リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

相対性理論『証明Ⅲ』を観てきた

はじめてのやくしまるえつこ

昨夜、中野サンプラザホールにて相対性理論『証明Ⅲ』を観てきた。相対性理論のライブには初参戦だったが、運よく一階の5列目くらいの絶好の席だったのでかなり楽しめた。ツインドラムのドカドカ音は暫く耳に残りそうだが・・・

「ウルトラソーダ」で始まったライブ。薄い幕が客席とステージの間に張っている。ここをスクリーンとしてリアルタイムのやくしまるえつこがドットに分解され映し出される。幕の向こうにやくしまるが見える。私はスクリーンに映るゴーストとやくしまる本人を交互に見ながら、遂に始まったライブに感動していた。

ケルベロスわんわんするやくしまる

2~3曲演奏した後、「幕が開いたら、そこはもう、相対性理論プレゼンツ、証・明・Ⅲ」とやくしまる。「ケルベロス」が始まる。やくしまるは二つの犬の顔のパペットを手にはめ、彼女の顔と合わせて3つの顔を持つケルベロスになった。「地獄の番犬わんわーん」に合わせて両手のパペットがわんわんする。可愛すぎる。30歳を迎えているとは信じられない(失礼)。

すっかり相対性理論に引き込まれてしまっている。意外にもパワフルな演奏と、対照的に完全に感情を統御したやくしまる。噂には聞いていた、沈黙の中ゆっくりと水を飲むやくしまるも見れた。彼女はライブの熱気が冷えてしまうことをまったく恐れていない。というか、もはや水を飲むというパフォーマンスが成立している。

演技性のレイヤーが一枚剥がれた「アンコール」

うっかり、ライブレポのようなことをしそうになっている。それはもっと適任な人達がいるだろうと思うから、そちらに任せたい。私が今回考えたいのはアンコール時のやくしまるについてだ。ここからは、やくしまるえつこやくしまるえつこというキャラクターを演じている、ということを前提に話を進めていく。やくしまるが作詞・作曲時にはティカ・α名義に変えることからそのことは自明であるように思われるからだ。

「またね」といってステージを降りたやくしまるを私たちは手拍子でアンコールの流れに持っていく。しかしその途中で映像演出が始まってしまい、アンコールが成立していない状態で手拍子が止んでしまった。このよくわからない流れの中、相対性理論が戻ってくる。これは演出上のミスだったのかもしれない。それが影響したのか、帰ってきたやくしまるは、演技性のレイヤーが一枚剥がれていた印象を受けた。

前列だからこそわかる情報量の変化

『証明Ⅲ』はアンコール前で終わったのだ、と感じたくらいだ。めちゃめちゃ笑顔であるとか、しゃべり方が違うとか、そういうわかりやすい変化ではない。これは前列だからこそわかる、情報量の微細な違いだ。アンコール前までのやくしまるは、自分の有機性を押さえ込み、無機物のように振舞っていた。機械のように自分から発される情報、声のトーンや仕草や、表情などを全てコントロールしていた。しかしアンコール時には、機械になりきれないことからくる人間らしさが漏れ出てしまっていた(あえて漏れ出させたとも考えられるが)。

ここで間違えてはいけないのは、私がみたのは、やくしまるの人間性と音楽が結びつくというような、安易な人間らしさではないということだ。機械になりきれないことからくる人間らしさは、究極的である。言ってしまえば、数学における点が面積を持たないということと、どんな点もそこにある限り面積を持ってしまうことの関係に似ている。

ボカロと比較されてきたやくしまる

先ほど、演技性のレイヤーが一枚剥がれるという表現をした。彼女は世代的に、いつもボカロと比較されてきた。感情を込めない歌い方と、自分の情報のコントロールの徹底など、類似点はやはり多い。しかし、レイヤーを剥がせば剥がすほど、人間らしくなるという点ではボカロと真逆だ。彼女は人間だから、当たり前なのだが。

ボカロはどこまでいってもやはり機械である。レイヤーを剥がせば剥がすほど、機械に戻っていく。初音ミクのキャラクターが立体的になるのは、有志によって作り上げられた膨大なレイヤーがあってこそである。そして、リアリティを損なうレイヤー=情報は「ミクはそんなこと言わない!」と弾き出される。初音ミクは膨大なレイヤーが調和することで成り立っている。

『ゲンロン5』とのつながり

目指すべきものとして、完璧に統御されたやくしまるがある。しかし、やくしまるが人間である限り完璧な統御はありえない。この間に生まれる人間性。これは究極的で、失いようがないものだ。ここで『ゲンロン5』より佐々木敦の発言を引用しておこう。

ロボットなら完璧にできる再現や反復は、人間には絶対にできない。必ずズレや疲労や失敗といったものが生じてくる。梅沢さんの言葉を借りれば「理論値」にはなれない。そこにはつねに隙間があるわけです。ぼくはこの理論値と人間が到達可能な場所とのあいだ、隙間こそを「幽霊」と呼ぶべきではないか、そこに可能性があるのではないかと思います。

機械と人間の往還

アンコール前までは、つまり『証明Ⅲ』内では、やくしまるは理論値を叩き出していた。そこではティカ・αやくしまるえつこパーティション分割が完璧になされていた。メンバーの熱い演奏と無機質なやくしまるの後ろにそれらを動かすティカ・αがいるような印象を与えていた。これぞ、相対性理論だ!これを観にきたんだ!という感じだ。

しかし、アンコールでは彼女のコントロールに隙が生まれる。このこと自体を感じ取った人は少ないかもしれない(私の勘違いだと言われても否定はできない)。しかし、その微細な変化自体は会場全体も肌で感じていたとは思う。彼女のあまりにも短いアンコール、そこで演奏された「LOVEずっきゅん」と「天地創造SOS」で事実会場は締まったのだから。何かの「証明」は次の「理論」の土台になる。私はこれからも、彼女たちを追っていくつもりだ。

 

天声ジングル

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フラッシュ オブ ドーパミン

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ゲンロン5 幽霊的身体

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