リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

ボードリヤールとキラーチューン-「インスタ映え」に満足はあるか

東京事変「キラーチューン」再考

2007年に、東京事変によって発表された5枚目のシングル「キラーチューン」は間違いなく最高傑作のひとつだろう。今回は、この名曲を歌詞の面から考えてみたい。しかし、なぜ10年前の名曲をここで語る必要があるのか。大体、ここで歌詞の引用などしようものならJASRACに狙われる危険がある。それでも私がキラーチューンを再考するのには訳がある。

それは、この曲がボードリヤールの消費と浪費の議論をわかりやすく説明しているように思えるからである*1。しかもこの議論は2017年の現在にこそ、考えるべきものだ。ボードリヤールは大量消費・再生産時代には、商品の価値が物自体ではなく、記号として現れることを説いた。一体どういうことか。早速、キラーチューンを用いて考えていこう。

キラーチューンの歌詞分析

キラーチューンの魅力とはなんなのだろうか。そのメロディの素晴らしさは言うまでもないが、ここでは歌詞の魅力を考えてみたい。この曲は次のような出だしで始まる。

「贅沢は味方」

聞いたことのない響きである*2。贅沢から連想されるのは浪費*3だったり、消費だったり、叶姉妹のようなイメージだったり。どちらかというかマイナスのイメージを帯びている。しかし、椎名林檎はそんな言葉を「味方」だという。グッと私たちを引き込む出だしだ。そして次のように続く。

貧しさこそが敵

「貧しさ」は「敵」だという。こちらもこれまでにはなかったパワフルな言葉だ。間違ってはいけないのは、貧しい者が敵なのではないということだ。つまり「豊かであれ」と言っているのである。これは後に出てくる「倹約」の否定であるとも考えられる。

贅沢するには何が必要か

贅沢するにはきっと財布だけじゃ足りないね

贅沢には、お金だけでは足りないらしい。ここで、この後に登場する「私」や「貴方」が「一生もの」であることにつなげて「贅沢には愛が必要だ」と考えるのは早計である。お金より「愛だろ、愛っ。」などという広告屋の、化学調味料香る結論を椎名林檎が語るはずがない(と願っている)。それでは、贅沢には何が必要なのだろう。注目するべきは次に続く歌詞だ。

だって麗しいのはザラにないの

洗脳(わな)にご注意

「財布=お金」だけでなく、「麗しい」ものを選ぶ身体感覚が必要なのだ。これには「洗脳(わな)」にハマらないことが重要という。つまり、ここでは消費の連鎖に巻き込む(洗脳=罠=)広告から逃れ、本当に欲しいもの*4(=麗しいもの)を選ぶことが贅沢なことで、それこそを目指すべきだ、と言っていると考えられる。

消費と浪費は違うbyボードリヤール

このようにキラーチューンを読むと、ボードリヤールの「消費と浪費は異なるものである」という主張が理解しやすくなるはずだ。

私たちは贅沢を非難しがちだ。それは必要以上のものを持っていたり、使ったりすることだからだ。しかし一方で私たちは贅沢を求めている。必要なものを必要な分だけ、という生活はアクシデントに対応できない。貯金がなければ、急に病気をしても対応することができないように。そこには余裕がない。人が豊かに生きるのに、贅沢は必要だ。

そして私たちは、消費も浪費もそれぞれ贅沢なことだと思いこんでいる(ひょっとすると浪費のほうがより悪い意味で不必要な印象を受けるかもしれない)。しかし、それは本当にそうなのだろうか。まずは浪費ということを考えてみる。浪費は不必要なまでに物を受け取ることである。腹八分で栄養上は十分だと言われても、腹一杯に食べたりすることがそれにあたる。

浪費には限界がある。腹一杯になってもなお、食べ続けることはできない*5。つまり満足がある。浪費には限度があり、ストップがある。

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インスタ映えアイデンティティ

一方、消費はどうか。消費は、現在流行っている「インスタ映え」で考えるとわかりやすい。彼、彼女たちは「どこで何を見たか」、「何を食べたか」をインスタグラムに投稿することを重要視する。彼女たちは(過剰な演出によって)キラキラとした日常を過ごしていることを他の者へアピールする。そのアピールのために消費がある。

ここでは「楽しかったか」、「美味しかったか」ということが見落とされている*6。彼、彼女たちが行っているのはまさしく記号の消費である。つまり「あの店に行ったよ」と言うためだけに行っているのだ。それは逆に言えば「(流行っている)別の店にも行かなければならない」ということである。だから終わりがない。

現代美術作家の柴田英里はこのツイートに関連して、インスタ的な食物の「味の不在」について言及している。考えてみれば当たり前である。この商品が与えるのは一時的なアイデンティティである。店側は「これを食べて街を歩く私」のために売っているのである。味が美味しいことは重要ではないのだ。彼、彼女たちは日常をキラキラさせるために、不味くても美味しいと、つまらなくても楽しいと言ってくれる。

消費には、満足がない。商品の消費によって保たれるアイデンティティは必然的な自己矛盾を背負っているからだ。商品が誰かのためだけに作られているということはない。インスタ飯は二十代女子に、ネトウヨ本は四十代のおっさんにというように、それぞれ大量の消費者を狙って作られている。

その商品によって確立されるアイデンティティはもろく儚い*7。無数の「これを食べて街を歩く私」のひとりにすぎないということにすぐに思い至るからだ。消費者は必然的に代替可能な存在である。作り手にとっては「あなたが買わなくても、誰かが買うから問題ない」のだ。そして儚いアイデンティティは崩れ去る。だから半ば強迫的に、次の商品を消費することでアイデンティティの延命を図ることになる。

