リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

『夜と霧』書評「極限状態に生きること―能動的主体の挫折―」

『夜と霧』書評

心理学徒としては『夜と霧』は読まねばなるまい。そして書かねばなるまい。というわけで今回は書評のようなものをお送りする。

『夜と霧』を読んで最初に感じるのは、フランクルという人間の温かみだ。巻末の写真や図には、見るだけで強制収容所の世界に巻き込まれるような恐ろしさがある。しかしフランクルが描く人間(フランクルも含めて)は実に人間的で、まるで骨と皮だけにやせ細った人間とは思えないのである。むしろ、その環境で血色も肉付きも良い、カポーやナチスの親衛隊員という存在がとても非人間的で不気味に見えてくる。
被収容者が人間的に見えるのは愛やジョークがあるからだ。それは、極限の形をとっているが故に、そこに潜む本質的な要素を浮かび上がらせる。

強制収容所における「愛」

強制収容所における愛において、愛する対象は目の前にはいない。帰ったら触れられるようなこともない。しかし、その微笑みをありありと見ることができ、対話することも可能だったというのだ。愛する対象はもう殺されているかもしれないが、そんなことは重要ではない。いつか帰宅する日を夢見て愛するのではないからである。愛は今起こっていて、それには愛する対象の身体ではなく、精神の存在こそが必要であったのである。
またそこに起こる沈黙を皆が各々の妻のことを考えている、これ以上ない有意義な時間であるとわかっていたのだ。このことは皆の団結力をも高めただろう。それは強制収容所が起こさせる群集の一部的感覚とは異なるものだ。愛という最も個人的感情が同時に起こることによる、またそれが儚い形をとっていることによる共感によって高まる団結力である。

ジョークの効用

またジョークは不謹慎ではあるが、私も面白いと感じてしまった。その例を以下に挙げる。

「俺はあいつがまだX市最大の銀行の総裁に過ぎないのを知っているんだ。ところがあいつは今ここではカポーの振りをしていやがる。」
(V.E.フランクル(1946)霜山徳爾(訳)『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』(1956)みすず書房p.162)

カポーは確かに通常の囚人よりは偉い立場にいる。しかし、カポーも囚人であることに変わりはなく、ましてや市最大の銀行の総裁であることとの落差は非常に大きいことだろう。それでもこの話の中では、カポーの方が総裁よりも上のように語られる。さらに、この話には2つの悲しさがある。かつての銀行の総裁が、カポーとして偉そうに振舞っていることの小物感。それから、そのカポーを偉いものとして扱わなければならないという自らの弱さである。

しかし、この悲しさがジョークとして笑いになるとき、彼らは被収容者やカポーという立場を俯瞰している。このとき、彼らは被収容者やカポーよりも高い位置にいる。ジョークが引き起こす、この力関係の逆転はトリックではあるが、強制収容所を高みから見下ろすような感覚を持たせる。ジョークをいう時の精神の状態は、フランクルが心理学的目線から状況を分析することと同じような、俯瞰する視点を作り出す。そしてそれは強制収容所に精神を縛り付けられないためには大切なものであったのである。 

「何故生きるか」と「生きるとはなにか」は違う

さらにフランクルは、心理学的観察の中で、収容所の世界に飲み込まれる人間の特徴として、精神的な拠り所を持たなくなることを発見した。

何故生きるかを知っている者は、殆んどあらゆる如何に生きるか、に耐えるのだ。
(V.E.フランクル(1946)霜山徳爾(訳)『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』(1956)みすず書房p.182)

「何故生きるか」という問いは「生きるとはなにか」という問いとは種類が異なる問いだ。「生きるとはなにか」という場合には生きることは前提になっており、生きることについての否定は含まれてはいない。しかし「何故生きるか」という問いには、生きることの否定「何故生きなくてはならないのか」が無言のうちに含まれている。

