連続再生の精神分析
連続再生の時代
海外ドラマやテレビドラマ、クールもののアニメなど、夜を徹して見続けるという趣味を持つ人は今や決して少なくない。海外の人気ドラマではいくつもシーズンが続くことが多いし、日本のドラマやアニメでも、1クールには9~13話くらいはある。流行のものでも懐かしいものでも、誰かに勧められたものでも、私たちはその長大な作品を短期間のうちに見終えてしまう。TSUTAYAやhulu、著作権的にかなりグレーな海外動画サイトなどが普及して、私たちはそのようなことができるようになった。
アマゾンプライムビデオなどの動画コンテンツは再生の終了とともに次の回がすぐさま再生されるなど、連続再生に特化した形態になっている。テレビから録画へ、さらにレンタルが生まれネットが普及していく。その過程で連続視聴の勢いは常に一貫して増してきている。静かに今、連続再生の時代はピークを迎えている。
物語とのセックスについて
かく言う私も、主にクールもののアニメを夜に見始め、朝に見終えるということが少なくはない。私は中高時代に芳醇なアニメ文化を味わってこなかったために、未だ見ぬ名作たちがそこかしこにゴロゴロと転がっているのだ。
私はそんなアニメの連続再生を半ば冗談で「物語とのセックス」と呼んでいる。なぜそんな下世話な言い方をするのか。それはこの連続視聴の構造がセックスそのものだからだ。
何かの機会に物語と出会う。上に書いたように流行のものでも、誰かに勧められたものでもいい。それを夜にビールでも飲みながら見始める。するととても面白い。だから歯を磨いた後でもベッドの中でスマホで続きを見続ける。
12話中の7話くらいを見たところで眠たくもなるが、意地で12話まで見続ける。見終えた後には、その作品自体の感動と共に、えも言われぬ虚脱感を感じながらそのまま布団で眠る。これはセックスの構造に酷似している。出会いから絶頂まで。そしてなんだか満たされずに疲れがたまる感じまで似ている。
そしてここからが面白いところなのだが、この「物語とのセックス」はかなり依存性が高い。何かがきっかけで見るものだったはずの物語が、次にはセックスにふさわしい物語を探し始めるようになる。NAVERまとめなんかでお薦めアニメを探す。それは風俗店に入るのに近い。このとき私は今日ヤる相手を血眼で探している。今回はこの転倒について考えてみたい。
症例:私と物語シリーズ
例えば、私は物語シリーズを2週間で見終えたが、考えると膨大な話数がある。それを2週間で見終えるということは何度も文字通り「物語とのセックス」を繰り返していたということである。(制作者の方々には申し訳ないが)
一応断っておくと、あくまで「物語とのセックス」というのは比喩であって、キャラに直接的に性的な目線を向けるようなことではない。私はあまりソレ系の同人誌などには興味がない。私はそのようなベタなレベルでのセックスを言っているのではない。そうではなくて、連続再生そのものがセックスの欲望の構造と似ているという話をしているのだ。
欲望の構造
欲望と欲求は似て非なるものだ。
私たちはふだん「欲望」と「欲求」を無反省に混同しているが、この二つは、レヴィナスによれば、全く別の概念である。「欲求」というのは「ほんらいあるはずのものが欠如した状態」を言う。だから、「欲求は本質的に郷愁であり、ホームシックである」と言われるのだ。これに対して欲望は帰る先を知らない異郷感、満たされた状態を思い出せない不満足感のことである。(内田樹『他者と死者』p.70)
セックスとは本来欲望に属するものだ。セックスを言い換えると愛するもの(つまりそれは欲望の原因の在り処だ)への接近の試みだ。愛するものの身体(こちらは欲望の対象といえる)には限りなく近づくことができる。身体に触れ、キスすることができる。しかしその原因には遂に到達できない。その絶えざる失敗こそがセックスであり、愛の本質である。
愛撫は飢えそのものを糧としている。愛撫は何も把持しない。愛撫はおのれのかたちから絶えず逃れて未来へ向かうものに取りすがる。愛撫は探求する。愛撫は手探りする。それは暴露の志向性ではない。探求の志向性、不可視なものへの歩みなのだ。(内田樹『他者と死者』p.225より レヴィナスの文章孫引き)
愛のないセックスなどという言葉がある。使い古されていて私は好きではない言葉だが、これは欲望としてのセックスではなくて欲求としてのセックスになっているということを表している言葉とも考えられる。
欲求としての物語とのセックス
私たちは最初、「欲望としての物語とのセックス」をしていたはずだ。未知の物語へダイブすることは、まさに満たされた状態を知らない不満足感に駆動されていた。しかしこれが繰り返されていくなかでいつのまにか、日常生活に足りない物語的な要素を作品から吸い取って生きるという転倒が起こる。
「欲望としての物語とのセックス」は「欲求としての物語とのセックス」に変わってしまったのだ。愛のない「物語とのセックス」である。
欲求としての物語とのセックス。言い換えればこれは、「物語消費」ではないだろうか。私たちがエヴァンゲリオンに感じた未完成だという気持ちは正に、欲求が満たされなかったからではなかったか。同人作家たちが物語を丸く閉じようとするのは、欲求に忠実な行動とは言えまいか。庵野がイラついていたのは、作品に対する欲求の眼差しではなかったか。
だから物語への愛を私たちは取り戻すべきだ、と言いたかった。しかしコトはそう単純ではない。
ひきこもりと物語
現在、私の臨床への関心はひきこもりにある。そのため、ひきこもりにとって物語とは何かということをよく考える。
