リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

告白ハラスメントとは何か

告白ハラスメントの「発明」

告白ハラスメントというものが新たに「発明」されたらしい。告ハラが果たしてハラスメントと言えるのかということについてここで考えるつもりはない。それを言い出したら感動ポルノだってポルノではない。ニュアンスはなんとなくわかるのでそれを積極的に読み取っていく*1

diamond.jp

記事に書かれているのは、関係性が構築されていない男性から告白を受けた女性が「脇が甘かったかもしれない」と自分を責めてしまったということ。また男は「やらないで後悔するよりやって後悔することを選ぶ」という理由で告白したこと。そこから次のように続く。

なぜ、ある人にとっては告白がセクハラになり得るのか。それは、告白とは、強制的に相手との関係を作る行為だからである。告白するまでは、赤の他人、知人程度だった二人も、どちらかが告白することで「告白した側/告白された側」の関係にはめ込まれてしまう。自分の人生と交差することなんてあり得ないと思っていた相手が、強引に自分の人生の「当事者」になる。それを暴力と感じる女性もいるのだ。

 また、告白するということは、「相手と自分の人生が地続きであると想定して、相手にもそれを想像してもらい、是非を問う」という一連の流れを強いる行為でもある。そこには、当然、性的な関係も含めた未来のビジョンが含まれる。しっかりとした関係ができていない相手にそれを求めるのは、確かにセクハラに近いものがあるのかもしれない。

男からの愛の告白はセクハラなのか (ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo!ニュース

正しいことを言っているようだ。概ね同意できるようなことが書かれている。それを「告白ハラスメント」と呼ぶこと以外は。繰り返すが私はハラスメントの意味の話をしているのではない。「告ハラ」のもたらすであろうパフォーマンスを問題にしているのである。

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時かけ」と「告ハラ」 

私の「時かけ」に関する以下の記事は、さきほどの告ハラ論と対にして考えることができる。

zizekian.hatenablog.com

時をかける少女」というアニメ映画がある。細田守を国民的アニメ映画監督に押し上げた2006年公開の作品だ。この作品の良さは、人の想いや行動にはキャンセルしてはいけないものもあるんだということを主人公の真琴が学ぶことにある。

(中略)

和子(叔母であり原作の主人公)が真琴に伝えたのは、タイプリープの先輩による倫理の教えであり、これによって真琴は動きはじめたと考えるべきだ。真琴が「千昭の告白」を必死に取り戻そうとするのは可能世界の私・あなたに対する敬意によるものだ。真琴は告白されてから時間差で「千昭のこと、私も好きかも」と思うような流されやすく俗っぽい女の子ではない(と思いたい)。

可能世界の倫理を考える-「リゼロ」と「時かけ」から - リロノウネリ

アニメ版「時かけ」において主人公真琴はまず、千昭の告白をキャンセルするためのタイムリープを行う。そして、そのキャンセルという行為の暴力性に気がつき、千昭の告白を取り戻そうとする。

告白というのは挨拶のようなものだ。これは私が挨拶のように気軽に告白できるモテ男であるということではない。告白は「あなたともっとコミュニケーションが取りたい」ということだけを伝えているのであり、これは挨拶の本質そのものである。

(中略)

だからこそ告白=挨拶はキャンセルしてはならないものだ。告白=挨拶は白くてやわらかい腹を相手に見せる行為なのだ。それでいて承諾して私と同じ時を共有するか、振って私を傷つけるかを選べ!という選択肢を突きつける行為でもある。

可能世界の倫理を考える-「リゼロ」と「時かけ」から - リロノウネリ

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告ハラの反証可能性

時かけ」と「告ハラ」は真逆の結論に達している。「時かけ」も好き、「告ハラ」の存在にも賛成という者は次のように言うかもしれない。「千昭と真琴の関係は告白することが正当な関係に達している。」、「時かけは高校生の物語だ。大人には大人の人間関係がある。」、「千昭はカッコいいから別だ。魅力のない男性とは違う。」などなど*2