生きることの極限状態、強制収容所における生活での「なぜ生きるか」という問いは非常に危険に見える。まず意味があって、それから生きるのならばその意味は今ここか、もしくは未来になくてはならないことになるからだ。現在、苦役を受け続けていて、開放の日は無期限に延長され続けるような日々の中で、「何故生きるか」という問いは「何故死なないのか」という死への誘惑に姿を変えてしまうだろう。

フランクルはここで問いの意味を180度転換させる。つまり「何故生きるか」という、問いを発する者から、生きるということが私たちに要求していることに応答する者へのシフトを起こすのである。これは能動性による主体の基礎付けではなく、受動性による主体の基礎付けへシフトすることを意味する。

何人も彼の代わりに苦悩を苦しみぬくことはできないのである。
(V.E.フランクル(1946)霜山徳爾(訳)『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』(1956)みすず書房p.184)

レヴィナスアブラハム的主体」との関連性

他の誰にも代替不能であるような責任を引き受けることによって、立ち上がる主体性という構想こそが、強制収容所にいる人間を救いうる唯一の考えだとフランクルは言う。これは、ユダヤ人哲学者レヴィナスが言うところの「アブラハム的主体」に類比的だ。

この、代替不能の責任の引き受けというものは「いつか歴史が正しさを証明する」や「正義は最後に勝つ」といったものではない。そのようなものでは収容所の中での無意味に耐えられない。西洋哲学は「知能指数が高く健康で冷静な大人の男性」を前提にしているために、ここでは既に意味を失ってしまっていたのだ。「アブラハム的主体」は誰も救ってはくれない、神や正義に見放されるような絶望的な孤独によって立ち上がる主体性なのである。

また、被収容者を無意味な苦しみや死から救う考え方に、意味への転換がある。それは彼が自らの苦しみを、彼の愛する人間から苦痛に満ちた死を取り去るように願うことで受け入れることである。自己の苦しみは、自己が苦しむ限り無意味だが、(願うことしかできなくとも)他者のための苦しみだとすることで最も強い意味になりうるのである。

フランクルの過ち

フランクルはこの著書において、すべての人が生きる希望を持ちうる可能性を示している。その意味で、この本は人間誰しもが陥る可能性のある「何故生きるか」という難題にアクロバティックに立ち向かう、読む者に勇気を与えるものになっている。しかし、善意の人間とそうでない人間が「種族」として存在するという考え方については同意できかねる。ここでは少し、フランクルの客観的で冷静な記述が徹底されていないように思われる。

確かに、ナチスの親衛隊員にも善意が存すること、ユダヤ人の同胞にも悪意が存することを発見し、記述するという態度は尊敬に値するものだ。しかし、どのようなグループにも善悪が存在するというよりも、どのような人間のうちにも善悪が存在するというべきではないか。同郷の者や知り合いに対して少し豆が多くなるようスープを注ぐという行為も、善ではない。しかしこの状況では、それは悪であると誰も糾弾できない。極限の環境がそうさせたからである。

ジョークに登場したカポーも、かつては大銀行の総裁として温和であったかもしれない。つまりアイヒマンが凡庸な悪であったように、個人の悪の発現は環境によって起こるのだ。だからといってそのカポーが悪でなかったわけではない(もちろんアイヒマンもである)。たとえ環境がそうさせたとしても彼は悪を行ったのだ。こうして彼も、他の誰にも代替不能であるような責任を引き受けることになるのである。それは死刑であるかもしれないし、罪悪感であるかもしれない。

トラウマの克服としての「赦し」

しかし、フランクルはこの許されざる悪が生み出した悪夢を生き抜いてなお、それに赦しを与える。収容所から解放された仲間が、麦を踏みにじるエピソードがある。それは、解放された仲間が悪の客体であったところから悪の主体として暴力と権力に(以前とは異なる形で)固執している姿なのである。フランクルはそれを止めようとする。

それは過去への固執こそトラウマの病理だからだろう。彼にとって、愛や友情に満ちた世界は強制収容所に入ることによって終わりを迎えた。それならば強制収容所を出て最初に彼が望むのは悪に対して正義の鉄槌を下すことだろう。しかし、この正義の次元にとどまる限り、過去に固執し続けることになる。この過去を弔って、未来に歩むことこそが、トラウマを克服することである。フランクルは悪夢的過去を過去として歩き出すことこそ、生きるということが要求していることだと考えたのではないだろうか。