こうした消費のなかで贅沢することは果たして可能だろうか。消費とは、自ら不満足のスパイラルに陥る、広告代理店による洗脳=罠なのではないか。さらにここで既存の「消費は悪だから倹約しよう」という論調の不備も見えてくる。消費に慣れすぎた贅沢な現代人は倹約するべきだ、というのはおかしい。問題は、消費が満足をもたらさないことにこそある。この議論は、「インスタ映え」の例ではないものの國分功一郎『暇と退屈の倫理学』のなかに詳しく挙げられている。

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私たちはむしろ倹約ではなく、満足できる浪費=贅沢こそすべきなのだ。満足するためには「洗脳(わな)」から解放されなければならない。「一生もの」は満足を与える。ここで私たちは再びキラーチューンに戻ってきた。

 すべきは贅沢である

椎名林檎は消費と浪費が別物であること、また「消費ー倹約」の対立構造には無理があることを無意識のうちに気づいている。だからキラーチューンの歌詞は浪費的である。

絶対美しいのは計れないの

溢れ出すから

限界を越え、あふれ出す。そこに満足がある。消費も倹約も満足を与えない。満足を与えるのは、贅沢であり、浪費である。そして浪費はストップする。立ち止まる。運命になる*8。私にとって貴方が、貴方にとって私が「一生もの」であるというように。キラーチューンの肝心要は、このモノへの態度を恋人への態度と重ねていくことにある。

私は貴方を浪費し、貴方は私を浪費する。不思議だが、美しい関係性だ。消費とは違い*9、浪費は「私ー貴方」が代替不能であることを含んでいる。「贅沢」や「一生もの」というモノを連想させる表現から、立ち現れるアイデンティティ。これはインスタ飯による、つまり記号によってもたらされるアイデンティティとは質を異にするものだ。私たちは幸福を目指すなら、モノにおいても、人間関係においても贅沢をしなければならない。そして贅沢するにはあらゆる意味で「財布だけじゃ足りない」のである。

キラーチューン

キラーチューン

 

*1:キラーチューンの発売日は2007年8月22日であるが、奇しくもその少し前、3月6日にボードリヤールは亡くなっている。

*2:「ぜいたくは敵だ!」は「贅沢は味方」に、「欲しがりません勝つまでは」は「欲しがります負けたって」になど、それぞれ戦意高揚のスローガンをもじったものだというのはすぐにわかる。この時期の椎名林檎は社会の文脈から脱臼することで、つまりひきこもることで、戦前・戦中イメージをただデザインとして取り出すことに成功していた。現在はベタに右翼的に見えることもあるが、社会とのつながりがより強固になったためであるだろう(東京オリンピック関連で椎名林檎がガンガン流れていることが容易に想像できる)。そのため、このキラーチューンの分析において、戦前・戦中的なものへとつなげて考えることは避ける。そこに意味を見出していては、彼女の用意した露骨なミスリードにまんまとハマることになる。

*3:ここでいう浪費はボードリヤール的な浪費ではなく、私たちが普段イメージする意味での浪費である。

*4:「欲望とは他者の欲望である」とはラカンの有名な言葉である。本当に欲しいもの、というと他者の意見から離れた私自身の欲望に基づくもののように思えるが、それが存在するかは疑問である。絶対的に欲しいものが存在するならば、広告は私たちにとってそれほどの効果をもたらさないだろう。本当に欲しいものの存在を無邪気に信じてしまう人ほど、恐らく広告に「洗脳」されてしまう。本当に欲しいものはもしかしたら存在しないのかもしれないのだ。しかし少なくとも、欲望の根本に据える他者を広告にしてしまうと、消費のスパイラルに取り込まれ終わりはない。本当に欲しいものは、「私」の様々な関係に基づく欲望に立って考えるべきだろう。

*5:古代ローマ貴族の文化に、腹一杯になったら吐いてまた食べるというものがあった。貴族は、圧倒的な富の余裕があるためにその限界を先延ばしにする。しかし、最終的には吐かず、食べ終えるタイミングがあるはずである。つまり、貴族の食にも満足があり、ストップがある。この満足がいつまでも訪れないのが摂食障害という病である。

*6:しばしば私を含む集団がインスタグラムに投稿されるということがある。しかし、その投稿の内容はその集まりの「たけなわ」ではないことも多い。インスタ映えはその集まりのクライマックスと必ずしも一致しない。カメラという他者視点を持ち込んでいる時点で、その者はベタな次元で楽しんではいないのだから当たり前である。

*7:これはインスタ飯それ自体と相同的である。

*8:ここでの運命は「わざと逢えたんだ」からわかるように、より自覚的な運命である。否定神学的運命観(あれもこれも本当の運命ではない)でも、純粋無垢な運命観(運命は向こうからやってくる)でも贅沢はできない。なぜなら前者は本物の幻影にとらわれて「秒速5センチメートル」的不幸に陥るし、後者は広告による無限の運命の演出のなかに呑み込まれるからだ。広告は「あなたのためだけに」と誰にでも囁いているのである。そこから逃れる自覚的運命観とは、言うなれば「待ち合わせに遅れる人がいたら、走って迎えにいくのがあなたでしょ」ということになる。

*9:「私」が「貴方」を消費するのであれば、「私」にとって「貴方」は要らなくなったら捨てるもので、貴方の代わりはいくらでもいるということになる。消費において「貴方」は代替可能な存在、恋人というボトルに注がれる詰め替えシャンプーに過ぎなくなる。そうなれば、「私」はもっと良い香りのものや、もっと新しいものが現れれば、躊躇なくそれを求めるだろう。