リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

『神の悪フザケ』マンガ批評「自己否定的な自己愛の迷路―暴露と欺瞞」

壮絶な鬱マンガとしての『神の悪フザケ』

私はこの漫画を読み終えるのに、漫画一冊ではありえない期間を要した。それは時間が掛かったということではない。この漫画の情報量は多いわけではない。そうではなく、読み続けることができないのだ。めまいがしそうなほど醜い世界が描かれているからである。しかもその世界は私と無関係ではない。過去に私に、または周りの誰かに起こっていたことをアンプで増幅させているかのような世界なのである。

こんな醜いことは、私の中高時代には起こっていなかった、と言いたい。しかし私の記憶から、過去のクラスメイトが溢れてきて、否定することができなくなる。彼らは私に「そんなことはなかった」とは言わせない。私はこの漫画から上手く距離を取ることができない。だからせめて、この漫画の抱える「どうしようもなさ=絶望」について本当にどうしようもないものなのか、と問うてみたいと思う。

 絶望を露呈させようとする衝動

この漫画を描いた山田花子は、92年に自殺している。そのことについて稚拙ではあるが考えてみたい。まず、この作品に流れる通奏低音は、絶望を露呈させようとする衝動だと言えるだろう。これは斎藤環の『キャラクター精神分析』のなかにある「自己否定的な自己愛」と呼ばれるようなものである。

彼らは一種の「負け組」意識を共有しており、そうした負の刻印は運命的なもので、努力やチャンスでは変わりようがないと確信しているかのようだった。一見自己嫌悪に見えるほどの否定的な意識は、しかしその確信ぶりにおいて「自己否定的な自己愛」と呼ぶに値する。(斎藤環(2014)『キャラクター精神分析―マンガ・文学・日本人』筑摩文庫 p.41)

これは2008年に多発した通り魔の容疑者についての一文であるが、この自己についての否定的な確信は山田の特徴も捉えているのではないだろうか。山田はこれでもかと追い討ちをかける手法が得意であるようだ。醜い男の子の心が善良でないこと。醜い女の子が男の子にフラれた後、クラス中から「男の子がかわいそうだ」と攻められてしまうことなど。

それらの描写を通じて、どうしようもないやつは本当にどうしようもない、ということを笑いにしている。彼女にとって少年ジャンプのような「友情」「努力」「勝利」は欺瞞である。或いはクラスの人気者たちだけが味わえる栄誉なのである。山田は醜い者が心優しいという既存のエンターテイメントの表現を笑う。醜い者も(皆と同じように)心も醜いといった具合である。

 『ナチュラル・キッド』に表れる山田花子の思考様式

本漫画には女の子を主人公にしたものの他に『ナチュラル・キッド』という作品が収まっている。知的に障害があると思われる児童の物語である。その中で、山田の心の声のような描写がある。

もともと人間は不平等。宿命(能力等)の違いを認め合うのが本当のいみでよい社会だと思うんだけどなあ。(山田花子(2000)『神の悪フザケ』青林工藝舎 p.156)

わからないことはない考え方である。彼女は平等という欺瞞を剥がそうとしている。その先の絶望を露呈させようとしている。「不平等であることを認めてしまえ、皆もわかっているのだろう」と言っているように聞こえる。小学校時代、普通学級で何らかの障害があるだろう子と一緒に授業を受けたりすると、そのことを考えさせられたものだ。ここで授業を受けることが、本当に彼にとって幸せなことなのかと思うのだ。だからこの考えがシニカルで冷静で現実的であるように見えてしまう。しかしここには大きな絶望の落とし穴がある。

 そして絶望へ

山田の考え方、つまり平等という欺瞞を剥がして例えば、誰かが私より先に会社で昇進を果たすということについて考えてみる。すると私は彼が上司に気に入られたせいで昇進したのだと考えることができなくなってしまう。それは欺瞞なのだから。私が彼より劣っているから昇進できなかったのだということになる。

昇進と能力がイコールで結びつくことは、耐え難いことだ。このように平等という欺瞞を剥がしてしまうと、その世界の弱者を救い出すことは絶望的に困難である。救いの手を差し伸べようとしたとたん、それは救いようもない生来の弱者ということになってしまうからだ。山田は恐らく平等の欺瞞を剥がしたとき、自身がその不平等による弱者側であると考えていただろう(でなければ欺瞞を剥がそうとは思えない)。そして山田は自らの論理で自己を傷つけることになる。自らの論理で自らを救いようもない生来の弱者にしてしまう。それが無意識的であったにせよ、「そんなことはわかりきっていた」にせよである。先ほども言ったように、これは「自己否定的な自己愛」である。私たちは自らに刻まれた負の刻印を運命的なものだと思い込んでしまう傾向がある。

絶望の隠蔽という希望

資本主義は「公正」でないという事実は、資本主義を大衆にとって受け入れやすくする重要な特徴なのである。わたしの失敗はわたしの能力不足によるのではなく偶然による―そう分かれば、わたしは失敗してもずいぶん楽に暮らしていける。(スラヴォイ・ジジェク(2008)中山徹(訳)『暴力-6つの斜めからの省察』(2010) 青土社 p.114)

しかしジジェクが言うようにそれでは「楽に暮らしていけ」ない。皮肉の篭ったこの文章は「絶望の隠蔽」という山田とは逆の考え方を提示している。絶望の隠蔽という欺瞞は、無意味なものではない。むしろ大きな役割、心と現実の間に滑り込みその関係をソフトにするという役割を果たしている。しばしばその覆いは現実そのものよりも重要であったりする。

会社で自分が出世できないことが、上司に好かれていないからだと、思うことができれば、私は働き続けることができる。そして私が出世したならば、それは自分の頑張りによるものだと思うことができる。これらの思い込みが事実であるかはさほど重要ではない。私自身が納得できれば物語であろうと問題はない。絶望を覆う隠蔽の最大の機能は、様々な物語を生み出すことを可能にすることにある。

子どもたちがヒソヒソ話で盛り上がれるのは、その内容が面白いからではない。ヒソヒソ話の面白さは隠れていることによって、私たちにそこには重要な何かがあるのだと思い込ませることにある。隠れているというその事実が重要なのである。私には山田がヒソヒソ話の内容を知って、つまらないと言っているように見える。絶望を露呈させることには、確かに強烈なリアリティがある。世界を「わかった」感じを与えてくれる。しかし、絶望を覆い隠しているものを無碍にしてはいけない。そこから物語が生まれるのだ。そして人生の面白さは物語に住まうのである。

 

定本神の悪フザケ

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暴力 6つの斜めからの省察

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