 

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

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レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

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イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

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コーラみたいな女の子論–神田恵介やくしまるえつこ論から

もっと知りたいやくしまるえつこ

私は相対性理論を含め、やくしまるえつこの歌が好きだ。ということで最近ユリイカやくしまるえつこ特集を買った。といっても2011年の特集であり、古本をアマゾンで買ったのだが。今更ではあるが彼女のことをもっと知りたくなったのである。

しかし「もっと知りたい」という気持ちに応えてくれている特集ではなかった。そもそもやくしまるは自らの情報を完璧に統御している。だからこそ私は知りたくなるのだが、読んだ後も彼女の「謎」性はそのまま残ることになった。

神田恵介やくしまるえつこ

それはそうとしてだ。神田恵介という人物がやくしまるえつこ特集に寄稿していた。彼は服飾レーベル「keisuke kanda」の主宰であるらしい。私はよく知らない。しかし彼のやくしまる論「コーラと「あの娘」とやくしまるえつこに捧げるラブレター」は私の気持ちをそのまま表していた。

あなたの歌は、まるでコーラのよう。甘くてさわやかで。身体にはあまり良くないってわかってても、ついつい口にしてしまう。そんな中毒性を持った歌だと思う。

僕は、身体に良い無添加100%の野菜ジュースよりも、コーラみたいな有害なものに魅かれてしまう。

コーラみたいな女の子というのがいる。彼女たちは多少のメンヘラ的妖しさを備えている。彼女たちの日常は私には想像すらできない。そんな感じだ。惹きこまれても傷を負うだけであることはわかっている。でも近づかずにはいられない。そんな感じ。

コーラみたいな女の子の魅惑

わかる方もいるだろうと思うが、女の子のメンヘラ的な部分を見たとき私の中では警告音が鳴り響く。「ウィーン!ウィーン!Caution!Caution!ウィーン!」という具合である。そうなると私の冷静さが飛躍的に上がり、可愛いとか、守りたいとかいう気持ちよりも巻き込まれないようにと、防衛的態度を取ることになる。要は引いてしまっている。

しかしコーラ系女子はそうはいかない。警告音は鳴り響いている。その先は泥沼であることがわかりきっている。巻き込まれて私がボロボロになったとき、実は彼女のほうは飄々と非日常的な日常を送っている、なんてことも想像がつく。しかし惹かれてしまう。

コーラみたいな女の子を私はこれからも愛してしまうだろう。だって可愛いし、危ういし、謎を秘めているし。私はボロボロになるだろう。でもボロボロになるのは所詮は私である。その子ではない。そうと決まればコーラの中で溺れて骨の髄まで溶かされようじゃないか。

巷のきゃりーぱみゅぱみゅ論への反論

ここから私は大いに飛躍して、きゃりーぱみゅぱみゅの話をしよう。といってもやくしまるとは違い、きゃりーぱみゅぱみゅのことが私は別に好きではない。しかし巷に溢れる「きゃりーぱみゅぱみゅもいつか篠原ともえのように普通になる」論には同意できないのだ。

別にきゃりーぱみゅぱみゅもいつか篠原ともえのようにならない!きゃりーは特別なんだ!ということではない。そうではなくて、篠原ともえのようになったとして、だから何なのだ、ということである。

きゃりーぱみゅぱみゅも戦略的に自己を打ち出すことで大いに謎を秘めた存在として、私たちの前に現れている。その「謎」性を支えているのはほかならぬ私たちだ。私たちがそれを謎として解読に取り組むからこそ謎は謎として存在できるのである。

篠原ともえはその「謎」性を時の流れの中で失ってしまった。それは仕方がないことだ。きゃりーもいつかはそうなるかもしれない。しかし、だからといって彼女たちの特異なキャラクターが意味のないものになるわけではない。謎が意味を持つのはいつでも「今」においてだからだ。今、謎として取り組まれているというその事実、それだけで十分ではないか。

