モナーコインをマイニングしてみた
不労所得は人類の夢
不労所得・・・その妖しげな響きに誰しもが魅了される。アフィリエイトやメルマガ、マルチ商法。不労所得と結びつくそれらの言葉全てはいまや過去の遺物だ。
不労所得2017。それは仮想通貨マイニングだ!!!
高騰のニュースで、にわかに注目を集めている仮想通貨。ビットコインに代表されるそれらを、日本円で買わずとも手に入れる方法がある。それが仮想通貨マイニングだ。
マイニングにはグラボが必須
なんて書いているが、私はマイニングなる言葉をつい3日ほど前知った。
マイニングとは日本語でどうやら採掘のことらしい。仮想通貨を流通させるお手伝いを自分のPCでさせる代わりに、報酬として仮想通貨を少しもらえるみたいなロジックだそうだ。
PCといってもCPUでは全くダメなのだそうだ。GPU、つまりグラフィックボードの力でガリガリ掘ることで、働かずにカネを稼ぐというのだ。特にAMDのグラボは効率がよいらしく、店頭からも、ネットからも消えてしまったらしい。次いで、NVIDIAのグラボが人気なんだとか。バランスを考えるとNVIDIAに軍配が上がるというデータもあるようだ。
NVIDIA・・・?
えぬびでぃあ?何か聞いたことのある名だ。そう思い私は愛してやまないZ420のフタをガバッと開ける。そこにはNVIDIA Qadro K2000の文字が!
ネトゲ好きでもCGクリエイターでもない私だが、今使っているPCにはグラボが刺さっている。速そう、という馬鹿な理由で中古のワークステーションを買った過去の自分に感謝しかない。
最強の方程式を完成させた私は、早速マイナーとしてのキャリアを歩みだした・・・
モナーコインを掘る
日本発の仮想通貨が存在する。その名をモナーコインという。
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< オマエモナー
( ) \_____
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(__)_)
こいつがシンボルの仮想通貨だ。今年の初めには1MONAは3円程度だったのだが、今や60円ほどのところをうろうろしている。価値が20倍になった通貨だ。今回はこれを掘る。堀りまくって不労所得。
設定が結構ムズかしい、けどできる
設定は結構難しい。先人たちのホームページを覗きつつ、ウォレットやマイニングプールへの登録、マイニングソフトのダウンロード、batファイルの書き換え。
文系の私にはファイルの書き換えなど気の遠くなる作業だ。何度も書き換え、何度も失敗し、しかしその度に方程式を念仏のように唱える。私は既にNVIDIA教徒だ。
ついに始まったマイニング
え、めちゃくちゃかっこいいじゃん。。厨二心を掴まれた私は、次に本当に稼げているのか確認する。
おおお!これが増えていく私のMONA!不労所得が生まれている!!
高等遊民のデータをチラ見せ
私は、マイナー=高等遊民としての一歩を踏み出した。しかし上には上がいるというものだ。私以外のマイナーはどれだけ稼いでいるのか。貴族社会のデータを見てみよう。優れたマイナーは、現状に満足しないものなのだ。
ん?
一位の人と、1500倍の差があるじゃないか!!
てか、Punihikuさんの数値ちっちゃ!!!
甘くはないマイニングの世界
一日PCを動かし続けて、0.097MONA手に入る計算になっている。
0.097×60=5.82円。
6円足らず。電気代すらペイできねえじゃねえか!!!
Quadroはマイニングには向かないようです
どうやらNVIDIAでもGeForceシリーズというゲーム向きのグラボがマイニングには向いているようで、Quadroシリーズではダメなようだ。私のQuadroK2000はゲームより3DのCGなどを扱うのに向いているようで、ヤフオクでは中古で15000円程度で売れている。売りさばいてGeForceに乗り換えて、さらなるマイナー道を歩もうか・・・
ASUS NVIDIA GeForce GTX1060搭載ビデオカード メモリ6GB TURBO-GTX1060-6G
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相対性理論『証明Ⅲ』を観てきた
はじめてのやくしまるえつこ
昨夜、中野サンプラザホールにて相対性理論『証明Ⅲ』を観てきた。相対性理論のライブには初参戦だったが、運よく一階の5列目くらいの絶好の席だったのでかなり楽しめた。ツインドラムのドカドカ音は暫く耳に残りそうだが・・・
「ウルトラソーダ」で始まったライブ。薄い幕が客席とステージの間に張っている。ここをスクリーンとしてリアルタイムのやくしまるえつこがドットに分解され映し出される。幕の向こうにやくしまるが見える。私はスクリーンに映るゴーストとやくしまる本人を交互に見ながら、遂に始まったライブに感動していた。
ケルベロスでわんわんするやくしまる
2~3曲演奏した後、「幕が開いたら、そこはもう、相対性理論プレゼンツ、証・明・Ⅲ」とやくしまる。「ケルベロス」が始まる。やくしまるは二つの犬の顔のパペットを手にはめ、彼女の顔と合わせて3つの顔を持つケルベロスになった。「地獄の番犬わんわーん」に合わせて両手のパペットがわんわんする。可愛すぎる。30歳を迎えているとは信じられない(失礼)。
