リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

『十二人の怒れる男』映画批評「スキーマの見せる「客観的」世界について」

映画『十二人の怒れる男』批評

今回は不朽の名作『十二人の怒れる男』の批評を。私が同じ本ばかり引用に使うのは、それだけしか読んでいないわけではなく(確かにそれほど読んでいるわけではないが)、その本への理解をより深めるためなのだと断っておく。 

この映画の面白さは、ひとつの部屋の中で物語が展開するシンプルさ、相手の考えをオセロのようにひっくり返す痛快さだけにあるのではない。私たちがそれとは知らずに縛られている自分の世界認識は、私たちに「それなりの正確性」しかもたらし得ないという感覚的な真実性がこの物語にさらなる面白さを付与している。

私は、この映画を考察するキーワードとしてスキーマ、それに関わる知覚的防衛、そして投影を挙げたいと考える。

偏見とスキーマ

被告人はスラム育ちの少年で、罪状は「父親殺し」の第1級殺人、それに対する犯行の目撃者、逃走の目撃者がいるという状況で、その裁判の陪審員を務めるとはどのような状況であるだろうか。陪審員の12人は様々な階級、民族から構成される大人たちだが、彼らの多くはスラム育ちの人間を人間だとは考えていない。

私はその姿に、ある種、滑稽であるくらいの偏見を感じ取った。しかし私たちは彼らの偏見を笑っていてよいのだろうか。私たちは自身の持つ偏見に、気がつくことができるだろうか。気がついているならば、そんな偏見をまず持たないのではないか。

恐らく、ハンナ・アーレントが、アイヒマンの中に「凡庸な悪」を発見することは、現代に生きる日本人が「凡庸な悪」を発見することよりもはるかに難しいことだっただろう。それは彼女がヒトラーの時代を生きるユダヤ人であったからだ。

私は、アイヒマンに対する一般のユダヤ人の当事者が持っていた憎しみを偏見だというのではない。そうではなくて、当事者にしか見えていない世界でしか語りえぬこともある、ということである。私たちはヒトラーが絶対悪であることや、その行いがもたらした悲劇について知っているが、その当事者ではない。今を生きる私の持つ「アウシュビッツスキーマは、当時のユダヤ人の「アウシュビッツスキーマと同一ではない。

陥りがちな罠

アウシュビッツ」や「スラム」が私にとって俯瞰可能である事象、つまり知識としての「アウシュビッツ」や「スラム」である限り、アーレントに同意することや、一人だけ少年の無罪を唱える陪審員に肩入れすることは容易である。しかしここには大きな落とし穴がある。それはアーレントに同意する知性や、『十二人の怒れる男』で描かれるスラムに対する偏見に憤慨することができる能力は、私たちをスキーマから解放することを意味しない、ということである。

つまり私が今、何かについて、自己のスキーマを通して非合理的な決断を下そうとしていても、私はそこに潜む非合理性に気づかないばかりか、(私がその非合理性を笑った)11人の有罪を求めた陪審員に私の非合理性を笑われる可能性がある、ということだ。私が見る世界は、それがまぎれもない事実であるという現実感を纏っているが、スキーマを通じて歪んでいる。

「エポケー」現実を疑うということ

普通、スキーマは、私たちにそれなりの正確性で世界を見せている。私たちはすれ違いざまに人に刺されることや、寝ている間に親に首を絞められることなどを想像しない。そしてそれは経験的に正しい。しかしスキーマを通して見える世界は、完全なる真実ではない。

いついかなる時も先に書いたような想像に囚われている者は狂気の次元にいる。重要なのは、どのタイミングで自らのスキーマを、つまりは現実を疑うかだ。無罪を唱える陪審員は「この裁判」がそのタイミングであると考えた。彼は、スラムの少年の無実を信じていたわけではない。弁護士すらも十分に戦わぬままに(たとえ少年が父親殺しをしていたとしても)少年を死刑にすることに対して、ためらったのである。

「記号が何ものをも意味しないでただそこにある」とき、その決定不能のものを前に、判断中止をしている「私」を維持すること、それこそすぐれて人間的な能力であり、それこそが人間の人間性を基礎付ける、ラカンはそう考える。(内田樹(2004)『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』文春文庫p.126)

これは、フッサールの「現象的判断中止(エポケー)」によって「客観的世界をかっこに入れる」という文脈で登場した言葉である。私には、無罪を唱える陪審員は判断中止を行うことで、他の11人と違う、もう一つ次数の高い思考の準位に到達しているように見える。(彼はこのことによって物語の主人公になった。)彼の判断停止を駆動したのは、少年の有罪を反射的に決定することへの「なんかおかしい」という身体感覚である。

スキーマによる世界の安定

無罪を唱える陪審員一人の判断停止によって、11対1の状況から6対6、3対9と無罪だと考える陪審員は増えていく。しかし、粘り強く有罪を唱える者がいる。その者たちに共通することは、私たちから見ると偏見に過ぎない、自分の客観的世界に固執するということだ。自分のスキーマを守ることで、世界の安定を維持しようとするのだ。これを知覚的防衛という。これが、スキーマの多くが人生の初期段階に形成され、その後それが精緻化され続ける理由のひとつであろう。

人は自分自身や世界に対して安定した認知を持ち、それを維持したいと望んでいる。したがって自らのスキーマがもはや現実と合わない不正確で歪曲されたものになってしまっても、認知的一貫性を保つために、自分のスキーマを通して物事を解釈するのである。(ジェフリー・E・ヤング,ジャネット・S・クロスコ,マジョリエ・E・ウェイシャー(2003)伊藤絵美(監訳)『スキーマ療法パーソナリティ問題に対する統合的認知行動療法アプローチ』(2008)金剛出版,p.21)

私がこの引用文から連想するのはBPDにおけるスプリッティングである。BPDの患者は「理想化―こきおろし」によって相手を暴力的に理解する。そこには判断停止などはなく、相手はスキーマを通じて「完全に理解」されている。しかし、それは現実とは合わない不正確で歪曲されたものなのである。

客観的世界はあくまで自己の世界である

有罪だと言い張る最後の男は、自らの息子を被告人に投影している。それにより男は物語内で何度も自己の意見の矛盾を(コミカルに)露呈してしまうにも関わらず、有罪だとして譲らない。息子が家を飛び出すというある種トラウマ的な経験が、彼のスキーマを武装しているのだ。最終的には、彼は完全に追い詰められ、息子との写真を何度も破く。この行為は他の11人への投影の暴露であり、ここで彼は無罪に主張を変える。

そのため、彼が無罪だと意見を変えた後の様子は、悲しげであるが、どこか観ている者に暖かさを感じさせる。それはいつか彼の息子が彼の元に戻るとき、彼がそれを受け入れることがありありと想像できるからである。

私たちは「客観的に考えて」や「普通に考えたら」といった言葉に続けて意見を言うことがある。しかし「客観的」や「普通」という、私が想像する他我は結局、私の内的世界のものに他ならない。私の「あの女の子はやめておけ」という忠告が全く意味を持たないのは、私と友人が見ている「客観的」世界が違うからなのである。

十二人の怒れる男』はそこに風穴を開ける作品である。内的世界から外へのアクセスの物語であるのだ。この映画を観て、「当時のスラムへの偏見に対する知識」以上の意味を汲み出すには、「私」の目の前をスキーマが覆い隠すようにして、「私」の世界が成り立っていることに気がつくことだ。「客観的」世界に篭っていてはいけない。

 

他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)

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スキーマ療法―パーソナリティの問題に対する統合的認知行動療法アプローチ

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