コーラ女子は「今」を生きる

きゃりーぱみゅぱみゅの批判者は彼女の「謎」性を時間を用いて解消しようとしている。彼女を仮想的にオバサンにすることで生活感を与え、「謎」性を剥奪しようとしている。しかしそれは意味がないことだ。だって未来を先取りして謎を放棄しているだけだから。「彼女はいつかオバサンになるだろうから、興味がない」といっても、じゃあなにに興味を持つんだ、みんないつかは骨になるぞって話である。

きゃりーの「謎」性はいつか崩れ去り普通になるだろう。しかし「私は謎を放棄します!」という宣言は「今」は意味を持たないだろう。そして未来にその宣言が正しかったとしても意味がないだろう。そのときには新たな「謎」に皆夢中であるだろうからだ。コーラみたいな女の子は「今」を生きるのだ。そこ以外に意味も謎もないのである*1

 

RADIO ONSEN EUTOPIA

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天声ジングル

天声ジングル

 

*1:篠原ともえきゃりーぱみゅぱみゅを私はコーラ女子として認定していない。しかしこの「きゃりー論」はイメージとしては「やくしまる論」でもある。

日本とフランスとファッションとテクノ

ファッションショーの国際比較

最近ファッションショーの国際比較の授業を受けた。私はファッションに特別な関心を持っているわけではない。しかし授業が面白かったこともあり、ぐるぐると考えが頭を駆け巡ったのだった。

フランスでは日常、街で見かけないような奇抜な高級な服を、舞台装置までその日のために作られた会場で披露する。観に来た者たちは客席のように高い位置から遠くを見下ろすようにショーを見ている。

アメリカではハイブランドでも、そのまま街に着ていけるようなデザインのものを、バイヤーたちが横から間近で見る。大掛かりな舞台装置などもなくシンプルで、服という商品をよく見るためのショーという感じがする。それは商業的であり、ビジネスであることを感じさせるものだった。

日本では、ファッションショーを見上げるスタイルだ。見ている側も若い女の子が中心で、スマホなどを通じてその場で商品を買ったりする。それだけに価格は若者にも手の届く範囲になっており、デザインもハイブランドの流行を模倣したものになる。

 トレインスポッティングとTGC2016

このような比較であった。確かに面白いがこう並べると、日本のファッションショーは即物的なものだと言いたくなってしまう。現にこの授業の講師であるファッション誌の元編集長は日本のファッションショーやモデルについて手厳しい発言をしていた。

しかし、ここで「東京ガールズコレクション2016 AUTUMN/WINTER」の始まりの音楽がアンダーワールドの「Born Slippy」であったことは示唆的だと私は考える。この曲は、映画「トレインスポッティング」に使われた曲である。

トレインスポッティング」は1996年公開のイギリス映画だ。映画内で描かれるのは不況にあるスコットランドの若者たちだ。貧困と若者たちの溢れるエネルギーが描き出され、日本でも若者を中心に支持を集めていた。ではなぜ、東京ガールズコレクションにこの映画の曲が使われたのか。それを考えてみたい。

テクノによって 消滅する「本物―偽物」関係

アンダーワールドというアーティストはテクノやハウスに分類される。テクノには、サンプリングという技法がある。日常生活の音や、街の喧騒、或いは他の音楽までも新たな曲の素材(サンプル)にしてしまうのだ。その起源にはフランスの音楽家の「ドアの音」から作った音楽がある。フランスにはテクノの起源がある。

フランスのテクノアーティストで最も有名なのはダフトパンクだろう。彼らの中でも最も有名な曲「One More Time」はMVで松本零士のアニメを使用したことでも知られているが、この曲自体がサンプリングでできている。「One More Time」はEddie Johnsの「More Spell on You」でできている。では「One More Time」は偽物なのだろうか。私たちにはそう思えないだろう。