すっかり相対性理論に引き込まれてしまっている。意外にもパワフルな演奏と、対照的に完全に感情を統御したやくしまる。噂には聞いていた、沈黙の中ゆっくりと水を飲むやくしまるも見れた。彼女はライブの熱気が冷めてしまうことをまったく恐れていない。というか、もはや水を飲むというパフォーマンスが成立している。
演技性のレイヤーが一枚剥がれた「アンコール」
うっかり、ライブレポのようなことをしそうになっている。それはもっと適任な人達がいるだろうと思うから、そちらに任せたい。私が今回考えたいのはアンコール時のやくしまるについてだ。ここからは、やくしまるえつこはやくしまるえつこというキャラクターを演じている、ということを前提に話を進めていく。やくしまるが作詞・作曲時にはティカ・α名義に変えることからそのことは自明であるように思われるからだ。
「またね」といってステージを降りたやくしまるを私たちは手拍子でアンコールの流れに持っていく。しかしその途中で映像演出が始まってしまい、アンコールが成立していない状態で手拍子が止んでしまった。このよくわからない流れの中、相対性理論が戻ってくる。これは演出上のミスだったのかもしれない。それが影響したのか、帰ってきたやくしまるは、演技性のレイヤーが一枚剥がれていた印象を受けた。
前列だからこそわかる情報量の変化
『証明Ⅲ』はアンコール前で終わったのだ、と感じたくらいだ。めちゃめちゃ笑顔であるとか、しゃべり方が違うとか、そういうわかりやすい変化ではない。これは前列だからこそわかる、情報量の微細な違いだ。アンコール前までのやくしまるは、自分の有機性を押さえ込み、無機物のように振舞っていた。機械のように自分から発される情報、声のトーンや仕草や、表情などを全てコントロールしていた。しかしアンコール時には、機械になりきれないことからくる人間らしさが漏れ出てしまっていた(あえて漏れ出させたとも考えられるが)。
ここで間違えてはいけないのは、私がみたのは、やくしまるの人間性と音楽が結びつくというような、安易な人間らしさではないということだ。機械になりきれないことからくる人間らしさは、究極的である。言ってしまえば、数学における点が面積を持たないということと、どんな点もそこにある限り面積を持ってしまうことの関係に似ている。
ボカロと比較されてきたやくしまる
先ほど、演技性のレイヤーが一枚剥がれるという表現をした。彼女は世代的に、いつもボカロと比較されてきた。感情を込めない歌い方と、自分の情報のコントロールの徹底など、類似点はやはり多い。しかし、レイヤーを剥がせば剥がすほど、人間らしくなるという点ではボカロと真逆だ。彼女は人間だから、当たり前なのだが。
ボカロはどこまでいってもやはり機械である。レイヤーを剥がせば剥がすほど、機械に戻っていく。初音ミクのキャラクターが立体的になるのは、有志によって作り上げられた膨大なレイヤーがあってこそである。そして、リアリティを損なうレイヤー=情報は「ミクはそんなこと言わない!」と弾き出される。初音ミクは膨大なレイヤーが調和することで成り立っている。
『ゲンロン5』とのつながり
目指すべきものとして、完璧に統御されたやくしまるがある。しかし、やくしまるが人間である限り完璧な統御はありえない。この間に生まれる人間性。これは究極的で、失いようがないものだ。ここで『ゲンロン5』より佐々木敦の発言を引用しておこう。
ロボットなら完璧にできる再現や反復は、人間には絶対にできない。必ずズレや疲労や失敗といったものが生じてくる。梅沢さんの言葉を借りれば「理論値」にはなれない。そこにはつねに隙間があるわけです。ぼくはこの理論値と人間が到達可能な場所とのあいだ、隙間こそを「幽霊」と呼ぶべきではないか、そこに可能性があるのではないかと思います。
機械と人間の往還
アンコール前までは、つまり『証明Ⅲ』内では、やくしまるは理論値を叩き出していた。そこではティカ・αとやくしまるえつこはパーティション分割が完璧になされていた。メンバーの熱い演奏と無機質なやくしまるの後ろにそれらを動かすティカ・αがいるような印象を与えていた。これぞ、相対性理論だ!これを観にきたんだ!という感じだ。
しかし、アンコールでは彼女のコントロールに隙が生まれる。このこと自体を感じ取った人は少ないかもしれない(私の勘違いだと言われても否定はできない)。しかし、その微細な変化自体は会場全体も肌で感じていたとは思う。彼女のあまりにも短いアンコール、そこで演奏された「LOVEずっきゅん」と「天地創造SOS」で事実会場は締まったのだから。何かの「証明」は次の「理論」の土台になる。私はこれからも、彼女たちを追っていくつもりだ。
シオカラ節に歌詞はいるのか
任天堂を背負っていくスプラトゥーン
スプラトゥーンは2015年に発売された任天堂の大人気アクションシューティングゲームである。ポップなカラーとキャラクター、BGMで新たな世界を作り上げ、今後10年20年と任天堂を背負っていくことが期待されている。2017年7月21日にはスプラトゥーン2が発売されることが決定しており、ニンテンドースイッチの品薄状態に拍車を掛けている。