斎藤環は或るひきこもりに関する映画へのコメントで「いかなる物語からも疎外されていることにひきこもりの本質的な悲劇性がある」と言っている。だからひきこもりは「喪失」すらも、そのドラマティック性から羨望してしまうのだと。
ひきこもりにとって、これといってトラウマがないことが彼らの苦しみに繋がるということがある。つまり、ひきこもる「正当な」理由がないということへの苦しみだ。繰り返し描かれるDVや児童虐待というトラウマ的物語からすらも彼らは隔絶されている。
それならばドラマやアニメは、つまり外部にある物語は、ひきこもりにとってどんな意味を持つのだろう。東浩紀などを参考にすれば、通常大きな物語が崩れ去った後にあって、その代替として物語消費があるとされる。ということは物語から隔てられた(究極的なポストモダンを生きる)ひきこもりにとって物語消費は、究極的な意味を持つのではないだろうか。
究極的な意味とは何か。それは「〇〇によって生きる」ということである。水やパンについて我々が考え、語るとき、考える我々自身そもそも水やパンからできているという構造がある。水やパンは、我々から切り離せない。ひきこもりにとっての物語は水、或いはパンの次元にあるのではないか。それは言うまでもなく「欲求」の次元である。
まずはセックス。愛はそれからだ。
まるでクズ男のような見出しである。しかし物語において現実的なのはその路線しかないだろう。
物語を欲求すること、それは物語それ自体の芳醇な解釈を著しく縮減させる。この点で「欲求としての物語とのセックス」は擁護できない。しかし、なぜ「欲求としての物語とのセックス」が生まれるかという視点に立つと、そこには社会を巻き込んだ事情が立ちはだかる。
「欲求としての物語とのセックス」を批判するのは容易い。しかし万人が「欲望としての物語とのセックス」を語れるほど、私たちの社会は未だ成熟していない。ただ、芳醇な味わいを引き出せるかどうか関わらず、物語はその重要性を増してきていることは確かである。願わくば、この豊富なコンテンツ群へのアクセスの容易さが保たれんことを。
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Twitterは失恋(対象喪失)をこじらせるか
無限に語られたテーマで再び・・・
すごく平凡なタイトルになってしまった。しかし「対象喪失」という心理学の視点から見ると「Twitterと失恋」というあまりにも擦られたテーマでも、見たことのない内容になるのではないか。それを目指して書いてみたいと思う。
失恋相手がツイッターのフォロー・フォロワーに残る、ということはよくあることではないだろうか。ツイッターは関係することに秀でたツールである。しかしその分、関係を絶つということに関してはリアルよりも難しいものになっている。それはなぜか。
「ブロック」や「ミュート」という茶番
ツイッターの関係を絶つ方法としては「ブロック」や「ミュート」があるだろう、と思うかもしれない。しかしそれは関係を絶つように見えて実はそうではないのだ。極端に言ってしまえば「関係を絶つ」という演技、茶番と言ってもよいかもしれない。
ブロックから考えてみよう。ブロックすることは、相手に対し自分のツイートに関する一切を遮断すること、また相手のツイートを遮断することだ。これは完璧に関係性を絶っているように見える。しかし、ここには落とし穴がある。ブロックしたことを相手に気づかれる可能性があるのだ。
ブロックは意思の表明でもある。これはブロック「した者」から「された者」への1対1のメッセージだ。ここでの一番の問題は、相手の意識を意識してしまうということだ。わかりにくいが「私がブロックしたことに気がつく相手」について考えてしまうのだ。これが関係性の遮断だと本当に言えるのだろうか。関係性は変奏されただけで続いてしまっているのではないだろうか。
ミュートならどうだろう。ミュートは相手にはバレない。しかし、ミュートは相手のツイートをタイムラインに乗せないだけだ。見ようと思えばすぐに見ることができてしまう。つまりミュートは関心のないツイートを隠すのに便利だが、関心があるものを隠すことはできない。怖いもの見たさで覗いてしまうタイプの人には全く意味がない。なにより自分のツイートは相手に見えてしまう。ツイートは想定される他者に対する呟きである。その他者として失恋相手は意識され続ける。
相手への意識と対象消失
ではなぜ相手への意識や関心が問題なのだろう。ここで「対象喪失」の考え方が重要になってくる。まず対象喪失とは何か。これは、かけがえのないものを失うことであり、その意味は広い。
かけがえのないものを失うこと。それをどう体験するかが、メンタルヘルスにとっては重要である。愛情や依存対象の喪失(肉親との死別や離別、失恋、子離れ、ペットの死等)、慣れ親しんだ環境の喪失(引っ越し、転校、卒業、転勤等)、身体の一部の喪失(手術や事故等)、目標や自己イメージ、所有物の喪失など、あらゆる事柄が含まれる。(知恵蔵2015)
さらに、ラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクに言わせれば、対象喪失とは「対象への欲望の喪失」であるという。欲望とはべつに悪い意味ではない。欲望は「私たちが求める、だが決して満たされることがないもの」みたいな感じで捉えて欲しい。
例えば失恋を対象喪失の文脈で言い直すと「以前のように相手を欲望できない状態」となる。「(精神的・物理的に)そこにいない相手を愛すことはできない。だが愛したいのだ。」というのが失恋の本質である。
