読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

『夜は短し歩けよ乙女』映画批評「恋愛と森見登美彦」

映画『夜は短し歩けよ乙女』批評

昨日、ついに映画『夜は短し歩けよ乙女』を鑑賞してきた。この映画は、私の中高時代を濃縮還元したものだといえる。

原作は森見登美彦。主題歌『荒野を歩け』はアジカンだし、キャラ原案は中村佑介。主人公「先輩」の声優は星野源だ。そして乙女は花澤香菜、パンツ総番長はロバート秋山ときた。

今、話題の人々で組んだオールスターのように見えるかもしれない。しかし私が通学時間にアジカン星野源を聴きながら森見を読んでいた5、6年前には考えられなかったキャストである。

そのころアジカンはラップみたいな曲を作り迷走していたし、星野源にはバナナマンのバナナムーンでしかメディアでは触れられなかったし、秋山のセンスはクリエターズファイルのようにわかりやすく表現されてはいなかった。

まあ、この思いはよくある「あのバンド、売れる前から知ってるから」に過ぎないかもしれない。しかし私はこの映画に並々ならぬ思いを抱かざるを得なかったのである。

観る前に抱いた不安

私は初めてこの映画のトレーラーを見たとき、不思議な気持ちにさせられていた。私が大好きなものがメジャーに躍り出る、私の青春が映像化される。それは嬉しいことだ。しかし私の青春を濃縮還元したものが、デートムービーとして消費される可能性もあるのではないか。それは恐ろしいことだ。

しかし、この映画はそうはなっていなかった。いや、正確には私と友人(もちろん男の!)の周囲にはカップルたちが広がっていた。しかし、デートムービーとしての効用はいまひとつであっただろう。

それは『夜は短し』が物語として緊迫感を持たない、ということにある。先輩が乙女のために奔走する中で、いかにも大学生的な「阿呆」な出来事に巻き込まれていく。ただそれだけの物語なのだ。その面白さは物語の構造からではなく、世界感、つまり細部にのめり込んでいくことからくるものである。

映画内のゲリラ演劇「偏屈王」に城ヶ崎と彼のダッチワイフが出てくる。しかしそれは四畳半神話体系を見ていなければなにがなんだかわからない。それにゲリラ演劇や韋駄天コタツ自体、森見の世界観の産物であるのだから、本もアニメもさっぱりな一見さんは置いていかれるはずだ。

しかし森見作品を短い時間の映画にまとめるというときに、そうなってしまうのは必然的だ。『韋駄天コタツ』のない「夜は短し」はありえない。そしてその世界観に巻き込まれるには、原作の流れるような文体に身を任せるしかない。ならば、わかっていることを前提として、作らざるを得ないのだ。たとえそれが原作ファンへの目配せにしか見えなくても、である。

そのため、例えばこの映画を『君の名は。』のように突然映画館に行って観たとしても面白さを十分に味わうことは難しい。悪く言えば、一本の映画としては、「よくわからん」とか「だから何なの?」と感じる人もいるはずだ。わかりやすいカタルシスが、ない。

その点で、この映画がデートムービーになるのではという不安は杞憂であった。しかし私はこの映画を評価する。大学生たちの「阿呆」な物語がそのまま「阿呆」な物語として映画館で上映されること。そして観にきた「阿呆」な客で満杯になること。ええじゃないか。ええじゃないか。

恋愛と森見登美彦

森見の作品では恋愛が成立すると物語は終幕となる作品が多い。『太陽の塔』、『四畳半神話体系』、そして『夜は短し歩けよ乙女』だ。

そこから先のことを書くつもりはない。大方、読者が想像されるような結末だったようである。(『太陽の塔』p.230,231 新潮文庫

私と明石さんの関係がその後いかなる展開を見せたか、それはこの稿の主旨から逸脱する。したがって、そのうれしはずかしな妙味を逐一書くことは差し控えたい。読者もそんな唾棄すべきものを読んで、貴重な時間を溝に捨てたくはないだろう。成就した恋ほど語るに値しないものはない。(『四畳半神話体系』p.393 角川文庫)

この記念すべき瞬間をもって、私は外堀を埋めることを止め、さらに困難な課題へ挑む人間となった。読者諸賢、御容赦下され。そして、また会う日まで御機嫌よう。(『夜は短し歩けよ乙女』p.319 角川文庫)

この映画がデートムービー的仕上がりであったのならば私は発狂していただろう。それは私に彼女がいないからではない(いや、それもそうなのだが)。そうではなくて森見の作品がなぜ恋愛の始まりで終わるのかが考慮されていないからだ。リスペクトが欠けている。

森見の作品がなぜ恋愛の始まりで終わるのか。それは「付き合うまでが一番楽しい」とか「付き合ったからといって、いいことばかりではない」とか俗っぽい言葉で語ってはいけない。もちろんそれもあるのだろう。しかし、それではこれら作品の真味を掴み損ねる。

付き合うこと。それはこれからふたり(先輩と乙女)のコミュニケーションが展開されていくことだ。そのコミュニケーションは彼らの新たな物語を紡ぎだしていく。これを貶めてはいけない。

それではなぜ、わたしたちにその「新たな物語」に触れることができないのか。

それは「新たな物語」の成立には、つまりふたりのコミュニケーションには、それが「他人から見てつまらない」必要があるのだ。 例えば、『夜は短し』の先輩は「さらに困難な課題へ挑む人間となっ」ている。しかしそれは私たちにとっては「大方、想像されるような」「唾棄すべきもの」だ。

他人にとってどうでも良いことが、ふたりにとって大切なものになること。それこそがコミュニケーションの本質だろう。だってふたりは情報交換のために話すのではないのだから。私たちはふたりになるとき、「阿呆」を極める。だから恋愛が成立すると、森見が引っ込む。それでよいのだ。

 

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

 
四畳半神話大系 Blu-ray BOX

四畳半神話大系 Blu-ray BOX

 
荒野を歩け(初回生産限定盤)(DVD付)

荒野を歩け(初回生産限定盤)(DVD付)