サバゲーやミリタリーといったものの持つ男臭さや危うさ(それには政治的なものの含まれる)から開放されたことが勝因だろう。サバゲーの持つ戦略や連帯意識、爽快感をポップでカラフルに仕上げることで、男女かまわず人気となった。
フェティッシュな「音」
さらに特筆すべきは音である。インクがぽちゃぽちゃと地面にはじける音、インクの中をイカが泳ぐにゅるにゅるとした音に、飛び出すときのぶしゅーっという気持ちのよい発射音。キャラクターの色や造形と相まってかなりフェティッシュな仕上がりを見せている。それだけではない、BGMもまた、最高なのである。
www.youtube.comシオカラーズとは、スプラトゥーンにおけるアイドルだ。彼女たちのライブをみればわかるだろうが、曲には歌詞らしきものがあるのだが、なんと言っているのかはわからない。この言葉は「イカ語」と呼ばれており、対戦中などにBGMとして流れていても集中を削がない上に、曲にノッているうちにイカの世界に呑み込まれていくような役割を背負っている。
平沢進「sign」との共通点
「イカ語」はスプラトゥーン内の言葉だ。スプラトゥーンの世界観を担保に、「イカ語」はその存在感を確かなものにしている。しかし、それは私たちにとっては音でしかない。
この関係をみて私は思い出す。それは数年前の平沢進の「Sign」ブームだ。「Sign」には確かに歌詞があり、平沢の存在が、歌詞の世界の存在を担保していた。にもかかわらず、私たちには歌詞カードは与えられない。検索しても出てこない。平沢は「Sign」の歌詞を公開しなかったのである。
だからこそ「ワージッ!」から始まるファンによる歌詞の怒涛の二次創作が始まったのだ。
その後「Aria」では平沢自らが公認する形で二次創作が作られ、作品を台無しにする(褒め言葉)企画が行われた。それは聞こえたものを素直に書き取ったものから、日本語として無理やり聞き取ったために世界観と相反する内容になっているものまで多種多様で面白かった。
空耳レストラン―Aria―【修正版】 by 露沢 例のアレ/動画 - ニコニコ動画
しかし、台無しにするとはいっても、それは音の次元での話だ。平沢の世界観自体は、本人が自覚的に崩している部分はあるが、全く毀損されない。なぜならば、私たちは異国の曲の音だけを二次創作として膨らませるだけで、その異国の曲の意味までは台無しに出来ないからである(曲の歌詞が発表されていないのだから)。
名曲「シオカラ節」とマーケティングの失敗
しかし任天堂は「シオカラ節」というスプラトゥーン界きっての名曲に公式自ら歌詞をつけてしまう。
カラオケなどで子どもたちが歌いやすいようにという配慮からだろうか。しかし、考えてみて欲しい。子どもたちには妖怪ウォッチやポケモンなど歌う曲など無数にあるはずで「や うぇに まれぃ」などという歌詞から始まる曲の面白さはわからないだろう。「シオカラ節」を歌うのは大人だ。
そして大人は、音だけ与えられて、それが言葉になっていないときに創作意欲を燃やす。しかし、公式から歌詞を与えられてしまえば、それが唯一の正解となって、空耳や非公式の歌詞は間違いになってしまう。結果的にそのジャンルでの創作は伸び悩むことになる。
公式による歌詞は世界観を壊す
公式による歌詞の発表は二次創作を妨げるだけではない。それは世界観をも壊しかねない。私たちの中で最初「シオカラ節」は音と意味(これは隠されてはいるが)で分かれている。この時、二次創作は音のみを取り出してその内容を発展させる。だからこそ、どのような二次創作が行われようと、スプラトゥーンの世界は傷つくことも、揺らぐこともない。二次創作とは別の次元で「イカ語」を含む世界観が存在しているからだ。
一方公式が歌詞を出してしまうことは、(当たり前だが)二次創作よりもスプラトゥーンの世界自体を揺るがせる。何故なら、私たちはスプラトゥーンを任天堂が作ったものだと知ってしまっているからだ。
二次創作において「や うぇに まれぃ」はファン(つまりは「イカ語」を解さない人間)が音として聞き取ったものだ。しかし公式が「や うぇに まれぃ」と発表することは「意味など存在せず、音だけがある」という事実を私たちに突きつける。このとき任天堂は、スプラトゥーンの世界観を毀損している。
「何を見せるか」から「何を見せないか」へ
スプラトゥーンの世界は本当は存在しない。そんなのはわかりきっていることだ。しかしわかっていることと、わかっていることをわざわざ見せ付けられることは違う。ジジェクは言う。「妻が浮気していると雰囲気でわかっていても、夫は寛容を装って「仕方がないか」と許します。しかし、その現場写真を見せられれば話は別です。」これはメディア全般に通じているといってもよい。報道においては全てを見せるべきだが、ゲーム会社は見せないことを上手く使って、世界観を守っていくべきだろう。
スプラトゥーンの世界は存在しないのだが、任天堂と私たちが共犯関係を結ぶことで、つまりはどちらも「存在しない」とは言わないことによって、存在している「かのように」私たちには感じられる。しかし公式の歌詞発表は張りぼての裏側を感じさせてしまった。もはや張りぼてを本物の景色に見せるのは、CGの技術ではなく、情報の統制によってである。それに任天堂は失敗した。