これはかなりストレスフルであるので、どこかで折り合いをつけなければならない。恋愛において、その方法は大きくは2つしかない。それは「好きな人を好きと言える」状態に戻す(復縁)か「好きだった」と過去のものにして次の相手を探す(離脱)かだ。
私はここで「復縁」の話をしたいとは思わない。それは、優れた恋愛テクを持つ者に任せたい。私には荷が重過ぎる。だからここでは「離脱」を取り扱う。これは心理学者ボウルビーの表現であるが、ざっくり言うと、愛着が対象から離れ、思い出となった状態だ。この思い出は穏やかで肯定的なもの(全てが穏やかとはいかないだろうが)であり、これによって新しい愛着の対象を見出すための精神的環境が整う。
「離脱」を阻むツイッター
しかし「離脱」までの道程を阻むものがツイッターだ。対象喪失から回復するためには、過去を過去のものにすることが必須なのだ。これはツイッターとは真逆のベクトルだ。ツイッターは相手の現在を受信「させ」続ける。人間は意識的に相手に無関心になることはできない。ブロックしようがミュートしようがそれは関係の一形態に過ぎない。関係は続き続け、対象喪失感が続き続ける。
結論として私は「失恋したら一度アカウントを消せ」と言いたい。それは有り体に言って「メンヘラ的」に見えるかもしれない。しかし、世間体のためにアカウントを維持し続けることこそ本当は病理的なのだ。現実に合わせてアカウントも刷新すべきなのである。
アカウントを変えることは、ブロックやミュートとは違う。全てを一度遮断するのだ。確かにそこには失恋相手への意識があるが、自分と相手という一対一での行動ではない。その後になって、現在に合わせ人間関係を回復させていけばよいのだ。しばらくして相手が思い出になり、自分の中に新たな「現在」が動き出した後に、相手を改めてフォローしたっていいのである(もちろんフォローしなくてもいい。)
メンヘラとして生きよ
ここまで読んで私に対し「なよなよするなよ、コンチクショウ!」と言いたい読者もおられるかもしれない。というのもここまで私は読者が少々ナイーブなメンタルを持つことを前提として書いてきた。
それは私が世に蔓延する「折れない心を作る」みたいなものを信じていないからだ。むしろこのブームは日本が「折れない心」を要請する社会になってしまった、という生きにくさを象徴している。こんな現状に疑問を持てなくなったらそれこそオシマイである。
私は最近、アイデンティティと言うものに懐疑的になってきている。自分のキャリアに、大切な人に、浸るメディアに自分のアイデンティティを求めることは容易い。しかし仕事でミスすれば、恋人に振られれば、そのメディアを愛する大勢のうちの一人だと知ればアイデンティティは一瞬で崩れ去る。そんなものなのだ。
豆腐メンタルという言葉がある。精神がもろく柔らかいことを指すネットスラングだ。しかし、メンタルとは元来もろく柔らかいのが自然である。運よく周りに温かい家族や、気の合う友人や、恋人というアーマーがあることで豆腐でないように見えるだけなのだ。
私の居場所にたまたま豆腐一個分のスキマがあった。そのことによって私の豆腐メンタルは形を崩さず、今日もぷるるんとしていられる。そのことを忘れてはいけない。メンタルは強靱にはならない。差があっても絹ごしか木綿かの違いくらいである。
そのことを忘れると、私自身を傷つけるものに鈍感になってしまう。あなたを傷つけるものがあれば、そこからまずは逃げるべきだ。逃げた先に次のスキマがある。そこでまた、ぷるるんとやればそれでよいのである。
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アニメ「デュラララ!!」を見て‐セルティの批評性
セルティという批評的なキャラクター
セルティ・ストゥルルソンというキャラクターは非常に批評的だと私は考える。
彼女には首から上がない。デュラハンだからである。彼女は岸谷新羅と同居している。彼はセルティに首がないのにもかかわらず愛している。そして、私たちは不覚にも新羅と同じようにセルティを可愛いと思うようになっていく。
マンガにおける「顔」は、ほとんど常に「キャラクター」として描かれている。これはマンガに「顔」が出現するとき、それは常にすでに一定の「性格」と「感情」を帯びている、ということである。
それが僕たちの認知特性によるものであることは、スコット・マクラウドの『マンガ学』(美術出版社)に詳しい。マクラウドによれば、任意の図形をまず描いて、そこに目玉をひとつつけくわえれば、どんな図形でも「顔」になる(図6)。(齋藤環『キャラクター精神分析』p.125)
これはキャラクター論にとって土台となる抽象性と、わかりやすさを両立している優秀な図だと言える。しかし、これではセルティを説明できない。彼女は今までのキャラクターの歴史を塗り替えるものとしてあるのだ。
萌えのデータベース
彼女はパツパツでフェティッシュなライダースーツ、猫耳(のヘルメット)、そして沢城みゆきの声でできている。それは容易に萌えの要素に分解できるものにみえる。現代のキャラクターの典型をいくようだ。
いまや新しく生まれたキャラクターは、その誕生の瞬間から、ただちに要素に分解され、カテゴリーに分類され、データベースに登録される。(東浩紀『動物化するポストモダン』p.69)
しかし、そこには「眼」がない。というか「顔」それ自体がない。マクラウドの図で説明すれば「目玉」はおろかぐにゃぐにゃの「図形」すらもないのだ。それでも彼女はキャラクターとしてファンに愛され、可愛いと言われている。
