リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

『パンズ・ラビリンス』映画批評「ファンタジーと現実を繋ぐ発想の転換」

映画『パンズ・ラビリンス』批評

今回は『パンズ・ラビリンス』の批評を。かなり論理の飛躍、恣意的な読み取りが見られるのはご愛嬌。

主人公の少女オフェリアは最初、これから巻き込まれるファンタジーと類似した物語を読んでいる。そして行き先は、新たな父のいる山奥の戦場である。彼女は、母が妊娠中の長旅で具合を悪くしている間にナナフシと出会う。彼女はそれを妖精だと信じこむところから映画は始まる。

オフェリアは妖精に導かれ、迷宮の中の地下と繋がるところに行くことになる。そこで、悪魔とも神とも見えるような容姿をした地下の番人パンと出会う。彼はオフェリアに、3つの試練を課し、その試練が浮かび上がる本を彼女に授ける。この本を開くのは、彼女が一人でいる時でなくてはならず、さらに彼女の母が苦しんでいるときには血が浮かび上がるような本である。そのためこの本は、彼女の思うことが浮かび上がってくる本だと言える。そしてそれは、この本を起点に進むファンタジーそのものがオフェリアの幻想だということを表明しているように思われる。

オフェリアが試練の中で、反抗するのは1度だけである。それは、盲目の怪物の目の前に置かれたぶどうを2粒食べてしまうことだ。第一の試練でオフェリアはグロテスクな虫やカエルの体液のようなものから逃げ出さず、鍵を発見することに成功している。ここの時点では、不快であっても忠実に試練に耐えている。しかし第二の試練では、盲目の怪物に殺されたであろう大量の子どもの靴があるにもかかわらず、危険を冒してでもぶどうを食べてしまう。これはなぜなのかについて考えてみたい。

ファンタジー=現実逃避のための装置

私はファンタジーの世界を、彼女の作り出した現実からの逃避の装置であると考える立場をとる。その視点で考えると、オフェリアはぶどうを食べることで、ファンタジーの世界から抜け出し、普通の人間として生きることを決めているように見えるのである。

オフェリアが第一の試練を乗り越えた後、次の試練にすぐに進まなかったためにパンが枕元にやってくる。そのとき彼女は、母親の体調が良くないからだとパンに弁明する。しかし或いはこうも考えられる。母親の体調が良くないという耐え難い状況に追い込まれたからこそパン(という幻想)が枕元に登場したのだと。

そこで、母親の体調が良くなるという、マンドラゴラを受け取る。或いは、オフェリア自身がマンドラゴラというものを作り出し、信じることで落ち着こうとしている。彼女は(彼女の作り出した)マンドラゴラで母親を救おうと考えた。それは、彼女にとって現実世界における希望である。彼女は逃避先のファンタジーの世界で現実世界の希望を得る。このアクロバティックな論理で彼女は、(無意識的にではあるが)人間として成長を遂げようとする。

オフェリアはなぜぶどうを食べたのか

その後、オフェリアは第二の試練に挑戦している。試練はファンタジーの世界のお話を進めるためにある。つまり彼女がより、どっぷりとファンタジーの世界に浸かるため、より現実から逃げるために試練を受けている。この試練をクリアすれば王女への道に一歩近づくことを意味しており、これは彼女の表の欲望である。しかし、無意識では人間的に成長しようという欲望があり、そのためにはファンタジーにのめり込み過ぎてはならない。

だからこそ、彼女は現実とファンタジーのどちらを選ぶのかという葛藤に巻き込まれることになるのだ。最終的に、妖精の制止を振り切って彼女がぶどうを食べるのは、ぶどうが食べたかったからではない。葛藤の中で、現実世界で生きるという選択をしたからである。これは禁断の果実を食べ、楽園を追放されるアダムとイヴを想起させる。

そう考えると、怪物に食べられ靴だけを残すことになった子どもたちは、ファンタジーの世界から抜け出し、現実世界で生きることを決めた者たちが散っていった姿なのではないかとも考えられる。そして、残念ながらオフェリアも自らが選んだ現実世界の厳しさの前に散ることになるのである。

