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リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

Twitterは失恋(対象喪失)をこじらせるか

無限に語られたテーマで再び・・・

すごく平凡なタイトルになってしまった。しかし「対象喪失」という心理学の視点から見ると「Twitterと失恋」というあまりにも擦られたテーマでも、見たことのない内容になるのではないか。それを目指して書いてみたいと思う。

失恋相手がツイッターのフォロー・フォロワーに残る、ということはよくあることではないだろうか。ツイッターは関係することに秀でたツールである。しかしその分、関係を絶つということに関してはリアルよりも難しいものになっている。それはなぜか。

「ブロック」や「ミュート」という茶番

ツイッターの関係を絶つ方法としては「ブロック」や「ミュート」があるだろう、と思うかもしれない。しかしそれは関係を絶つように見えて実はそうではないのだ。極端に言ってしまえば「関係を絶つ」という演技、茶番と言ってもよいかもしれない。

ブロックから考えてみよう。ブロックすることは、相手に対し自分のツイートに関する一切を遮断すること、また相手のツイートを遮断することだ。これは完璧に関係性を絶っているように見える。しかし、ここには落とし穴がある。ブロックしたことを相手に気づかれる可能性があるのだ。

ブロックは意思の表明でもある。これはブロック「した者」から「された者」への1対1のメッセージだ。ここでの一番の問題は、相手の意識を意識してしまうということだ。わかりにくいが「私がブロックしたことに気がつく相手」について考えてしまうのだ。これが関係性の遮断だと本当に言えるのだろうか。関係性は変奏されただけで続いてしまっているのではないだろうか。

ミュートならどうだろう。ミュートは相手にはバレない。しかし、ミュートは相手のツイートをタイムラインに乗せないだけだ。見ようと思えばすぐに見ることができてしまう。つまりミュートは関心のないツイートを隠すのに便利だが、関心があるものを隠すことはできない。怖いもの見たさで覗いてしまうタイプの人には全く意味がない。なにより自分のツイートは相手に見えてしまう。ツイートは想定される他者に対する呟きである。その他者として失恋相手は意識され続ける。

相手への意識と対象消失

ではなぜ相手への意識や関心が問題なのだろう。ここで「対象喪失」の考え方が重要になってくる。まず対象喪失とは何か。これは、かけがえのないものを失うことであり、その意味は広い。

かけがえのないものを失うこと。それをどう体験するかが、メンタルヘルスにとっては重要である。愛情や依存対象の喪失(肉親との死別や離別、失恋、子離れ、ペットの死等)、慣れ親しんだ環境の喪失(引っ越し、転校、卒業、転勤等)、身体の一部の喪失(手術や事故等)、目標や自己イメージ、所有物の喪失など、あらゆる事柄が含まれる。(知恵蔵2015)

さらに、ラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクに言わせれば、対象喪失とは「対象への欲望の喪失」であるという。欲望とはべつに悪い意味ではない。欲望は「私たちが求める、だが決して満たされることがないもの」みたいな感じで捉えて欲しい。

例えば失恋を対象喪失の文脈で言い直すと「以前のように相手を欲望できない状態」となる。「(精神的・物理的に)そこにいない相手を愛すことはできない。だが愛したいのだ。」というのが失恋の本質である。

これはかなりストレスフルであるので、どこかで折り合いをつけなければならない。恋愛において、その方法は大きくは2つしかない。それは「好きな人を好きと言える」状態に戻す(復縁)か「好きだった」と過去のものにして次の相手を探す(離脱)かだ。

私はここで「復縁」の話をしたいとは思わない。それは、優れた恋愛テクを持つ者に任せたい。私には荷が重過ぎる。だからここでは「離脱」を取り扱う。これは心理学者ボウルビーの表現であるが、ざっくり言うと、愛着が対象から離れ、思い出となった状態だ。この思い出は穏やかで肯定的なもの(全てが穏やかとはいかないだろうが)であり、これによって新しい愛着の対象を見出すための精神的環境が整う。

「離脱」を阻むツイッター

しかし「離脱」までの道程を阻むものがツイッターだ。対象喪失から回復するためには、過去を過去のものにすることが必須なのだ。これはツイッターとは真逆のベクトルだ。ツイッターは相手の現在を受信「させ」続ける。人間は意識的に相手に無関心になることはできない。ブロックしようがミュートしようがそれは関係の一形態に過ぎない。関係は続き続け、対象喪失感が続き続ける。

結論として私は「失恋したら一度アカウントを消せ」と言いたい。それは有り体に言って「メンヘラ的」に見えるかもしれない。しかし、世間体のためにアカウントを維持し続けることこそ本当は病理的なのだ。現実に合わせてアカウントも刷新すべきなのである。

アカウントを変えることは、ブロックやミュートとは違う。全てを一度遮断するのだ。確かにそこには失恋相手への意識があるが、自分と相手という一対一での行動ではない。その後になって、現在に合わせ人間関係を回復させていけばよいのだ。しばらくして相手が思い出になり、自分の中に新たな「現在」が動き出した後に、相手を改めてフォローしたっていいのである(もちろんフォローしなくてもいい。)

メンヘラとして生きよ

ここまで読んで私に対し「なよなよするなよ、コンチクショウ!」と言いたい読者もおられるかもしれない。というのもここまで私は読者が少々ナイーブなメンタルを持つことを前提として書いてきた。

それは私が世に蔓延する「折れない心を作る」みたいなものを信じていないからだ。むしろこのブームは日本が「折れない心」を要請する社会になってしまった、という生きにくさを象徴している。こんな現状に疑問を持てなくなったらそれこそオシマイである。

私は最近、アイデンティティと言うものに懐疑的になってきている。自分のキャリアに、大切な人に、浸るメディアに自分のアイデンティティを求めることは容易い。しかし仕事でミスすれば、恋人に振られれば、そのメディアを愛する大勢のうちの一人だと知ればアイデンティティは一瞬で崩れ去る。そんなものなのだ。

豆腐メンタルという言葉がある。精神がもろく柔らかいことを指すネットスラングだろう。しかし、メンタルとは元来もろく柔らかいのが自然である。運よく周りに温かい家族や、気の合う友人や、恋人というアーマーがあることで豆腐でないように見えるだけなのだ。

私の居場所にたまたま豆腐一個分のスキマがあった。そのことによって私の豆腐メンタルは形を崩さず、今日もぷるるんとしていられる。そのことを忘れてはいけない。メンタルは強靱にはならない。差があっても絹ごしか木綿かの違いくらいである。

そのことを忘れると、私自身を傷つけるものに鈍感になってしまう。あなたを傷つけるものがあれば、そこからまずは逃げるべきだ。逃げた先に次のスキマがある。そこでまた、ぷるるんとやればそれでよいのである。

 

別のしかたで:ツイッター哲学

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ラカンはこう読め!

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