齋藤環は『キャラクター精神分析』のなかで、この顔のない例には言及していない。むしろラカンを持ち出し「目」の特権性を強調する。
なぜ「眼」なのか。「鼻」や「口」であってはいけないのか。これを考えるにはラカン派精神分析における「まなざし」の機能を思い浮かべておく必要がある。まなざしは「対象a」としてイメージの中心に位置づけられ、その背後になんらかの主体性の存在を予期させることで、イメージをリアルなものにする。
これを僕の言葉で言い換えるなら、「眼」が「主語の器官」であるためだ。(齋藤環『キャラクター精神分析』p.126)
しかしセルティにおいて「眼」は「主語の器官」ではない。なぜなら比較するための「述語の器官」である「鼻」や「口」も持たないからである。
「眼」がないほかのキャラクター
「眼」がないキャラクターは他にもいるだろうと言う人がいるかもしれない。しかしそれはセルティと同じように、批評的であっただろうか。例えば、『パンズラビリンス』よりペイルマンを持ち出そう。
彼にも「眼」はない(正確には手のひらに目があるのだが)。彼はそのために恐ろしいキャラクターとして私たちの目に映る。
ヴォルデモート卿を比較に出してみよう。彼には「眼」はあるが「鼻」がない。ペイルマンとヴォルデモートを見比べればわかるだろう。ペイルマンのほうが断然、怪物的で恐ろしさがある。話が通用しない感じがするというか、私たちの善悪の論理の外に存在している感じを受ける。
しかしこの「眼がない」ことの恐ろしさは、「眼」の存在感を強調する。この恐ろしさはある意味では「眼」が特権的な器官であることの裏返しである。つまりあるべきものがないために怖いという意味で、ラカンの論理、マクラウドの論理で説明がついてしまう。
セルティの特異性
セルティの特異性は「怖くない」ことにこそある。彼女は可愛い。私たちはアニメを見るなかでそう感じる。それはなぜか。
私はそれをハイ・コンテクストによって説明したいと思う。私たちはアニメの文化に慣れ親しんでいる。この大衆的表現は、その表現のなかで一義的な意味に決定されやすい。
一般にサブカルチャーはハイ・コンテクストだ。誰も学校で教わらずとも、マンガやアニメで使用される多種多様な「コード」は自然に理解している。(齋藤環『キャラクター精神分析』p.185)
ハイ・コンテクストとは高度に文脈依存的であることをいう。つまり、アニメは(アニメの表現における)文脈がわからないと見ることができない。例えば、ある8頭身のキャラがつっこむ時だけ2頭身になるというようなことを想像してほしい。8頭身でも2頭身でもキャラクターは同一である。これが理解できないと、大きさの違うふたりの似たキャラがいるように捉えてしまうだろう。しかしこのコードは多くの人に共有されているので問題にはならない。
つまり、この当たり前のなかでセルティを見るからこそ可愛くみえるのである。セルティの特徴を振り返ろう。猫耳とピチピチのスーツ、そして大人っぽい沢城みゆきの声、かと思えば新羅のアプローチに対するウブな反応。彼女は『動物化するポストモダン』からさらにポストモダン化が進んだ2004年刊行のライトノベルに出自を持つ。だから私たちはそれをすぐに萌えの要素に分解する。この萌え要素もハイ・コンテクストだ。私がケニア人であったのならば、ピチピチのスーツを萌えの要素として感じない可能性がある。
コンテクストを踏まえる私たちはその萌え要素から可愛さを感じ取る。首がない、つまり「眼」がないということよりも先に、萌え要素に反応している。
だからこそキャラの条件を満たさないというセルティをキャラクターとして捉える。あたかも新羅が「首なくてもいいんじゃないの」というように。
彼女は、あの美しい首が戻らずともキャラクターとして完全に機能を果たしている。
ここで考えられることは萌えのデータベースは多種多様なキャラクターを順列組み合わせで生み出すが、キャラクターの条件そのものを崩壊させていくのではないかということだ。
彼女を萌えの要素としてみる限り、その(存在しない)「眼」は萌え要素としての目でしかない。つまりそこでは「青い目」と「白い肌」が等価になっている。目がないことは、その萌え要素を持たないということでしかない。萌えのデータベースは「眼」の特権性を剥奪する。
「眼」の特権性を剥奪するデータベース
これを確かめるために先ほどのペイルマンを思い出してもらいたい。彼がねんどろいどとして発売されることを想像してみよう。ねんどろいどはキャラをデフォルメして表現するため、一度ペイルマンは要素に分解される。グレーの肌、手のひらに目、口はおじいさんのように開き、ダルダルの体型で、そして「眼」がない。
このねんどろいどぺイルマンを想像したらどうであろうか。私たちの想像したペイルマンは可愛いのではないだろうか。あの恐ろしい怪物としての彼はそこにはもういない。それは、ねんどろいどとして頭が大きくなったからだけではない。
ペイルマンは一度、彼を構成する諸要素に分解された。つまり彼は一度データベースに戻っている。だから彼の「眼がない」という怪物性は、再構成後には単なる目がないキャラということになってしまう。「眼」の特権性を奪われたペイルマンはもう恐ろしくはない。
おそらくセルティはこのようなことを意識して「可愛く」存在するのではない。キャラクターのデータベース化が進んだからこそ彼女は必然的に生まれてきただけだろう。批評性を持つキャラクターが、意図して批評的であるとは限らないのだ。
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『夜は短し歩けよ乙女』映画批評「恋愛と森見登美彦」