もちろんそれは売り上げに大きく響くということはないだろう。しかしもう既に、任天堂がゲーマーに一方向に発信する時代は終わりを迎えている。この時代、ゲームの出来云々と同程度に重要になるのは、ユーザーに何を見せて、何を見せないかだ。タレントの伊集院光が指摘するように、ゲームはそのリアリティを上げれば上げるほど、出来ないことや存在しないことの不自然さが浮き彫りになってしまう。これをどれだけ見せないかが次世代の鍵を握っていると私は考える。
Splatoon ORIGINAL SOUNDTRACK -Splatune-
- アーティスト: ゲーム・ミュージック,竹内浩明,keity.pop,菊間まり,峰岸透,藤井志帆
- 出版社/メーカー: 株式会社KADOKAWA
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「別に猫が好きではありません」
暇な女子大生もすなるTinderといふものを、やってみた
友人に勧められて、Tinderを始めてみる。まあ、なんというか気が滅入るようなアプリだ。女の子を「好き」か「そうではない」かで左右にスワイプし続けるのだが、これを裏側では女の子もやっているのだ。
無限の情報の波に運命という言葉が流されていく。私だって運命などという青臭いものを鵜呑みにしているわけではない。しかし、運命の欺瞞を白日の下に晒すというのも同じくどこか青臭い。人生の面白みを減退させる行為だ。オトナは運命の運命性を毀損しない。人生が面白ければ、それが一番よいのである。
Tinderを使えるほど私たちは「理性的」ではない
私たちはTinderが使いこなせるほど「理性的」ではない。現実に知り合った女の子に「スターウォーズ私も好きです。」と言われるのと、Tinderで出会った女の子に「スターウォーズ私も好きです。」と言われることは、やはり違うのだ。
恐ろしいのはTinderに運命性を毀損されて現実に知り合った女の子のスターウォーズ発言にまでも「おお!」と思えなくなることだ*1。Tinderは弱い酸のように私たちの現実を溶かしていく。
そして私はどきっとする。
しかしこのアプリを通じて、面白い女の子に出会ったこともまた事実である。彼女とはスワイプするまでのほんの一瞬の出会いであった。(マッチしなかったのですね。だからTinderが嫌いなんじゃないか。)
黒いパーカーを着た、黒髪ショートの女の子。背景には赤や白のライトがきらめいている。都心の夜、といったところだろうか。
切れ長だがしかし大きい目がキリリと私を向いている。とても可愛い。漂うコーラ女子感。
猫っぽい。この女の子自身も猫好きに違いn
このくらいのタイミングで私はプロフィールに目をやる。
「別に猫が好きではありません」
どきっとする。私が考えている2手先をいっている。
「よく猫っぽいっていわれます」
とかなら、どきっとはしなかっただろう。
この感性がすごい!
それにしても、この女の子の感性は素晴らしいと思う。友人とかに何度か言われたんだろうか。それともTinderでそんなやりとりをすることに飽き飽きしていたのだろうか。
やくしまるえつこ繋がりで言えば、なんとなく相対性理論の「さわやか会社員」のようでもある。
彼女はこんなこと言われたくないだろうが、もう出会うことも無いだろうし(アプリももう消してしまった)、敢えて言おう。
「そういうところも、猫っぽい。」
- アーティスト: 相対性理論
- 出版社/メーカー: SPACE SHOWER MUSIC
- 発売日: 2009/01/07
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連続再生の精神分析
連続再生の時代
海外ドラマやテレビドラマ、クールもののアニメなど、夜を徹して見続けるという趣味を持つ人は今や決して少なくない。海外の人気ドラマではいくつもシーズンが続くことが多いし、日本のドラマやアニメでも、1クールには9~13話くらいはある。流行のものでも懐かしいものでも、誰かに勧められたものでも、私たちはその長大な作品を短期間のうちに見終えてしまう。TSUTAYAやhulu、著作権的にかなりグレーな海外動画サイトなどが普及して、私たちはそのようなことができるようになった。
アマゾンプライムビデオなどの動画コンテンツは再生の終了とともに次の回がすぐさま再生されるなど、連続再生に特化した形態になっている。テレビから録画へ、さらにレンタルが生まれネットが普及していく。その過程で連続視聴の勢いは常に一貫して増してきている。静かに今、連続再生の時代はピークを迎えている。
物語とのセックスについて
かく言う私も、主にクールもののアニメを夜に見始め、朝に見終えるということが少なくはない。私は中高時代に芳醇なアニメ文化を味わってこなかったために、未だ見ぬ名作たちがそこかしこにゴロゴロと転がっているのだ。
私はそんなアニメの連続再生を半ば冗談で「物語とのセックス」と呼んでいる。なぜそんな下世話な言い方をするのか。それはこの連続視聴の構造がセックスそのものだからだ。
何かの機会に物語と出会う。上に書いたように流行のものでも、誰かに勧められたものでもいい。それを夜にビールでも飲みながら見始める。するととても面白い。だから歯を磨いた後でもベッドの中でスマホで続きを見続ける。
