケへのツッコミと、無自覚的なボケへのツッコミは違う。後者には突っ込む側の(人生を謳歌しているお前が許せないという)ルサンチマンが見え隠れしている。

*8:このことを表す「知識無双」という言葉があるらしい。これは現代社会の知識によって異世界で無双する(成功を収める)ことであり、「小説家になろう」で多用される一つの技法を指す。

*9:しかし、セルフィッシュな振る舞い(自覚的なボケ)がある限り、赦すことへの不平は募るだろう。だからまずは、自覚的なボケへのアーキテクチャによるツッコミの開発から始めるべきだ。ただ、児童のいる家庭内喫煙の禁止等、今の日本は国民の監視や縛り付けを過激にしていこうとする傾向があるので、熟慮が必要である。私がアーキテクチャによるツッコミを求めるのは、私たちが私たちを互いに赦すためである。監視や縛り付けはその真逆を行くものであるので全く支持しない。