確かにそうだ。しかし、どんなに会っていたって「告白が正当ではない関係だった」と言うことはできる。私があなたに感じている距離と、あなたが私に感じている距離が一致しているかは論証不可能だからだ。さらに言えば「時かけは高校生の物語だ」というのなら告白に「性的な関係も含めた未来のビジョン」が含まれている、なんていう中二男子的な反応もやめていただきたい。魅力のない男性からの告白は告ハラだということに関しては、もはや言いがかりだろう。

私は「告ハラ」の論理自体は別に間違ってはいないと考えている。いや「正しすぎる」のだ。つまり反証可能性がないのである。関係性の深さも、性的であるかどうかも、魅力的かどうかも全て。反証不能なものは論理的には無敵であるが、説得力を持たない*3

反証可能性(はんしょうかのうせい、英: Falsifiability)とは、科学哲学で使われる用語で、検証されようとしている仮説が実験や観察によって反証される可能性があることを意味する。

科学哲学者のカール・ポパーが提唱。平易な意味では「どのような手段によっても間違っている事を示す方法が無い仮説は科学ではない」と説明される。(反証可能性 - Wikipedia*4

「される側」としての告白

結論から言えば、告白ハラスメントは一種の炎上商法として嗤ってよいものだろう。だが、やはり告白自体は「やらないで後悔するよりやって後悔することを選ぶ」というような定型句で語ってよいものではない*5。告白は「される側」に大きな責任を負わせるからだ。しかしそれを問題に思っているのなら、告ハラなんて言ってないで「されて困った告白」について語ればよいのである。この類の知は事例集的にしか積み上げることができないのだから。

告白は責任を求める強迫だ。「お前が俺を振ったら、俺は傷つくぞ!」という強迫なのだ。だからそれに責任を感じてしまうのも仕方のないことだ。そこには事実、責任が発生しているのだから。白くてやわらかい相手の腹を、「される側」は切り裂かなければならない。その行為の責任は代替不能の責任として「される側」にのしかかる。これは誰かの責任が不当に私に降りかかっているのではなく、他ならぬ「される側の私」の責任なのだ*6

その責任を全うせずに、逃れるには「お前が傷ついても私には関係ない」と思ってしまえばいい。「告ハラ」などというデリカシーのない発想をする人にはそれができるはずなのだから。

*1:もちろん〇〇ハラスメントという呼び名が増え続けることで、深刻なハラスメントの議論のエネルギーを浪費してしまう可能性はある。これは大きな問題であるが、私の出る幕ではない。

*2:アニメ「時をかける少女」自体が、少女の積極性をテーマにしつつも、実は男目線から描かれているのだと批判することも可能かもしれない。「時かけ」のファン層の感覚的男女比は5:5という印象を受けるが。

*3:例えば「神様を信じていれば救われる」ということは反証不能である。「救われなかった」と思われる場面でも、それは神様を十分に信じていなかったからだとか、信じていたからその程度で済んだのだとか説明可能だからだ。つまりそれを論理的には間違っていると糾弾することができない。ただ同時に、私たちはそれを信じることもできないだろう。

*4:最近のWikipediaの信頼性はブリタニカに匹敵するらしい。なのでこのブログでは積極的にウィキから引用していく。日本語版の話ではないのかもしれないが。

*5:この定型句的反応こそが女性の怒りの原因にあるのではないか。「あなたは少年ジャンプ的発想で告白しているのに、私はそれを断ることで責任を感じているのだ!」という具合に。

*6:この責任をシステムによってなかったことにしてしまおうというのが「告ハラ」のパフォーマンスである。真琴の告白キャンセルを制度的に導入しようとしているとも言える。システムならば、その暴力性にも無自覚でいられるからだ。アイヒマンユダヤ人殺戮に関与しても平然としていたように。