命からがら第二の試練から還ってきたオフェリアは、やってきたパンにぶどうを食べてしまったことを明かす。しかしパンは、オフェリアが試練を果たし戻ってきたはずであるのに、ぶどうを食べるという失敗のために王女への道が閉ざされたと告げる。もともとパンはオフェリアの命のために、怪物の目の前に置かれたものを食べることを禁止したはずである。試練を達成したのに王女にはなれないという、ここには小さな矛盾が起きている。   

これは、オフェリアがパンという存在と決別し、現実の世界を生きていくという決断なのだ。彼女はここで、普通の人間として生きていくことを嫌がっているが、無意識的には成長し、普通の人間になることを望んでいる。母のために生きようとしている。パンがオフェリアを見切るのではなく、オフェリアがパンと別れようとしているのである。

度重なる勇気くじき

しかし、それもうまくはいかない。まずはマンドラゴラを育てる姿を義父である大尉に見つかってしまう。そしてそれを、オフェリアが助けようとした母自身の手で焼かれてしまう。母親はオフェリアをファンタジーの世界から現実へ引き戻そうと焼くのだが、実はマンドラゴラ自体がオフェリアを現実へ戻す鍵だったのだ。オフェリアの目からはマンドラゴラが焼かれることで母という守る対象(それは守ってくれる対象でもある)が死ぬことになる。

そして、厳しすぎる義父のもとから離れるために、メルセデスと逃亡を決行する。メルセデスは、義父と、義父を優先する母よりもオフェリアのことをわかる存在である。しかし、その逃亡も失敗に終わり、メルセデスレジスタンスであることを黙っていたという罪で父親にぶたれてしまう。これは明らかに父が子にとる態度としてはありえないものである。

このような度重なる現実世界による勇気くじきによってオフェリアの前には、決別を告げたはずのパンが戻ってきてしまうのである。パンは、弟を抱いて、迷宮の中へ来いという。ここで一度、大尉であり弟の父親、オフェリアの義父の話をしよう。なぜ弟を連れて行く必要があるのか、その手がかりは義父にあるのだ。

義父の抱えるコンプレックス

大尉である義父は、父子関係というものに強いコンプレックスがあるように見える。ウサギ狩りをしていた父子を捕まえた際には、父を擁護する子を執拗に殴り、最終的に二人を殺すのである。かばんの中にはウサギが入っており、無実であったことがわかるが、反省の様子はない。また、父が死ぬ時刻を残していた懐中時計を自ら修理し使っている。そしてそのことを他の人間には隠している。妻の腹には男児がいることを信じて疑わず、妻の生命よりも男児の生命を優先するように医師に伝える。

おそらく、彼は亡き父親を恐れており、また自らが恐れられる父親のポジションに着くことを夢見ている。そして、オフェリアはこの義父の息子への思いに気づいている。だからこそ、パン(彼女に命令を下す者)は義父が大切にしている弟を迷宮に連れてくるようにいうのである。つまり、後の試練が弟の血を捧げることであるように、オフェリアは隠れた弟への攻撃性をそのファンタジーに込めるのである。オフェリアは、義父への復讐と、義父の愛情が弟へ注がれることへの嫉妬を、パンの与える試練として自らに課すのである。

 オフェリアを救うアクロバティックな論理

しかし、オフェリアは弟を傷つけることができなかった。そして追ってきた義父に殺されることになるのだ。オフェリアは試練を乗り越えられなかったが、しかし復讐心と嫉妬心に打ち勝った。彼女が最後に見るファンタジーの王国は弟の代わりに自分が傷つくことによって開かれた。現実世界での栄誉が今度はファンタジーの世界での希望となるというアクロバティックな論理がまたもや登場する。

他者の苦しみを、我が苦しみとして引き受けることで立ち上がる希望、誰にも代替不能な責任を引き受けることで立ち上がる主体性。私はこの極限の構造をレヴィナスの「アブラハム的主体」やフランクルの『夜と霧』で知っている。彼女は最期に、自らの死を無意味なものから意味あるものに変えたのである。対照的に、大尉である義父はこの後すぐに殺されるのだが、彼は自らの死を息子に意味づけしようとするが、新たな母親になるだろうメルセデスに打ち消されてしまう。彼は息子に、自分の死んだ時刻はおろか名前すらも伝えられない。彼はいままでの残虐行為を、自らの死の無意味をもって償うことになるのである。