リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

SNS時代と職場のコミュニケーション-人間関係はON/OFFで切り替えられるか

直接的に、間接的に、人間関係を変えるSNS

過去に、「ツイッター対象喪失」というテーマで記事を書いたことがある。

zizekian.hatenablog.com

このときには、ツイッターアーキテクチャが人間関係を強制的に続行させるということを取り上げた。SNSが恋人と別れた後にも、相手のことが気になって仕方がないという状況を作り出すのではないか、というような話だ。このときに注目しているのはツイッターアーキテクチャそのものであり、ツイッターの直接的な作用の話を終始している。

しかしまた、SNSには人間関係に対する間接的な効果もあるのではないかと最近は感じている。今回は、「SNS時代における間接的な職場のコミュニケーションの変容」について考えてみたい。

飲み会に行きたくないとは何事か

私がゆったりと最高学府(東大じゃないよ)に通っているあいだに、小・中学校時代の同級生たちの多くはもう働き始めている。彼らはSNSなどで愚痴をつぶやくことも多いのだが、仕事を辞めたいとか会社行きたくないなど深刻にみえる人ほど、「職場の飲み会に行きたくない」ということを言う*1

以前も「会社での付き合いがあって」とか「仕方なく」という言葉が職場の飲み会にはつきものだったが、ある種ネタ的な定型句であり、今ほどベタな意味では用いられていなかったように思われる。良好な職場関係で保たれる良好なメンタルヘルスというものを考える際に、なぜ現代において、職場での関係が希薄になったのかを考えることには価値があるだろう。

現実にフィードバックされるSNSの設計

SNSで愚痴をつぶやく、ということに注目してみる。彼らはツイッターなどで愚痴をつぶやく際に、職場の人間に見られることを考えてはいないだろう。事実ツイッターは鍵をかけたり実名を伏せたりすれば、ばれることはない。このSNSの特性は人間に「人間関係はON/OFFで切り替えられる」という錯覚を抱かせる*2

しかし、裏アカウントでのネガティブな発言が通常のアカウントに徐々に染み出してくるように、私たちはそれほど切り替えが上手くはできない。たとえ家計を支えるために働いていても、職場において人間関係は生まれるし、それが円滑に仕事を進めていく上では重要になることもしばしばだ。しかし彼らは「私が認めた人とだけ私は人間関係を結ぶ」ということが可能であるかのように振舞っている。そうして元々あったネタ的な定型句「仕方なく」が、現代においてはベタな意味で捉えられ、職場の飲み会が「昔からある無駄な慣習」ということになってしまっているようだ。

パーツ分けされるコミュニケーション

コンピュータのパーツのように職場はお金を稼ぐ場所で、人間関係は友人とだけでいいと切り分けてしまうことは一見クリアで健康的に見える。しかしそれこそがSNSコミュニケーションのイデオロギーに絡め取られていると言える。どういうことか。これを考えるために、「道具的コミュニケーション」、「自己完結的コミュニケーション」という言葉を導入しよう。

道具的コミュニケーション

コミュニケーションの一様式。送り手が受け手になんらかの情報や意思を正確に伝え,受け手の態度や行動に影響を与える目的の手段として使われるコミュニケーションのことをいう。コミュニケーション過程において,コミュニケーションが送り手の,ある特定の意図の達成のための手段的,道具的観点からなされるのでこの名がある。(道具的コミュニケーション(どうぐてきコミュニケーション)とは - コトバンク

つまるところ、道具的コミュニケーションとは、相手に何らかの変容をもたらすためにされるコミュニケーションである。「〇〇してください」という風に。

自己完結的コミュニケーション

コミュニケーションの機能の一分類。相手に情報や意思を伝え,これに了解を求めるというより,発信人ないし発信集団がこれを表現すること自体を目的とし,そのことによって,自己 (発信人) の心理的緊張を解消し満足させるようなコミュニケーションをさす。意思伝達を目指す道具的,手段的コミュニケーションに対し,表出的コミュニケーションといってもよい。(自己完結的コミュニケーション(じこかんけつてきコミュニケーション)とは - コトバンク

こちらは、「挨拶」や「たわいない話」に代表されるコミュニケーションである。(私も含め)コミュニケーションが苦手な人は「話すことがない」という理由を挙げがちだが、これは「たわいない話」ができない、ということであると言えるだろう。

これらを踏まえると、職場はお金を稼ぐ場所で、人間関係は友人とだけでいいと切り分けてしまうことは、職場=道具的コミュニケーション、友人=自己完結的コミュニケーションという切り分けをしていることにほかならない。これでは新入社員でわからないことが多いのにもかかわらず、協力や援助の要請が難しく、職場の負荷が大きくなるのは当然である。