映画『夜は短し歩けよ乙女』批評
昨日、ついに映画『夜は短し歩けよ乙女』を鑑賞してきた。この映画は、私の中高時代を濃縮還元したものだといえる。
原作は森見登美彦。主題歌『荒野を歩け』はアジカンだし、キャラ原案は中村佑介。主人公「先輩」の声優は星野源だ。そして乙女は花澤香菜、パンツ総番長はロバート秋山ときた。
今、話題の人々で組んだオールスターのように見えるかもしれない。しかし私が通学時間にアジカンや星野源を聴きながら森見を読んでいた5、6年前には考えられなかったキャストである。
そのころアジカンはラップみたいな曲を作り迷走していたし、星野源にはバナナマンのバナナムーンでしかメディアでは触れられなかったし、秋山のセンスはクリエターズファイルのようにわかりやすく表現されてはいなかった。
まあ、この思いはよくある「あのバンド、売れる前から知ってるから」に過ぎないかもしれない。しかし私はこの映画に並々ならぬ思いを抱かざるを得なかったのである。
観る前に抱いた不安
私は初めてこの映画のトレーラーを見たとき、不思議な気持ちにさせられていた。私が大好きなものがメジャーに躍り出る、私の青春が映像化される。それは嬉しいことだ。しかし私の青春を濃縮還元したものが、デートムービーとして消費される可能性もあるのではないか。それは恐ろしいことだ。
しかし、この映画はそうはなっていなかった。いや、正確には私と友人(もちろん男の!)の周囲にはカップルたちが広がっていた。しかし、デートムービーとしての効用はいまひとつであっただろう。
それは『夜は短し』が物語として緊迫感を持たない、ということにある。先輩が乙女のために奔走する中で、いかにも大学生的な「阿呆」な出来事に巻き込まれていく。ただそれだけの物語なのだ。その面白さは物語の構造からではなく、世界感、つまり細部にのめり込んでいくことからくるものである。
映画内のゲリラ演劇「偏屈王」に城ヶ崎と彼のダッチワイフが出てくる。しかしそれは四畳半神話体系を見ていなければなにがなんだかわからない。それにゲリラ演劇や韋駄天コタツ自体、森見の世界観の産物であるのだから、本もアニメもさっぱりな一見さんは置いていかれるはずだ。
しかし森見作品を短い時間の映画にまとめるというときに、そうなってしまうのは必然的だ。『韋駄天コタツ』のない「夜は短し」はありえない。そしてその世界観に巻き込まれるには、原作の流れるような文体に身を任せるしかない。ならば、わかっていることを前提として、作らざるを得ないのだ。たとえそれが原作ファンへの目配せにしか見えなくても、である。
そのため、例えばこの映画を『君の名は。』のように突然映画館に行って観たとしても面白さを十分に味わうことは難しい。悪く言えば、一本の映画としては、「よくわからん」とか「だから何なの?」と感じる人もいるはずだ。わかりやすいカタルシスが、ない。
その点で、この映画がデートムービーになるのではという不安は杞憂であった。しかし私はこの映画を評価する。大学生たちの「阿呆」な物語がそのまま「阿呆」な物語として映画館で上映されること。そして観にきた「阿呆」な客で満杯になること。ええじゃないか。ええじゃないか。
恋愛と森見登美彦
森見の作品では恋愛が成立すると物語は終幕となる作品が多い。『太陽の塔』、『四畳半神話体系』、そして『夜は短し歩けよ乙女』だ。
そこから先のことを書くつもりはない。大方、読者が想像されるような結末だったようである。(『太陽の塔』p.230,231 新潮文庫)
私と明石さんの関係がその後いかなる展開を見せたか、それはこの稿の主旨から逸脱する。したがって、そのうれしはずかしな妙味を逐一書くことは差し控えたい。読者もそんな唾棄すべきものを読んで、貴重な時間を溝に捨てたくはないだろう。成就した恋ほど語るに値しないものはない。(『四畳半神話体系』p.393 角川文庫)
この記念すべき瞬間をもって、私は外堀を埋めることを止め、さらに困難な課題へ挑む人間となった。読者諸賢、御容赦下され。そして、また会う日まで御機嫌よう。(『夜は短し歩けよ乙女』p.319 角川文庫)
この映画がデートムービー的仕上がりであったのならば私は発狂していただろう。それは私に彼女がいないからではない(いや、それもそうなのだが)。そうではなくて森見の作品がなぜ恋愛の始まりで終わるのかが考慮されていないからだ。リスペクトが欠けている。
森見の作品がなぜ恋愛の始まりで終わるのか。それは「付き合うまでが一番楽しい」とか「付き合ったからといって、いいことばかりではない」とか俗っぽい言葉で語ってはいけない。もちろんそれもあるのだろう。しかし、それではこれら作品の真味を掴み損ねる。
付き合うこと。それはこれからふたり(先輩と乙女)のコミュニケーションが展開されていくことだ。そのコミュニケーションは彼らの新たな物語を紡ぎだしていく。これを貶めてはいけない。
それではなぜ、わたしたちにその「新たな物語」に触れることができないのか。
それは「新たな物語」の成立には、つまりふたりのコミュニケーションには、それが「他人から見てつまらない」必要があるのだ。 例えば、『夜は短し』の先輩は「さらに困難な課題へ挑む人間となっ」ている。しかしそれは私たちにとっては「大方、想像されるような」「唾棄すべきもの」だ。
他人にとってどうでも良いことが、ふたりにとって大切なものになること。それこそがコミュニケーションの本質だろう。だってふたりは情報交換のために話すのではないのだから。私たちはふたりになるとき、「阿呆」を極める。だから恋愛が成立すると、森見が引っ込む。それでよいのだ。