12話中の7話くらいを見たところで眠たくもなるが、意地で12話まで見続ける。見終えた後には、その作品自体の感動と共に、えも言われぬ虚脱感を感じながらそのまま布団で眠る。これはセックスの構造に酷似している。出会いから絶頂まで。そしてなんだか満たされずに疲れがたまる感じまで似ている。
そしてここからが面白いところなのだが、この「物語とのセックス」はかなり依存性が高い。何かがきっかけで見るものだったはずの物語が、次にはセックスにふさわしい物語を探し始めるようになる。NAVERまとめなんかでお薦めアニメを探す。それは風俗店に入るのに近い。このとき私は今日ヤる相手を血眼で探している。今回はこの転倒について考えてみたい。
症例:私と物語シリーズ
例えば、私は物語シリーズを2週間で見終えたが、考えると膨大な話数がある。それを2週間で見終えるということは何度も文字通り「物語とのセックス」を繰り返していたということである。(制作者の方々には申し訳ないが)
一応断っておくと、あくまで「物語とのセックス」というのは比喩であって、キャラに直接的に性的な目線を向けるようなことではない。私はあまりソレ系の同人誌などには興味がない。私はそのようなベタなレベルでのセックスを言っているのではない。そうではなくて、連続再生そのものがセックスの欲望の構造と似ているという話をしているのだ。
欲望の構造
欲望と欲求は似て非なるものだ。
私たちはふだん「欲望」と「欲求」を無反省に混同しているが、この二つは、レヴィナスによれば、全く別の概念である。「欲求」というのは「ほんらいあるはずのものが欠如した状態」を言う。だから、「欲求は本質的に郷愁であり、ホームシックである」と言われるのだ。これに対して欲望は帰る先を知らない異郷感、満たされた状態を思い出せない不満足感のことである。(内田樹『他者と死者』p.70)
セックスとは本来欲望に属するものだ。セックスを言い換えると愛するもの(つまりそれは欲望の原因の在り処だ)への接近の試みだ。愛するものの身体(こちらは欲望の対象といえる)には限りなく近づくことができる。身体に触れ、キスすることができる。しかしその原因には遂に到達できない。その絶えざる失敗こそがセックスであり、愛の本質である。
愛撫は飢えそのものを糧としている。愛撫は何も把持しない。愛撫はおのれのかたちから絶えず逃れて未来へ向かうものに取りすがる。愛撫は探求する。愛撫は手探りする。それは暴露の志向性ではない。探求の志向性、不可視なものへの歩みなのだ。(内田樹『他者と死者』p.225より レヴィナスの文章孫引き)
愛のないセックスなどという言葉がある。使い古されていて私は好きではない言葉だが、これは欲望としてのセックスではなくて欲求としてのセックスになっているということを表している言葉とも考えられる。
欲求としての物語とのセックス
私たちは最初、「欲望としての物語とのセックス」をしていたはずだ。未知の物語へダイブすることは、まさに満たされた状態を知らない不満足感に駆動されていた。しかしこれが繰り返されていくなかでいつのまにか、日常生活に足りない物語的な要素を作品から吸い取って生きるという転倒が起こる。
「欲望としての物語とのセックス」は「欲求としての物語とのセックス」に変わってしまったのだ。愛のない「物語とのセックス」である。
欲求としての物語とのセックス。言い換えればこれは、「物語消費」ではないだろうか。私たちがエヴァンゲリオンに感じた未完成だという気持ちは正に、欲求が満たされなかったからではなかったか。同人作家たちが物語を丸く閉じようとするのは、欲求に忠実な行動とは言えまいか。庵野がイラついていたのは、作品に対する欲求の眼差しではなかったか。
だから物語への愛を私たちは取り戻すべきだ、と言いたかった。しかしコトはそう単純ではない。
ひきこもりと物語
現在、私の臨床への関心はひきこもりにある。そのため、ひきこもりにとって物語とは何かということをよく考える。
斎藤環は或るひきこもりに関する映画へのコメントで「いかなる物語からも疎外されていることにひきこもりの本質的な悲劇性がある」と言っている。だからひきこもりは「喪失」すらも、そのドラマティック性から羨望してしまうのだと。
ひきこもりにとって、これといってトラウマがないことが彼らの苦しみに繋がるということがある。つまり、ひきこもる「正当な」理由がないということへの苦しみだ。繰り返し描かれるDVや児童虐待というトラウマ的物語からすらも彼らは隔絶されている。
それならばドラマやアニメは、つまり外部にある物語は、ひきこもりにとってどんな意味を持つのだろう。東浩紀などを参考にすれば、通常大きな物語が崩れ去った後にあって、その代替として物語消費があるとされる。ということは物語から隔てられた(究極的なポストモダンを生きる)ひきこもりにとって物語消費は、究極的な意味を持つのではないだろうか。
究極的な意味とは何か。それは「〇〇によって生きる」ということである。水やパンについて我々が考え、語るとき、考える我々自身そもそも水やパンからできているという構造がある。水やパンは、我々から切り離せない。ひきこもりにとっての物語は水、或いはパンの次元にあるのではないか。それは言うまでもなく「欲求」の次元である。
