リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

アニメ「デュラララ!!」を見て‐セルティの批評性

セルティという批評的なキャラクター

セルティ・ストゥルルソンというキャラクターは非常に批評的だと私は考える。

彼女には首から上がない。デュラハンだからである。彼女は岸谷新羅と同居している。彼はセルティに首がないのにもかかわらず愛している。そして、私たちは不覚にも新羅と同じようにセルティを可愛いと思うようになっていく。

マンガにおける「顔」は、ほとんど常に「キャラクター」として描かれている。これはマンガに「顔」が出現するとき、それは常にすでに一定の「性格」と「感情」を帯びている、ということである。

それが僕たちの認知特性によるものであることは、スコット・マクラウドの『マンガ学』(美術出版社)に詳しい。マクラウドによれば、任意の図形をまず描いて、そこに目玉をひとつつけくわえれば、どんな図形でも「顔」になる(図6)。(齋藤環『キャラクター精神分析』p.125)

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これはキャラクター論にとって土台となる抽象性と、わかりやすさを両立している優秀な図だと言える。しかし、これではセルティを説明できない。彼女は今までのキャラクターの歴史を塗り替えるものとしてあるのだ。

萌えのデータベース

彼女はパツパツでフェティッシュなライダースーツ、猫耳(のヘルメット)、そして沢城みゆきの声でできている。それは容易に萌えの要素に分解できるものにみえる。現代のキャラクターの典型をいくようだ。

いまや新しく生まれたキャラクターは、その誕生の瞬間から、ただちに要素に分解され、カテゴリーに分類され、データベースに登録される。(東浩紀動物化するポストモダン』p.69)

しかし、そこには「眼」がない。というか「顔」それ自体がない。マクラウドの図で説明すれば「目玉」はおろかぐにゃぐにゃの「図形」すらもないのだ。それでも彼女はキャラクターとしてファンに愛され、可愛いと言われている。

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齋藤環は『キャラクター精神分析』のなかで、この顔のない例には言及していない。むしろラカンを持ち出し「目」の特権性を強調する。

なぜ「眼」なのか。「鼻」や「口」であってはいけないのか。これを考えるにはラカン精神分析における「まなざし」の機能を思い浮かべておく必要がある。まなざしは「対象a」としてイメージの中心に位置づけられ、その背後になんらかの主体性の存在を予期させることで、イメージをリアルなものにする。

これを僕の言葉で言い換えるなら、「眼」が「主語の器官」であるためだ。(齋藤環『キャラクター精神分析』p.126)

 しかしセルティにおいて「眼」は「主語の器官」ではない。なぜなら比較するための「述語の器官」である「鼻」や「口」も持たないからである。

「眼」がないほかのキャラクター

「眼」がないキャラクターは他にもいるだろうと言う人がいるかもしれない。しかしそれはセルティと同じように、批評的であっただろうか。例えば、『パンズラビリンス』よりペイルマンを持ち出そう。

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彼にも「眼」はない(正確には手のひらに目があるのだが)。彼はそのために恐ろしいキャラクターとして私たちの目に映る。

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ヴォルデモート卿を比較に出してみよう。彼には「眼」はあるが「鼻」がない。ペイルマンとヴォルデモートを見比べればわかるだろう。ペイルマンのほうが断然、怪物的で恐ろしさがある。話が通用しない感じがするというか、私たちの善悪の論理の外に存在している感じを受ける。

しかしこの「眼がない」ことの恐ろしさは、「眼」の存在感を強調する。この恐ろしさはある意味では「眼」が特権的な器官であることの裏返しである。つまりあるべきものがないために怖いという意味で、ラカンの論理、マクラウドの論理で説明がついてしまう。

セルティの特異性

セルティの特異性は「怖くない」ことにこそある。彼女は可愛い。私たちはアニメを見るなかでそう感じる。それはなぜか。

私はそれをハイ・コンテクストによって説明したいと思う。私たちはアニメの文化に慣れ親しんでいる。この大衆的表現は、その表現のなかで一義的な意味に決定されやすい。

一般にサブカルチャーはハイ・コンテクストだ。誰も学校で教わらずとも、マンガやアニメで使用される多種多様な「コード」は自然に理解している。(齋藤環『キャラクター精神分析』p.185)

ハイ・コンテクストとは高度に文脈依存的であることをいう。つまり、アニメは(アニメの表現における)文脈がわからないと見ることができない。例えば、ある8頭身のキャラがつっこむ時だけ2頭身になるというようなことを想像してほしい。8頭身でも2頭身でもキャラクターは同一である。これが理解できないと、大きさの違うふたりの似たキャラがいるように捉えてしまうだろう。しかしこのコードは多くの人に共有されているので問題にはならない。

つまり、この当たり前のなかでセルティを見るからこそ可愛くみえるのである。セルティの特徴を振り返ろう。猫耳とピチピチのスーツ、そして大人っぽい沢城みゆきの声、かと思えば新羅のアプローチに対するウブな反応。彼女は『動物化するポストモダン』からさらにポストモダン化が進んだ2004年刊行のライトノベルに出自を持つ。だから私たちはそれをすぐに萌えの要素に分解する。この萌え要素もハイ・コンテクストだ。私がケニア人であったのならば、ピチピチのスーツを萌えの要素として感じない可能性がある。

コンテクストを踏まえる私たちはその萌え要素から可愛さを感じ取る。首がない、つまり「眼」がないということよりも先に、萌え要素に反応している。

だからこそキャラの条件を満たさないというセルティをキャラクターとして捉える。あたかも新羅が「首なくてもいいんじゃないの」というように。

彼女は、あの美しい首が戻らずともキャラクターとして完全に機能を果たしている。

ここで考えられることは萌えのデータベースは多種多様なキャラクターを順列組み合わせで生み出すが、キャラクターの条件そのものを崩壊させていくのではないかということだ。

彼女を萌えの要素としてみる限り、その(存在しない)「眼」は萌え要素としての目でしかない。つまりそこでは「青い目」と「白い肌」が等価になっている。目がないことは、その萌え要素を持たないということでしかない。萌えのデータベースは「眼」の特権性を剥奪する。

「眼」の特権性を剥奪するデータベース

これを確かめるために先ほどのペイルマンを思い出してもらいたい。彼がねんどろいどとして発売されることを想像してみよう。ねんどろいどはキャラをデフォルメして表現するため、一度ペイルマンは要素に分解される。グレーの肌、手のひらに目、口はおじいさんのように開き、ダルダルの体型で、そして「眼」がない。

このねんどろいどぺイルマンを想像したらどうであろうか。私たちの想像したペイルマンは可愛いのではないだろうか。あの恐ろしい怪物としての彼はそこにはもういない。それは、ねんどろいどとして頭が大きくなったからだけではない。

ペイルマンは一度、彼を構成する諸要素に分解された。つまり彼は一度データベースに戻っている。だから彼の「眼がない」という怪物性は、再構成後には単なる目がないキャラということになってしまう。「眼」の特権性を奪われたペイルマンはもう恐ろしくはない。

おそらくセルティはこのようなことを意識して「可愛く」存在するのではない。キャラクターのデータベース化が進んだからこそ彼女は必然的に生まれてきただけだろう。批評性を持つキャラクターが、意図して批評的であるとは限らないのだ。

 

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