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読書コンプレックス‐Renta!というアプリのCMから
Renta!というマンガレンタルアプリのCM
Renta!というマンガレンタルアプリのCMで、マンガを読んでいる女性(麻生久美子)に意識高い系の男がビジネス本を勧めるものがある。女性は男性に引きつった表情を見せ「難しい本読んでれば、マンガ読むよりエラいんですか?」という文字が画面いっぱいに表示される。最後には女性が部屋でまったりとアプリでマンガを読み、ゲラゲラと笑う。
私はこのCMにいつも違和感を覚えていた。彼女がこの男性を暗に批判することへの違和感ではない。そうではなくて、その批判の中に現れている錯誤への違和感だ。
ビジネス本=難解という錯誤
CMのなかではビジネス本と難しい本がイコールで結び付けられている。少しでも本を読む人ならビジネス本は難しい本とは考えないはずだ。これにはゲラゲラと笑わずにはいられない。しかし、この錯誤は笑って見逃せるものではない。この画面いっぱいに広がる批判は、本当にこのような意識高い系にのみに向けられているのだろうか。
ビジネス本を難しい本と取り違えるような人が、文芸書や人文書に向ける視線を想像してみよう。恐らく、漫画や雑誌以外のほとんどの本を難しい本とみるのではないだろうか。このCMが笑い飛ばそうとしているのは意識高い系だけではない。全ての読書家が笑われている。
偉そうに本を勧めるその態度が気に食わないのだ、と言う人がいるかもしれない。しかしそれでは「難しい本読んでれば、マンガ読むよりエラいんですか?」という問いは出てこないはずだ。難しい本>マンガという構造はこの女性が元々、心に持っているものだ。そしてこの構造が彼女にコンプレックスを与える。
彼女は、部屋でまったりとアプリで漫画を読み、ゲラゲラと笑う。しかし一点の曇りもなく楽しんでいるのならば「難しい本」を読む男の発言に顔を引きつらせることもなかったのではないか。彼女はどこかで、アプリで漫画を読む自分を蔑んでいる。
このコンプレックスを解消するためには、難しい本を読む人を批判すればいい。だから彼女は「難しい本読んでれば、マンガ読むよりエラいんですか?」と問う。もちろん難しい本読んでれば、マンガ読むよりエラいわけではない。でも本当は誰もそんなこと思ってもいないのだ。
CMは現代社会を映し出す
ここまで行ったのは、あくまでRenta!のCMの考察である。麻生久美子はもちろん、一般の女性(男性)が悪いわけではないし、CMが打ち出したいテーマとして内容は仕方がないということもあるだろう。しかしCMは広告代理店が作る。彼らは大衆の現在に正確に同期する。本当は大衆をバカにしながら、である。
しかしそれならば、このCMを見てスカッとする人も多いのではないか。そのスカッとした人こそが麻生久美子演じるこの女性と同じコンプレックスを抱えている。
志らく炎上から見る読書コンプレックス
最近も、立川志らくの本を読まない若者に対する発言が炎上した。
本を読みたくないという若者については「つまんない人生歩めば?」と匙を投げるコメントを投げかけ、スタジオの笑いをさらっていた。
この言い方は(人を惹きつけるにしても)どうかとも思う。だからといって、炎上するほどのものだろうか。以下がその炎上した模様だ。
12. 匿名 2017/04/06(木) 17:56:55 [通報]
つまんないかどうかはあんたが決める事じゃない
13. 匿名 2017/04/06(木) 17:56:55 [通報]
本以外にもメディアは色々とあるのを知らないのかな?
14. 匿名 2017/04/06(木) 17:57:00 [通報]
本読んでるのに何でそんな嫌みったらしい言い方出来んの?
例えば、志らくが「落語を聞かない若者は、つまんない人生歩めば?」と言ったとする。果たしてその発言は炎上するだろうか。「落語なんて聞かねえwww」という意見は出るかもしれないが、炎上はしないだろう。
私たちは(特に読書をしない人間は)本に対する過剰な思い入れを感じているのではないか。だからこそ、読まないことにコンプレックスを抱えてしまう。そのコンプレックスを解消するために読書を無意味なものとし笑い飛ばそうとする。もし人々が落語にコンプレックスを抱えているのなら、先ほど仮定した落語発言も炎上するはずなのだ。
引用した「14. 匿名」なんてハイパーだ。「嫌みったらしい言い方」は本読む読まない関係ないだろう。彼は落語家だ。キャッチーな言葉を使うのは職業柄だろう。本当に「本読んでる人は嫌みったらしい言い方をしない」と思っているのだとしたら「読書幻想」も甚だしい。本を読むことに対するコンプレックスがむき出しになっている文章だと言える。
アーキテクチャから見えてくる批判形式
14のような批判形式はツイッターなどでよくみられる。例えば、今年2月に上野千鶴子が「日本人は多文化共生に耐えられないから移民を入れるのは無理。平等に貧しくなろう」と言って炎上した。
上野の炎上に対し「上野を炎上させるような人が多文化共生していけるとは思えない」というようなツイートがあった。これも14と形式は同じだ。こちらの方が説得力があるが「多文化共生=他者に無批判になること」という暴論を密かに導入している。
「上手いこと言っている風」だが全く論理的でない。もしかしたらツイッターや2ちゃんのような長々と書けないアーキテクチャではこのような形式が威力を持つのかもしれない。しかしそれは感情的になっているに過ぎない。
なぜそんなに熱くなってしまうのか、そこに目を向けるべきだ。そうすることでコンプレックスの存在が、つまりは自分自身の問題が浮かび上がってくるはずなのである。