面白い話は、道具的コミュニケーションである

 先ほどの定義からいうと、おかしく感じられるかもしれないが、私は「面白い話は、道具的コミュニケーションである」と考えている。お笑い芸人は、しばしば「面白い」ことと「楽しい」ことを厳しく分別する。サークルなどにいる「ヘタな芸人より面白い先輩」は芸人からすると、明るく「楽しい」人でしかない。その面白さは内輪での面白さであり、「自己完結的コミュニケーション」の関係性のなかで「楽しさ」が「面白さ」と勘違いされているに過ぎない。

一方、芸人のいわゆる「すべらない話」は一般化された「面白さ」である。私たちが芸人のネタで笑うとき、それは芸人と私自身の関係性のなかで笑うのではない。関係性とは無関係に笑うのである。だからこそ、プロの芸人はプロたりえるのだ。芸人はそのネタ中に、客イジリをすることがあるが、それは基本的に外道とされる。なぜなら、それは客と芸人の関係性をその場で作ることによって生じる「楽しさ」が「面白さ」と混同されているからである。

ここまでの話を追っていただけたなら、本当の「面白さ」とは道具的コミュニケーションである、ということにも納得いただけるのではないだろうか。面白い話は相手に、笑うという行為をさせる(つまり〇〇してくださいという)道具的コミュニケーションである。つまり、「面白さ」とは関係性の「楽しさ」とは無関係に立ち上がるものであるということだ*3

つまらなさを受け入れること

なぜお笑いの話に迂回したのかというと、「つまらない」コミュニケーションこそ重要だと私は言いたいからだ。これはどういうことか。

職場の人間のたわいもない話が、「つまらない」と感じられることはよくあるだろう。しかし職場の人が「面白くない」からコミュニケーションしないというのは「道具的コミュニケーション」の檻から抜け出せていないからに他ならない。職場の人と関係性を築いていないならば、その話はつまらなくて当たり前なのだ。私たちが関係性の外部にいて、なお職場の人間の話が「面白い」などということがあるならば、その人間は稀有なお笑いの才能の持ち主だということに他ならない。そんなわけはないだろう。

私たちが普段接する人間は、その人間との関係のなかに巻き込まれない限り「つまらない」ものなのである。しかし、その関係に巻き込まれれば、面白さがわかってくる。だって私たちの友人たちは皆、お笑いの才能がなくとも「面白い」のだから。職場=つまらない、友人=面白いという方程式は「私が面白い人間と友人関係にある」ということを表しているのではない。私は私と関係を持つ人間を「面白い」と思うのだ。

よく街のカップルの会話が、つまらなすぎて愕然とすることがあるだろう。しかし、それは私たちが関係の外部にいるからに他ならない。私たちも、恋人に対してはとてもつまらないことを言うものなのだ。この現実を受け入れることだ。つまらないコミュニケーションを続けられる関係のなかにしか「楽しさ」からくる「面白さ」は生まれない。だってカップルは、それでも笑っているでしょう?

「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える (岩波ブックレット)

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*1:飲み会に行きたくないとは何事か、と思う。最高学府(重ねて言うが東大ではない)に通う者にとって飲み会は這ってでも行くものである。これはマッチョな考え方であるかもしれない。しかしここでの「行きたくない」は「お酒弱いから飲めない」とかそういうことではなく、友人以外との飲み会などつまらないに決まっているという考えているものを想定している。

*2:そんな勘違いをする奴は馬鹿だ、と言う人がいるかもしれない。しかしSNSが魅力的なのは、間違いなくそこにホンモノの人間関係があるからである。「人間関係はON/OFFで切り替えられない」ように、私たちは「現実の人間関係とSNSをON/OFFで切り替えられない」のではないか。

*3:もっと詳細に説明するならば、関係性の「楽しさ」とは無関係の「面白さ」というものが本当に存在するかは疑わしい。というか少なくとも、昨今のバラエティが芸人の素の姿にスポットライトを当てるように、プロの芸人であっても「楽しさ」による「面白さ」を追求するということがある。さらに、ヨシモト∞ホールなどでネタを見てみるとわかることだが、明らかに客(多くは女子高生など)は芸人と関係性を築こうとしているし、関係性を楽しんでいる。このことから、無邪気に「面白さ」と「楽しさ」は違うと主張することはできないのだが、この考え方が多くの芸人のアイデンティティを支えていることは確かだ。とにかく、芸人は「面白さ」を一般化するために頑張っているところが大きい。最終的に「面白さ」が内輪のものでしかありえなかったとしても(つまり「楽しさ」でしかなかったとしても)、その内輪をより大きなものにしようという気概はあるだろう。