つまりこれはひとつのシミュラークルなのであり、「More Spell on You」と「One More Time」の「本物―偽物」関係は曖昧になり、消え去る。私はこのテクノ特有の「本物―偽物」関係の消滅が日仏のファッションショーとも繋がっていると考えている。

 TGCの意思

それにしても2016年のショーに1996年の曲を使うのは、いかがなものだろう。「ファッション」という視点に立つと20年も前の曲でモデルが登場するということ自体が滑稽に思える。しかしこの選曲にはひとつの意志が感じられる。

それは(観客も含む)若者たちこそが、ファッションにおける「本物」になっていくのだという意思だ。「トレインスポッティング」のテーマはスコットランドの若者がロンドンへ出て、幸せをつかもうとする、まさに「本物」になろうとする物語であったのだ。

ファッション誌の元編集長はこのように言う。「私たちはいち早く飽きなければならない。デザイナーと同じスピードで服に飽きていかなければ、次の流行は読めない。だからパリコレには毎回行かなければならない。」彼女はファッション・ビクティムという言葉を使って自らを表する。文字通り、ファッションの犠牲者である。

一方で日本の若い女の子たちは、もしショーに立つモデルの着る服が変わらなければ、恐らく現在の服に飽きることがないだろう。フランスの大学生のファッションが、そして日本の男子学生のファッションがここ数年変わらないように、彼女たちも止まってしまうだろう。その意味で、彼女たちは「本物=ファッション・ビクティム」ではない。

しかし、思い出すべきはダフトパンクの「One More Time」である。彼女たちは「本物」ではないが「偽物」でもないのだ。アンダーワールドの「Born Slippy」は映画音楽であり、またテクノである。この選曲は20年の時代を超えて、東京ガールズコレクションにマッチするのだ。彼女たちにとって、もはや「本物」でないという事実は「本物」になろうとするエネルギーにしかならない。

 フェイクレザーの逆襲

遠くない未来、フェイクレザーはもはやフェイク(偽)のレザーではなくなり、「これはフェイクレザーという素材なのだ」という逆転現象が起きるはずである。それは、先にパリコレで起こるのかもしれない。そのとき、ファッション業界は刷新されるだろう。

フランスの本物と日本の模倣品という関係が崩れ、新たに相互作用でファッション、すなわち流行が作られていく時代になるだろう。それは紛れもなくシミュラークルの世界であり、テクノの業界で、また東浩紀の『動物化するポストモダン』で言及されているアニメやゲームの世界では既に起こっている動きなのだ。それを歓迎できるかは、ファッション業界を牽引するフランスのデザイナーに掛かっている。

しかし、保身を考えてそれを拒否するデザイナーは遅かれ早かれ業界から退場せざるを得ないだろう。最も早く既存のものに飽きなければならない者たちにとって、過去にしがみつくことは命取りになるだろうからだ。自らがファッション業界の「本物」であろうとすると、今まで「偽物」だとしてきたものを見直さなければならない。そのような逆説的な時代になってきている。

この考えは間違っているのかもしれない。いや、間違っているのだろう。しかし楽しければそれでいいのだ。私にとってはフランスもファッションもテクノも女の子も、観光客気分で語ることしかできないのだから。残念ながら。

 

T2 トレインスポッティング -オリジナル・サウンド・トラック

T2 トレインスポッティング -オリジナル・サウンド・トラック

 
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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『SAO』論-東浩紀『AIR』論から

『SAO』論-東浩紀AIR』論から

今回はアニメ『ソードアートオンライン』について考えてみたい。私が考えたいのは第1期のラストについてだ。時期的にも、読者数的にもネタバレに配慮することはないため、ご容赦願いたい。

さて今回『SAO』論を立てるにあたって、重要なのは東浩紀の『AIR』論だ。この論の正式なタイトルは「萌えの手前、不能性に止まること–『AIR』について」である。

この論の初出は『美少女ゲームの臨界点』,2004,波状言論だ。『ゲーム的リアリズム』の付録であるため今も簡単にアクセスすることができる。 ここで語られるのは美少女ゲームをプレイする者に付き纏う解離についてである。