私は、批評が嫌われる理由もこれに関連していると考えている。しかしその説明を入れると長くなりすぎてしまう。後日に譲ろう。
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「中央線沿線」感と「郊外」感が交じり合う荻窪
「中央線沿線」の魅力
中央線沿線には私たちを惹きつけるパワーがある。下北と並ぶ古着屋王国、高円寺。阿佐ヶ谷の持つ、若手芸人が住んでいる街感。西荻窪は「古きよき」がキャッチフレーズのテーマパークだ。
東浩紀 西荻窪は古本屋が多いので有名なんですが、そういう店に行くと、思想所とか文芸所とかサブカル本とかえらく豊富なんですね。新刊本屋でも普通にぼくの本が置いてありますし。(東浩紀・北田暁大『東京から考える』p.33)
一方荻窪は・・・
一方、荻窪はどうだろう。これといった強みも見当たらず、商店街も賑わってはいない。先ほど挙げた街と違い、荻窪は土日も中央線の快速が止まる。住みやすいはずなのだ。それなのに、何故こうなったのか。
郊外はどこにでも入り込んでくる。吉祥寺や中野といった中央線沿線の大きな街に先に郊外的なものは入り込んだはずだ。吉祥寺や中野はそれでも大きな街だからイメージを壊されることがない。その後、土日も快速が止まるという利便性から荻窪にも侵攻してくる。そうして荻窪は駅前にドンキがある街へ変わっていく。小さな街のイメージは郊外的なイメージにすぐに感染する。基本的に郊外的なものは大きく、そしてギラギラしている。
はたして荻窪は他の中央線沿線地域に劣る街なのか。『東京から考える』から先ほどの続きを引用してみる。ここからは郊外→他の中央線沿線地域→荻窪という大きな迂回をしながら考えることにしよう。
郊外という名のヒリヒリとした現実
東浩紀 しかし、本屋に行って自分の読みたい本に出会うというのは、嘘みたいな気がするんですよ。そんな世界はぼくのために作られた虚構世界で、本当の現実は、ベストセラーしか置いていないTSUTAYAにある。そういう気がしてしまう。(東浩紀・北田暁大『東京から考える』p.33)
本当の現実、東はそれを郊外的なものに見出す。というよりも利便性からいってそうなっていくのだ。大多数が読むことのない本は置かれない。イオンやドンキ、コンビニ的なものが世界を覆う。ファミレスに家族で行き、シネコンでハリウッド映画を観る。これが郊外だ。
私も長い間、辺境の地域に住んでいたが、この間帰省してみるとそこが郊外であることを強烈に実感させられた。よく実書店とアマゾンを比較して、実書店には本との出会いがある、という言説を見かける。私もそれに概ね同意するが、地元のTSUTAYAを目の前にしてはそんなことを口にはできない。売り上げランキングには映画化やドラマ化された本がずらりと並び、人文書に関してはランキング以前に棚すらもない。
それでもそのTSUTAYAは地元書店を廃業寸前に追い込んでいる。端的にいって、辺境の地域にはベストセラー以外は必要とされていない。もちろん、ブックオフにいったってマトモな本にありつけるはずもない。マトモな本を売りにくる読者がそこには存在しないからだ。
テーマパーク的地域の崩壊
そのようなマイルドヤンキー的世界観を地獄とみるか、それでよしとするか。意見は分かれることだろう。しかし着実に東京の郊外化は進む。「中央線沿線」感はテーマパーク的に保存していくのがいつか困難になる。テーマパークの崩壊は下北沢のようにアーキテクチャのレベルで起きる。郊外化は突然、しかも大規模な形でやってくるのだ。
大規模な地域の再開発によって、街のイメージが破壊されるとき思い知ることになる。開発への反対への動機がノスタルジックな幻想に基づいていたことに。いつだって高円寺的なものはマイノリティであるはずなのだ。便利なほう便利なほうへと移行するなかで、今あるイメージは容易に瓦解する。大多数の人間は郊外的なものを求めているのだ。なぜなら郊外はいつでも大多数の人間に合わせて設計されているからである。
荻窪、再び
それでは荻窪に戻ろう。荻窪は郊外が入り込んできたとはいえ、まだまだ「中央線沿線」感を保っている。駅前のあゆみBooks文禄堂のような街の本屋もサラリーマンたちで盛況だ。本屋Titleのように小さいながらも、密度の濃い本棚を提供する本屋もある。
そうすると必然的に荻窪のブックオフに置かれる本のラインナップも魅力的になってくる。私は密かに、地域の指標としてこの「ブックオフ本棚指数」を採用している。この指数は強い偏見を含んでいる(人文書だけが本ではない!)が、かなりの正確性を誇るといっていい。
書店だけでなく、昔ながらの居酒屋や食堂、おしゃれなカフェなども充実している。これといった目玉のない街だが、そこには様々な「中央線沿線」感が残っている。
しかし着実に郊外化もしている。ファミレスや24時間オープンのどでかいSEIYU。先ほど挙げたドン・キホーテ。大手100円ショップのキャンドゥなど。先ほどから悪の権化のように書いてきたこれらは、実際には荻窪を住みよい街にしている。時間を気にせず、生活に必要なものが全て安価で揃うようになっている。
実は今、荻窪はかなり住みやすい街になっているのではないか。
郊外先進地域としての荻窪
荻窪は「中央線沿線」と「郊外」が混合、共存するハイブリッドな街だと言える。そしてこれこそがもっとも理想的な街なのではないかと私は考える。本屋Titleを覗いて魅力的な本を買ったあと、家系ラーメンで舌鼓をうつなんてことができる街。しかも新宿や池袋などの巨大な都市とは違いのんびりと、である。
