リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

シオカラ節に歌詞はいるのか

任天堂を背負っていくスプラトゥーン

スプラトゥーンは2015年に発売された任天堂の大人気アクションシューティングゲームである。ポップなカラーとキャラクター、BGMで新たな世界を作り上げ、今後10年20年と任天堂を背負っていくことが期待されている。2017年7月21日にはスプラトゥーン2が発売されることが決定しており、ニンテンドースイッチの品薄状態に拍車を掛けている。

サバゲーやミリタリーといったものの持つ男臭さや危うさ(それには政治的なものの含まれる)から開放されたことが勝因だろう。サバゲーの持つ戦略や連帯意識、爽快感をポップでカラフルに仕上げることで、男女かまわず人気となった。

フェティッシュな「音」

さらに特筆すべきは音である。インクがぽちゃぽちゃと地面にはじける音、インクの中をイカが泳ぐにゅるにゅるとした音に、飛び出すときのぶしゅーっという気持ちのよい発射音。キャラクターの色や造形と相まってかなりフェティッシュな仕上がりを見せている。それだけではない、BGMもまた、最高なのである。

www.youtube.comシオカラーズとは、スプラトゥーンにおけるアイドルだ。彼女たちのライブをみればわかるだろうが、曲には歌詞らしきものがあるのだが、なんと言っているのかはわからない。この言葉は「イカ語」と呼ばれており、対戦中などにBGMとして流れていても集中を削がない上に、曲にノッているうちにイカの世界に呑み込まれていくような役割を背負っている。

平沢進「sign」との共通点

「イカ語」はスプラトゥーン内の言葉だ。スプラトゥーンの世界観を担保に、「イカ語」はその存在感を確かなものにしている。しかし、それは私たちにとっては音でしかない。

この関係をみて私は思い出す。それは数年前の平沢進の「Sign」ブームだ。「Sign」には確かに歌詞があり、平沢の存在が、歌詞の世界の存在を担保していた。にもかかわらず、私たちには歌詞カードは与えられない。検索しても出てこない。平沢は「Sign」の歌詞を公開しなかったのである。

だからこそ「ワージッ!」から始まるファンによる歌詞の怒涛の二次創作が始まったのだ。

その後「Aria」では平沢自らが公認する形で二次創作が作られ、作品を台無しにする(褒め言葉)企画が行われた。それは聞こえたものを素直に書き取ったものから、日本語として無理やり聞き取ったために世界観と相反する内容になっているものまで多種多様で面白かった。

空耳レストラン―Aria―【修正版】 by 露沢 例のアレ/動画 - ニコニコ動画

しかし、台無しにするとはいっても、それは音の次元での話だ。平沢の世界観自体は、本人が自覚的に崩している部分はあるが、全く毀損されない。なぜならば、私たちは異国の曲の音だけを二次創作として膨らませるだけで、その異国の曲の意味までは台無しに出来ないからである(曲の歌詞が発表されていないのだから)。

名曲「シオカラ節」とマーケティングの失敗

しかし任天堂は「シオカラ節」というスプラトゥーン界きっての名曲に公式自ら歌詞をつけてしまう。

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カラオケなどで子どもたちが歌いやすいようにという配慮からだろうか。しかし、考えてみて欲しい。子どもたちには妖怪ウォッチポケモンなど歌う曲など無数にあるはずで「や うぇに まれぃ」などという歌詞から始まる曲の面白さはわからないだろう。「シオカラ節」を歌うのは大人だ。

そして大人は、音だけ与えられて、それが言葉になっていないときに創作意欲を燃やす。しかし、公式から歌詞を与えられてしまえば、それが唯一の正解となって、空耳や非公式の歌詞は間違いになってしまう。結果的にそのジャンルでの創作は伸び悩むことになる。

公式による歌詞は世界観を壊す

公式による歌詞の発表は二次創作を妨げるだけではない。それは世界観をも壊しかねない。私たちの中で最初「シオカラ節」は音と意味(これは隠されてはいるが)で分かれている。この時、二次創作は音のみを取り出してその内容を発展させる。だからこそ、どのような二次創作が行われようと、スプラトゥーンの世界は傷つくことも、揺らぐこともない。二次創作とは別の次元で「イカ語」を含む世界観が存在しているからだ。

一方公式が歌詞を出してしまうことは、(当たり前だが)二次創作よりもスプラトゥーンの世界自体を揺るがせる。何故なら、私たちはスプラトゥーン任天堂が作ったものだと知ってしまっているからだ。

二次創作において「や うぇに まれぃ」はファン(つまりは「イカ語」を解さない人間)が音として聞き取ったものだ。しかし公式が「や うぇに まれぃ」と発表することは「意味など存在せず、音だけがある」という事実を私たちに突きつける。このとき任天堂は、スプラトゥーンの世界観を毀損している。

「何を見せるか」から「何を見せないか」へ

スプラトゥーンの世界は本当は存在しない。そんなのはわかりきっていることだ。しかしわかっていることと、わかっていることをわざわざ見せ付けられることは違う。ジジェクは言う。「妻が浮気していると雰囲気でわかっていても、夫は寛容を装って「仕方がないか」と許します。しかし、その現場写真を見せられれば話は別です。」これはメディア全般に通じているといってもよい。報道においては全てを見せるべきだが、ゲーム会社は見せないことを上手く使って、世界観を守っていくべきだろう。

スプラトゥーンの世界は存在しないのだが、任天堂と私たちが共犯関係を結ぶことで、つまりはどちらも「存在しない」とは言わないことによって、存在している「かのように」私たちには感じられる。しかし公式の歌詞発表は張りぼての裏側を感じさせてしまった。もはや張りぼてを本物の景色に見せるのは、CGの技術ではなく、情報の統制によってである。それに任天堂は失敗した。

もちろんそれは売り上げに大きく響くということはないだろう。しかしもう既に、任天堂がゲーマーに一方向に発信する時代は終わりを迎えている。この時代、ゲームの出来云々と同程度に重要になるのは、ユーザーに何を見せて、何を見せないかだ。タレントの伊集院光が指摘するように、ゲームはそのリアリティを上げれば上げるほど、出来ないことや存在しないことの不自然さが浮き彫りになってしまう。これをどれだけ見せないかが次世代の鍵を握っていると私は考える。

 

Splatoon 2 (スプラトゥーン2)

Splatoon 2 (スプラトゥーン2)

 
Splatoon ORIGINAL SOUNDTRACK -Splatune-

Splatoon ORIGINAL SOUNDTRACK -Splatune-

 
Aria

Aria