リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

「けものフレンズ」と東浩紀『ゲンロン0』

けものフレンズ」と『ゲンロン0』

けものフレンズ」が世間を沸かせている。東浩紀『ゲンロン0』も世間を沸かせている。私にとっての世間が狭い、という可能性は否定しない。しかし『ゲンロン0』によって「けものフレンズ」を語るということに意味がある、と考える。少なくとも私は楽しい。

『ゲンロン0』 第2部家族の哲学

『ゲンロン0』では、第五章から家族の哲学が展開されていく。ヴィトゲンシュタインの家族的類似性を用いて、私たちの類似性の感覚を問い直す。東は家族の概念を保守から取り戻し、現代のワードとして復活させていく。

そこではピーター・シンガーの議論が持ち出される。シンガーは徹底的な功利主義から人間の新生児よりも成熟したチンパンジーのほうが高い「人格性」を持つので法的に守られるべきだとした。それは論理的には正しいのだろう。しかしやはり私たちは、新生児よりもチンパンジーを優先することは不自然だと考える。それはなぜか。

東はそれを類似性の概念を拡張することで説明している。私たちは、ペットの犬や猫、ハムスターまでも家族と感じる。それは「ペットも家族である」という比喩の域を越えている。私たちは「ペットは飼い主に似る」と言って類似性を感じている。いまやペットのためなら自らの命も惜しまないという人がいることを否定できない。

新生児への愛は実はここから来るのではないか、と東は考える。新生児は成熟した私たちからは遠い存在だ。人間と動物との距離がそこにはある。しかし、高い「人格性」のない新生児に人格を感じとり、そこに愛を感じる。私たちの新生児への愛は、実は既に愛(類似性)が種を超えることの証左なのではないか。そのような愛(類似性)による柔軟なつながりこそが家族なのではないか。

 「けものフレンズ」への接続

ここでようやく「けものフレンズ」の話をしよう。フレンズたちは「動物がヒト化したもの」だという。

フレンズたちはデザインも人が動物のコスプレをしているような形で、あの独特のCGに慣れてしまえば親近感が沸いてくる。彼女らは生態にあわせた性格を備えていて、ツンデレキャラのようにアニメの文脈に慣れた私たちにとっては、すんなりと受け入れられるものだ。

アニメ内では飼育員による登場動物の生態の説明があり、フレンズとリアルの動物の往来を体験することになる。それはアニメのキャラとしてのフレンズと、リアルの動物の境界を曖昧にしていく。

けもフレ」を観た後、もはや私たちは動物園のサーバルキャットを何の抵抗もなしに「サーバルちゃん」と呼ぶだろう。現実のサーバルキャットを見て、サーバルちゃんと会った気分になってテンションが上がるだろう。

しかしこれは「けものフレンズ」が動物に人間性を与えた作品だというよりも、むしろ私たちが動物に人間性を感じるからこそヒットした作品だと言えるのではないだろうか。

以前からケモナーと呼ばれる人々がいる。

モナーとは、同人ジャンルにおける「ケモノ」を愛好する者、というような意味のスラング。この「ケモノ」には獣人も含まれていると思われる。kemono + er でケモナー

モナーとは、ケモノを愛する者、もしくはその様を指す造語(スラング)である。具体的な愛好対象範囲について知りたい人はケモノを参照。

ピクシブ百科事典)

中には性の対象としてケモノをみる強者もいるようだ。性の対象として、或いは萌えの対象としてケモノを捉えられる、ということ。この私たちの愛の所在にこそ希望がある。

けものフレンズ」を土壌に繰り広げられる哲学

家族の哲学を立ち上げる際に、既存の言葉で語れば(赤ちゃんを愛することが大切だ、など)その言葉は正しく伝わっていかない。肯定的にも否定的にも「家族」という言葉に過剰に反応してしまう人がいる。それは今、家族という言葉が置かれている状況からくるものだ。東はそれを巧みに避けていく。

東は新生児の愛=動物への愛という構図にしていく。しかしこれも以前であれば抵抗感が強い言葉であるはずなのだ。ケモナーはおそらく「けものフレンズ」の登場まで、特異な存在であったはずである。しかし「けものフレンズ」は私たちの愛が容易に種を越えていくことを自覚させてくれた。

ネタバレを恐れずに言うと、かばんちゃんが(動物としてのヒトがフレンズ化した)フレンズからヒトに戻るシーンを考えるとわかりやすい。あのシーンでかばんちゃんは動物としてのヒトから人間になっている。でも私たちは、動物としてのかばんちゃんも、人間としてのかばんちゃんも同じように類似性=愛の目線でみることができる。これは類似性=愛が種を越えることを端的に示している。

この「けものフレンズ」が作り上げた議論の土壌を舞台に繰り広げられる哲学、それが『ゲンロン0』の第2部、家族の哲学だ。『ゲンロン0』は時代の流れさえも味方につけている。或いは、東浩紀は意図的に時代を味方につけたのだ。彼のひとり勝ちはこれからも続いていく。しかも恐らくこれからは顕著な形で。

 

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 
哲学探究

哲学探究