美少女ゲームをプレイする者の解離

プレイヤーは美少女ゲームを一回きりの物語としてプレイする。女の子の一挙手一投足に繊細に反応し、疑似恋愛を謳歌する。ここでの彼らの振る舞いは反家父長制的である。

一方、美少女ゲームの全ストーリーをコンプリートするには効率よく物語を進めていかなければならない。ここでは彼らはセーブデータを管理し、一人ひとりの女の子の全てを把持しようと行動する。その時の女の子への目線は躊躇うことなく性的なものである。

さらに美少女ゲームの世界では通常のポルノの比ではない性的願望が露わになる。その意味でオタクは家父長制的を超えた、超家父長制的に振る舞っていると言える。

反家父長制的な自己と超家父長制的な自己、これはゲーム内キャラクターとゲーム外プレイヤーとも言い換えられるが、この解離を美少女ゲームは強化する。

解離は不安定な状態である。私たちに葛藤をもたらすからだ。しかしこれをオタクたちは「ダメ」の論理を用いて、解離の境界をあいまいにする。「俺たちはダメだから、父にはなれないが、欲望は満たしたい。」

須郷=オベイロン=私たちの欲望

これでやっとSAO論の入り口まできた。SAOの一期のラストは、アスナと付き合っているキリトと、それを強引に奪い取り結婚してしまおうという須郷=オベイロンの戦いで締めくくられる。戦いの直前オベイロンはキリトの目の前でアスナに対し性的に接近する。アスナの服は破れ胸が露わになる。

ここで、『AIR』論における解離をそのまま、ソードアートオンライン第1期のラストに持ち込んでみよう。するとキリトは反家父長制的でオベイロンが超家父長制的に見えてくる。

私たち観客は当然主人公キリトに感情移入する(ように作られている)。しかし、私たちがアスナをキャラクターとして、萌えの対象として見ている限り、オベイロンと無関係ではいられない。オベイロンの欲望は私たちの欲望と結びついている。

抑圧としてのキリトへの感情移入

キリト(=私たち)の怒りは、オベイロン(=もう一方の私たち)に向いているのだ。キリトがオベイロンを打ち倒す姿は、反家父長制的自己による超家父長制的自己の抑圧そのものである 。

オベイロンの「エクスキャリバーをジェネレート!」はゲームをメタ的にクリアするようなズルさがある。しかしそれはアニメの世界観に感情移入しつつも、実際には涼しい部屋でキャラに萌えている私たちと同種のズルさである。

キリトがオベイロンに勝利することの気持ちよさは物語だけでなく、その構造に大きく由来している。私たちはオベイロン的な、つまり超家父長制的自己を抑圧する。それは反家父長制的自己と超家父長制的自己の解離に見かけ上の解決をもたらす。この快楽が物語に付与されている。

リスポーンするオベイロンに立ち向かう

しかし抑圧によって解離は解決しない。超家父長制的自己の元を辿ればそれは明らかである。

もともと家父長制的に(オヤジ的に)振る舞えない人間が反家父長制的に(オタクや文学青年的に)振る舞うようになる。ここでは家父長制的自己が抑圧されている。この反動として超家父長制的自己が現れる。

それは東浩紀的に言えば「反家父長制的な想像力に隠れて超家父長制的な欲望を密輸入する構造」を持っている。

抑圧されたものはいつかは蘇る。自己の家父長制的な部分が反家父長制的自己に抑圧される。超家父長制的自己は家父長制的な部分が姿を変えて蘇ったものなのだ。

私たちがどれだけキリト的なものに感情移入しようと、それが抑圧である限り私たちのなかにオベイロン的なものはリスポーンする。

このゲームの真のクリアは私たちが「成熟」することしかない。解離をソフトランディングさせるには、反家父長制的自己と超家父長制的自己をあやふやにせず、ふたつの着地点を探らなければならないのだ。

 

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

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ゲンロン0 観光客の哲学

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