リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

連続再生の精神分析

連続再生の時代

海外ドラマやテレビドラマ、クールもののアニメなど、夜を徹して見続けるという趣味を持つ人は今や決して少なくない。海外の人気ドラマではいくつもシーズンが続くことが多いし、日本のドラマやアニメでも、1クールには9~13話くらいはある。流行のものでも懐かしいものでも、誰かに勧められたものでも、私たちはその長大な作品を短期間のうちに見終えてしまう。TSUTAYAやhulu、著作権的にかなりグレーな海外動画サイトなどが普及して、私たちはそのようなことができるようになった。

アマゾンプライムビデオなどの動画コンテンツは再生の終了とともに次の回がすぐさま再生されるなど、連続再生に特化した形態になっている。テレビから録画へ、さらにレンタルが生まれネットが普及していく。その過程で連続視聴の勢いは常に一貫して増してきている。静かに今、連続再生の時代はピークを迎えている。

物語とのセックスについて

かく言う私も、主にクールもののアニメを夜に見始め、朝に見終えるということが少なくはない。私は中高時代に芳醇なアニメ文化を味わってこなかったために、未だ見ぬ名作たちがそこかしこにゴロゴロと転がっているのだ。

私はそんなアニメの連続再生を半ば冗談で「物語とのセックス」と呼んでいる。なぜそんな下世話な言い方をするのか。それはこの連続視聴の構造がセックスそのものだからだ。

何かの機会に物語と出会う。上に書いたように流行のものでも、誰かに勧められたものでもいい。それを夜にビールでも飲みながら見始める。するととても面白い。だから歯を磨いた後でもベッドの中でスマホで続きを見続ける。

12話中の7話くらいを見たところで眠たくもなるが、意地で12話まで見続ける。見終えた後には、その作品自体の感動と共に、えも言われぬ虚脱感を感じながらそのまま布団で眠る。これはセックスの構造に酷似している。出会いから絶頂まで。そしてなんだか満たされずに疲れがたまる感じまで似ている。

そしてここからが面白いところなのだが、この「物語とのセックス」はかなり依存性が高い。何かがきっかけで見るものだったはずの物語が、次にはセックスにふさわしい物語を探し始めるようになる。NAVERまとめなんかでお薦めアニメを探す。それは風俗店に入るのに近い。このとき私は今日ヤる相手を血眼で探している。今回はこの転倒について考えてみたい。

症例:私と物語シリーズ

例えば、私は物語シリーズを2週間で見終えたが、考えると膨大な話数がある。それを2週間で見終えるということは何度も文字通り「物語とのセックス」を繰り返していたということである。(制作者の方々には申し訳ないが)

一応断っておくと、あくまで「物語とのセックス」というのは比喩であって、キャラに直接的に性的な目線を向けるようなことではない。私はあまりソレ系の同人誌などには興味がない。私はそのようなベタなレベルでのセックスを言っているのではない。そうではなくて、連続再生そのものがセックスの欲望の構造と似ているという話をしているのだ。

欲望の構造

 欲望と欲求は似て非なるものだ。

私たちはふだん「欲望」と「欲求」を無反省に混同しているが、この二つは、レヴィナスによれば、全く別の概念である。「欲求」というのは「ほんらいあるはずのものが欠如した状態」を言う。だから、「欲求は本質的に郷愁であり、ホームシックである」と言われるのだ。これに対して欲望は帰る先を知らない異郷感、満たされた状態を思い出せない不満足感のことである。(内田樹『他者と死者』p.70)

セックスとは本来欲望に属するものだ。セックスを言い換えると愛するもの(つまりそれは欲望の原因の在り処だ)への接近の試みだ。愛するものの身体(こちらは欲望の対象といえる)には限りなく近づくことができる。身体に触れ、キスすることができる。しかしその原因には遂に到達できない。その絶えざる失敗こそがセックスであり、愛の本質である。

愛撫は飢えそのものを糧としている。愛撫は何も把持しない。愛撫はおのれのかたちから絶えず逃れて未来へ向かうものに取りすがる。愛撫は探求する。愛撫は手探りする。それは暴露の志向性ではない。探求の志向性、不可視なものへの歩みなのだ。(内田樹『他者と死者』p.225より レヴィナスの文章孫引き)

愛のないセックスなどという言葉がある。使い古されていて私は好きではない言葉だが、これは欲望としてのセックスではなくて欲求としてのセックスになっているということを表している言葉とも考えられる。

欲求としての物語とのセックス

私たちは最初、「欲望としての物語とのセックス」をしていたはずだ。未知の物語へダイブすることは、まさに満たされた状態を知らない不満足感に駆動されていた。しかしこれが繰り返されていくなかでいつのまにか、日常生活に足りない物語的な要素を作品から吸い取って生きるという転倒が起こる。

「欲望としての物語とのセックス」は「欲求としての物語とのセックス」に変わってしまったのだ。愛のない「物語とのセックス」である。

欲求としての物語とのセックス。言い換えればこれは、「物語消費」ではないだろうか。私たちがエヴァンゲリオンに感じた未完成だという気持ちは正に、欲求が満たされなかったからではなかったか。同人作家たちが物語を丸く閉じようとするのは、欲求に忠実な行動とは言えまいか。庵野がイラついていたのは、作品に対する欲求の眼差しではなかったか。

だから物語への愛を私たちは取り戻すべきだ、と言いたかった。しかしコトはそう単純ではない。

ひきこもりと物語

現在、私の臨床への関心はひきこもりにある。そのため、ひきこもりにとって物語とは何かということをよく考える。

斎藤環は或るひきこもりに関する映画へのコメントで「いかなる物語からも疎外されていることにひきこもりの本質的な悲劇性がある」と言っている。だからひきこもりは「喪失」すらも、そのドラマティック性から羨望してしまうのだと。

ひきこもりにとって、これといってトラウマがないことが彼らの苦しみに繋がるということがある。つまり、ひきこもる「正当な」理由がないということへの苦しみだ。繰り返し描かれるDVや児童虐待というトラウマ的物語からすらも彼らは隔絶されている。

それならばドラマやアニメは、つまり外部にある物語は、ひきこもりにとってどんな意味を持つのだろう。東浩紀などを参考にすれば、通常大きな物語が崩れ去った後にあって、その代替として物語消費があるとされる。ということは物語から隔てられた(究極的なポストモダンを生きる)ひきこもりにとって物語消費は、究極的な意味を持つのではないだろうか。

究極的な意味とは何か。それは「〇〇によって生きる」ということである。水やパンについて我々が考え、語るとき、考える我々自身そもそも水やパンからできているという構造がある。水やパンは、我々から切り離せない。ひきこもりにとっての物語は水、或いはパンの次元にあるのではないか。それは言うまでもなく「欲求」の次元である。

まずはセックス。愛はそれからだ。

まるでクズ男のような見出しである。しかし物語において現実的なのはその路線しかないだろう。

物語を欲求すること、それは物語それ自体の芳醇な解釈を著しく縮減させる。この点で「欲求としての物語とのセックス」は擁護できない。しかし、なぜ「欲求としての物語とのセックス」が生まれるかという視点に立つと、そこには社会を巻き込んだ事情が立ちはだかる。

欲求としての物語とのセックス」を批判するのは容易い。しかし万人が「欲望としての物語とのセックス」を語れるほど、私たちの社会は未だ成熟していない。ただ、芳醇な味わいを引き出せるかどうか関わらず、物語はその重要性を増してきていることは確かである。願わくば、この豊富なコンテンツ群へのアクセスの容易さが保たれんことを。

 

他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)

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動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)