まずはセックス。愛はそれからだ。
まるでクズ男のような見出しである。しかし物語において現実的なのはその路線しかないだろう。
物語を欲求すること、それは物語それ自体の芳醇な解釈を著しく縮減させる。この点で「欲求としての物語とのセックス」は擁護できない。しかし、なぜ「欲求としての物語とのセックス」が生まれるかという視点に立つと、そこには社会を巻き込んだ事情が立ちはだかる。
「欲求としての物語とのセックス」を批判するのは容易い。しかし万人が「欲望としての物語とのセックス」を語れるほど、私たちの社会は未だ成熟していない。ただ、芳醇な味わいを引き出せるかどうか関わらず、物語はその重要性を増してきていることは確かである。願わくば、この豊富なコンテンツ群へのアクセスの容易さが保たれんことを。
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動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
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Twitterは失恋(対象喪失)をこじらせるか
無限に語られたテーマで再び・・・
すごく平凡なタイトルになってしまった。しかし「対象喪失」という心理学の視点から見ると「Twitterと失恋」というあまりにも擦られたテーマでも、見たことのない内容になるのではないか。それを目指して書いてみたいと思う。
失恋相手がツイッターのフォロー・フォロワーに残る、ということはよくあることではないだろうか。ツイッターは関係することに秀でたツールである。しかしその分、関係を絶つということに関してはリアルよりも難しいものになっている。それはなぜか。
「ブロック」や「ミュート」という茶番
ツイッターの関係を絶つ方法としては「ブロック」や「ミュート」があるだろう、と思うかもしれない。しかしそれは関係を絶つように見えて実はそうではないのだ。極端に言ってしまえば「関係を絶つ」という演技、茶番と言ってもよいかもしれない。
ブロックから考えてみよう。ブロックすることは、相手に対し自分のツイートに関する一切を遮断すること、また相手のツイートを遮断することだ。これは完璧に関係性を絶っているように見える。しかし、ここには落とし穴がある。ブロックしたことを相手に気づかれる可能性があるのだ。
ブロックは意思の表明でもある。これはブロック「した者」から「された者」への1対1のメッセージだ。ここでの一番の問題は、相手の意識を意識してしまうということだ。わかりにくいが「私がブロックしたことに気がつく相手」について考えてしまうのだ。これが関係性の遮断だと本当に言えるのだろうか。関係性は変奏されただけで続いてしまっているのではないだろうか。
ミュートならどうだろう。ミュートは相手にはバレない。しかし、ミュートは相手のツイートをタイムラインに乗せないだけだ。見ようと思えばすぐに見ることができてしまう。つまりミュートは関心のないツイートを隠すのに便利だが、関心があるものを隠すことはできない。怖いもの見たさで覗いてしまうタイプの人には全く意味がない。なにより自分のツイートは相手に見えてしまう。ツイートは想定される他者に対する呟きである。その他者として失恋相手は意識され続ける。
相手への意識と対象消失
ではなぜ相手への意識や関心が問題なのだろう。ここで「対象喪失」の考え方が重要になってくる。まず対象喪失とは何か。これは、かけがえのないものを失うことであり、その意味は広い。
かけがえのないものを失うこと。それをどう体験するかが、メンタルヘルスにとっては重要である。愛情や依存対象の喪失(肉親との死別や離別、失恋、子離れ、ペットの死等)、慣れ親しんだ環境の喪失(引っ越し、転校、卒業、転勤等)、身体の一部の喪失(手術や事故等)、目標や自己イメージ、所有物の喪失など、あらゆる事柄が含まれる。(知恵蔵2015)
さらに、ラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクに言わせれば、対象喪失とは「対象への欲望の喪失」であるという。欲望とはべつに悪い意味ではない。欲望は「私たちが求める、だが決して満たされることがないもの」みたいな感じで捉えて欲しい。
例えば失恋を対象喪失の文脈で言い直すと「以前のように相手を欲望できない状態」となる。「(精神的・物理的に)そこにいない相手を愛すことはできない。だが愛したいのだ。」というのが失恋の本質である。
これはかなりストレスフルであるので、どこかで折り合いをつけなければならない。恋愛において、その方法は大きくは2つしかない。それは「好きな人を好きと言える」状態に戻す(復縁)か「好きだった」と過去のものにして次の相手を探す(離脱)かだ。
私はここで「復縁」の話をしたいとは思わない。それは、優れた恋愛テクを持つ者に任せたい。私には荷が重過ぎる。だからここでは「離脱」を取り扱う。これは心理学者ボウルビーの表現であるが、ざっくり言うと、愛着が対象から離れ、思い出となった状態だ。この思い出は穏やかで肯定的なもの(全てが穏やかとはいかないだろうが)であり、これによって新しい愛着の対象を見出すための精神的環境が整う。