近い将来、荻窪の郊外性は増していき、ハイブリッドな街としての荻窪はなくなってしまうのかもしれない。そのなる前に、郊外になりきることもなく、郊外的なものの徹底的な排除でもなく、共存する方法を考え出さなければならない。
お母さんの日々の生活も、一人暮らしの大学生もそれぞれが適度に住みよい街。そんな街を構想しなければ、いつか再開発でドカンと地域の文化は崩されるかもしれないのだ。
「中央線沿線」感を残していく鍵は共存にしかない。荻窪には高円寺や西荻窪の未来が掛かっている。この点で荻窪は中央線沿線の先進的な地域と言えるのかもしれない。日本が高齢先進国を目指しているように、荻窪は郊外先進地域を目指すべきだ。
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なぜサブカル批評家は北海道出身なのか
サブカル批評家の聖地、北海道
サブカルの批評家や作家は北海道出身者が多い。
東浩紀 実際、〇〇年代に入ると、言論人の出身地がそのひとの主張に大きな影を落とすようになる。たとえば、オタク評論の周りでは北海道出身者が目立っている。藤田直哉さんがそうだし、『ファウスト』系の作家では滝本竜彦や佐藤友哉がいる。宇野(宇野常寛)さんも高校は北海道。彼らのリアリティはぼくの感覚とはかなりちがう。(『ゲンロン4』p.121 引用内括弧は私による)
加えてさやわかも北海道出身であったはずだ。なぜそうなるのか、考えてみる。それにはまず、私の話から始めざるを得ない。
まずは、私の話をしよう
私も辺境の地から東京へやってきた身である。辺境のサブカル野郎としてヒソヒソと暮らしてきて、大学進学とともに東京へやってきた。私の心の聖地は高円寺、である。
しかしだ。上京して数年が経ったが、私は高円寺にどっぷり浸かってはいない。もちろん下北にも、中野にも、秋葉原にも私の街だ!と感じることはない。それはなぜか。
そこで、これは私だけなのかもしれないが、辺境でサブカル野郎としてやっていた頃は、サブカルチャーをコミュニケーションツールとして使ったことがないことに気がついた。
サブカルチャーに意味はあるか
友だちはいた。しかし彼らは音楽で言えば西野カナや世界の終わりにハマっていた。彼らはド大衆であった。だから音楽の話はしなかった。アニメやマンガの趣味も合わない。好きなゲームも合わない。だからその話もしない。私は深夜のお笑いラジオが好きなのだが、それも誰も聞いていない。だからその話もしない。
それでも中学、高校は楽しかった。日々のこと、今起こっていること、その無意味で無内容なコミュニケーションが最高に楽しかった。コミュニケーションは本来、無意味で無内容でよいのだ。そこにこそ、幸福は住まう。
しかし、私のサブカルチャーとの関わりは孤立していった。私はサブカルチャーをコミュニケーションに使わないので、そこに意味を求め始める。サブカルチャーは、つまり一本の映画は、マンガは、アニメは、ゲームは、ラジオは、そこに内容=意味がなければならない。無意識にそう考えるようになっていった。
コミュニケーションのためのサブカルチャー
これは都心のサブカル野郎やオタクには見られない心性なのではないだろうか。彼らは同じ作品を見ている沢山の仲間に囲まれている。だからそこにはサブカルチャーを介したコミュニケーションが起こる。それは最高に幸せなことだし、私も憧れる。
しかしだ。そこにはコミュニケーションのためのサブカルチャーという意味合いが次第に強まってくる。アニメについて語るには、そのアニメを無条件で肯定しなければならないような。
東浩紀 宮台さんの社会学を支えているのは、サブカルチャーが人格的なクラスター(集団)と連動すると言う前提です。つまり、サブカルチャーで重要なのは、内容よりむしろそれを介したコミュニケーションだということですね。(『東京から考える』p.145)
そこには批評がない。正確にいえば、批評が必要ない。
もちろん東京には批評がなく、北海道には批評がある、ということに短絡させようとは思わない。
幻想の東京へ上京
しかし、上京してきて残念だったのはそのことが大きい。私は今までサブカルチャーでコミュニケーションをしたことがなかった。だからこそ、東京にそのコミュニケーションの可能性を夢見ていた。
東京には確かにサブカルを通じた人間関係が広がっていた。しかしそれは無意味で無内容なものが圧倒的だった*1。そしてサブカルに意味を求める私にはそれでは物足りなかった。
この私の思いは、完全にないものねだりだ。私自身もサブカルチャーを通じた有意義なコミュニケーションなどしたこともないし、どんなものかもわかっていないのだから。
しかし、勝手に東京にはそれがあると思い込み憧れていた。存在しないものを東京に見続けてきて、それに対して劣等感に近い憧れを抱いていたのだ。
なぜ北海道出身のサブカル批評家が多いのか。その由来はこの「(幻想の)東京への憧れ」があるのではないだろうか。
意味への意思と批評的思考
サブカルチャーをコミュニケーションに使えないこと。その不自由さが意味への意志となり、あるタイプの批評的思考が育っていくということは考えられるのではないだろうか。
そうでなければ私はどうすればいいのか。私のような辺境のサブカル野郎たちはどうすればいいのか。負け戦だろうと構わない。私は、辺境のサブカル野郎と運命を共にするつもりだ。
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*1:新たな知識やトレンドが耳に入ってくるという意味では無意味ではなかったが。