「離脱」を阻むツイッター
しかし「離脱」までの道程を阻むものがツイッターだ。対象喪失から回復するためには、過去を過去のものにすることが必須なのだ。これはツイッターとは真逆のベクトルだ。ツイッターは相手の現在を受信「させ」続ける。人間は意識的に相手に無関心になることはできない。ブロックしようがミュートしようがそれは関係の一形態に過ぎない。関係は続き続け、対象喪失感が続き続ける。
結論として私は「失恋したら一度アカウントを消せ」と言いたい。それは有り体に言って「メンヘラ的」に見えるかもしれない。しかし、世間体のためにアカウントを維持し続けることこそ本当は病理的なのだ。現実に合わせてアカウントも刷新すべきなのである。
アカウントを変えることは、ブロックやミュートとは違う。全てを一度遮断するのだ。確かにそこには失恋相手への意識があるが、自分と相手という一対一での行動ではない。その後になって、現在に合わせ人間関係を回復させていけばよいのだ。しばらくして相手が思い出になり、自分の中に新たな「現在」が動き出した後に、相手を改めてフォローしたっていいのである(もちろんフォローしなくてもいい。)
メンヘラとして生きよ
ここまで読んで私に対し「なよなよするなよ、コンチクショウ!」と言いたい読者もおられるかもしれない。というのもここまで私は読者が少々ナイーブなメンタルを持つことを前提として書いてきた。
それは私が世に蔓延する「折れない心を作る」みたいなものを信じていないからだ。むしろこのブームは日本が「折れない心」を要請する社会になってしまった、という生きにくさを象徴している。こんな現状に疑問を持てなくなったらそれこそオシマイである。
私は最近、アイデンティティと言うものに懐疑的になってきている。自分のキャリアに、大切な人に、浸るメディアに自分のアイデンティティを求めることは容易い。しかし仕事でミスすれば、恋人に振られれば、そのメディアを愛する大勢のうちの一人だと知ればアイデンティティは一瞬で崩れ去る。そんなものなのだ。
豆腐メンタルという言葉がある。精神がもろく柔らかいことを指すネットスラングだ。しかし、メンタルとは元来もろく柔らかいのが自然である。運よく周りに温かい家族や、気の合う友人や、恋人というアーマーがあることで豆腐でないように見えるだけなのだ。
私の居場所にたまたま豆腐一個分のスキマがあった。そのことによって私の豆腐メンタルは形を崩さず、今日もぷるるんとしていられる。そのことを忘れてはいけない。メンタルは強靱にはならない。差があっても絹ごしか木綿かの違いくらいである。
そのことを忘れると、私自身を傷つけるものに鈍感になってしまう。あなたを傷つけるものがあれば、そこからまずは逃げるべきだ。逃げた先に次のスキマがある。そこでまた、ぷるるんとやればそれでよいのである。
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アニメ「デュラララ!!」を見て‐セルティの批評性
セルティという批評的なキャラクター
セルティ・ストゥルルソンというキャラクターは非常に批評的だと私は考える。
彼女には首から上がない。デュラハンだからである。彼女は岸谷新羅と同居している。彼はセルティに首がないのにもかかわらず愛している。そして、私たちは不覚にも新羅と同じようにセルティを可愛いと思うようになっていく。
マンガにおける「顔」は、ほとんど常に「キャラクター」として描かれている。これはマンガに「顔」が出現するとき、それは常にすでに一定の「性格」と「感情」を帯びている、ということである。
それが僕たちの認知特性によるものであることは、スコット・マクラウドの『マンガ学』(美術出版社)に詳しい。マクラウドによれば、任意の図形をまず描いて、そこに目玉をひとつつけくわえれば、どんな図形でも「顔」になる(図6)。(齋藤環『キャラクター精神分析』p.125)
これはキャラクター論にとって土台となる抽象性と、わかりやすさを両立している優秀な図だと言える。しかし、これではセルティを説明できない。彼女は今までのキャラクターの歴史を塗り替えるものとしてあるのだ。
萌えのデータベース
彼女はパツパツでフェティッシュなライダースーツ、猫耳(のヘルメット)、そして沢城みゆきの声でできている。それは容易に萌えの要素に分解できるものにみえる。現代のキャラクターの典型をいくようだ。
いまや新しく生まれたキャラクターは、その誕生の瞬間から、ただちに要素に分解され、カテゴリーに分類され、データベースに登録される。(東浩紀『動物化するポストモダン』p.69)
しかし、そこには「眼」がない。というか「顔」それ自体がない。マクラウドの図で説明すれば「目玉」はおろかぐにゃぐにゃの「図形」すらもないのだ。それでも彼女はキャラクターとしてファンに愛され、可愛いと言われている。
齋藤環は『キャラクター精神分析』のなかで、この顔のない例には言及していない。むしろラカンを持ち出し「目」の特権性を強調する。
なぜ「眼」なのか。「鼻」や「口」であってはいけないのか。これを考えるにはラカン派精神分析における「まなざし」の機能を思い浮かべておく必要がある。まなざしは「対象a」としてイメージの中心に位置づけられ、その背後になんらかの主体性の存在を予期させることで、イメージをリアルなものにする。
これを僕の言葉で言い換えるなら、「眼」が「主語の器官」であるためだ。(齋藤環『キャラクター精神分析』p.126)
しかしセルティにおいて「眼」は「主語の器官」ではない。なぜなら比較するための「述語の器官」である「鼻」や「口」も持たないからである。
「眼」がないほかのキャラクター
「眼」がないキャラクターは他にもいるだろうと言う人がいるかもしれない。しかしそれはセルティと同じように、批評的であっただろうか。例えば、『パンズラビリンス』よりペイルマンを持ち出そう。
彼にも「眼」はない(正確には手のひらに目があるのだが)。彼はそのために恐ろしいキャラクターとして私たちの目に映る。
ヴォルデモート卿を比較に出してみよう。彼には「眼」はあるが「鼻」がない。ペイルマンとヴォルデモートを見比べればわかるだろう。ペイルマンのほうが断然、怪物的で恐ろしさがある。話が通用しない感じがするというか、私たちの善悪の論理の外に存在している感じを受ける。
しかしこの「眼がない」ことの恐ろしさは、「眼」の存在感を強調する。この恐ろしさはある意味では「眼」が特権的な器官であることの裏返しである。つまりあるべきものがないために怖いという意味で、ラカンの論理、マクラウドの論理で説明がついてしまう。
セルティの特異性
セルティの特異性は「怖くない」ことにこそある。彼女は可愛い。私たちはアニメを見るなかでそう感じる。それはなぜか。
私はそれをハイ・コンテクストによって説明したいと思う。私たちはアニメの文化に慣れ親しんでいる。この大衆的表現は、その表現のなかで一義的な意味に決定されやすい。
一般にサブカルチャーはハイ・コンテクストだ。誰も学校で教わらずとも、マンガやアニメで使用される多種多様な「コード」は自然に理解している。(齋藤環『キャラクター精神分析』p.185)
ハイ・コンテクストとは高度に文脈依存的であることをいう。つまり、アニメは(アニメの表現における)文脈がわからないと見ることができない。例えば、ある8頭身のキャラがつっこむ時だけ2頭身になるというようなことを想像してほしい。8頭身でも2頭身でもキャラクターは同一である。これが理解できないと、大きさの違うふたりの似たキャラがいるように捉えてしまうだろう。しかしこのコードは多くの人に共有されているので問題にはならない。
つまり、この当たり前のなかでセルティを見るからこそ可愛くみえるのである。セルティの特徴を振り返ろう。猫耳とピチピチのスーツ、そして大人っぽい沢城みゆきの声、かと思えば新羅のアプローチに対するウブな反応。彼女は『動物化するポストモダン』からさらにポストモダン化が進んだ2004年刊行のライトノベルに出自を持つ。だから私たちはそれをすぐに萌えの要素に分解する。この萌え要素もハイ・コンテクストだ。私がケニア人であったのならば、ピチピチのスーツを萌えの要素として感じない可能性がある。
コンテクストを踏まえる私たちはその萌え要素から可愛さを感じ取る。首がない、つまり「眼」がないということよりも先に、萌え要素に反応している。
だからこそキャラの条件を満たさないというセルティをキャラクターとして捉える。あたかも新羅が「首なくてもいいんじゃないの」というように。
彼女は、あの美しい首が戻らずともキャラクターとして完全に機能を果たしている。
ここで考えられることは萌えのデータベースは多種多様なキャラクターを順列組み合わせで生み出すが、キャラクターの条件そのものを崩壊させていくのではないかということだ。
彼女を萌えの要素としてみる限り、その(存在しない)「眼」は萌え要素としての目でしかない。つまりそこでは「青い目」と「白い肌」が等価になっている。目がないことは、その萌え要素を持たないということでしかない。萌えのデータベースは「眼」の特権性を剥奪する。
「眼」の特権性を剥奪するデータベース
これを確かめるために先ほどのペイルマンを思い出してもらいたい。彼がねんどろいどとして発売されることを想像してみよう。ねんどろいどはキャラをデフォルメして表現するため、一度ペイルマンは要素に分解される。グレーの肌、手のひらに目、口はおじいさんのように開き、ダルダルの体型で、そして「眼」がない。
このねんどろいどぺイルマンを想像したらどうであろうか。私たちの想像したペイルマンは可愛いのではないだろうか。あの恐ろしい怪物としての彼はそこにはもういない。それは、ねんどろいどとして頭が大きくなったからだけではない。
ペイルマンは一度、彼を構成する諸要素に分解された。つまり彼は一度データベースに戻っている。だから彼の「眼がない」という怪物性は、再構成後には単なる目がないキャラということになってしまう。「眼」の特権性を奪われたペイルマンはもう恐ろしくはない。
おそらくセルティはこのようなことを意識して「可愛く」存在するのではない。キャラクターのデータベース化が進んだからこそ彼女は必然的に生まれてきただけだろう。批評性を持つキャラクターが、意図して批評的であるとは限らないのだ。
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