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リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

『モモ』書評「システムの無謬性と想像力の欠如」

齋藤環 心理学 書評 東浩紀

『モモ』に描かれる世界のシステム

幸福のために限りある時間を有効に使おうとする。その振る舞いは間違っていない。しかし人々が時間に対して過度な合理性を求めると、今度は合理的に時間を使うことが目的化されてしまう。つまり、なんのために時間を切り詰めているのかという部分を忘れてしまう。

うつ病の妄想には貧困妄想というものがある。自分は貧困状態にあると思い込んでしまうというものだが、ここでのお金が『モモ』では時間に置き換わっている。 

『モモ』では世界の細かな状況は明らかにされていないが、今日、私たちが読んでも深い感動を覚えるのは、時間に追われる世界というものに私たちがどっぷり浸かっているからだ。そして残念ながらそこから抜け出すことはできそうにない。時間に追われる世界を構成しているシステムは、もはや私たちの一部だからである。

いまや「システム」とは、単に「利用するもの」ではなく、「我々に存在根拠を与えるもの」なのだ。われわれはシステムを日々利用して生きるのではない。むしろわれわれは日々、システムによって〈生かされて〉いるのだ。(斎藤環(2016)『承認をめぐる病』筑摩文庫 p.234)

斎藤環は『承認をめぐる病』のなかで、システムと人々の関係を原初的な母子関係になぞらえて考えている。万能の母親=システムに依存し、人々は万能感を調達する。ここではシステムは人々の自己愛の一部に食い込んでしまっている。

灰色の男 と経済の論理

『モモ』のなかでも灰色の男の登場後は、(システムの典型である)ファストフード店など、人々がピリピリとしている場面が多く描かれる。これはファストフード店という(安く早く食事が提供される)システムとそれを運営している不完全なニノの分裂による怒りだ。システムの絶対視からくるのは、ミスを犯す人間へのほとんど義務のように湧き上がる怒りである。

ここで時間泥棒、つまり灰色の男たちについて考えてみたい。灰色の男たちの所属が時間貯蓄銀行というのは面白い。これは灰色の男たちは時間というものを、経済の論理で語るということを端的に表している。例えば、理髪店のフージーは毎日、車椅子の女性に花を持っていく。それを灰色の男は無駄な時間だという。私たちはそれを読み「なんて酷い論理だ!」と思うだろう。しかしこの論理は、長谷川豊の人工透析自己責任論や相模原障害者施設殺傷事件という形で私たちの身近なところにまで侵食してきている。人工透析自己責任論などを聞いていて思うことは、彼ら自身がその立場になることを全く考慮していないということだ。ここでは想像力が欠如している。

灰色の男たちは時間の計算を平坦に行う。日常を数百倍、数千倍と引き伸ばして生涯を算出する。つまり日常のつまらなさ、変化のなさを強調する形で人々に語りかけるのだ。このような論理に言いくるめられてしまうのは、フージーに「未来もきっと変わらないのだ」という確信があるからだ。これも想像力の欠如といえる。この一致は偶然であろうか。

また、灰色の男たちは人間から時間を奪うのに、基本的にはなにもしないということも象徴的だ。一度、時間の使い方について人々に語るだけで、その後は勝手に人々が時間に追われ始めるのだ。システムは根付いてしまえば、人々自身に食い込み自動的に稼動し続ける。

システムの外部にいるモモ

ここでやっとこの物語の主人公モモについて考えてみる。モモはカシオペイヤに導かれて、マイスター・ホラと出会ったただ一人の女の子だ。モモは勉強ができたわけでもなく、特別に勇敢だということもない。しかし彼女は時間の核心に行き着いた。それはなぜか。

モモは浮浪児だ。どこから来たのかも、何歳なのかもわからない。その点で彼女は完全にシステムの外側にいる。だからこそ、周りの人間はモモに救われる。モモは喧嘩や悩みを解決するだけではなく、よく遊ぶために大切な存在だ。傾聴に徹するカウンセラーのようにモモは何をするわけでもなく、その場にいることが大切なのだ。
モモは時間を使うとき、合理性や効率などを考えていない。モモは熟考するベッポや物語を語るジジと仲がいい。彼らといる時間が無駄だとは一切考えない。そしてこれこそが時間の本質を捉えた過ごし方なのだ。

けれど、時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです。(ミヒャエル・エンデ (1973)大島かおり(訳)『モモ』(1976)岩波書店,p95)

モモはシステムの外側にいることで、時間の核心にたどり着いた。そして人々を救うために戦い、世界に時間=生活を取り戻してみせた。しかしモモのような戦いをシステムにどっぷり浸かる私たちにできるだろうか。最後にひとつ『モモ』を読んでいて思い出したことがある。これが現代人におけるシステムとの折り合いのつけ方のヒントになるかもしれない。

フードコート授乳問題と東浩紀

だいぶ前の話であるが2017年1月11日の朝日新聞に「授乳室があるのにフードコートで授乳している人がいて迷惑だ」という投書がありツイッターで話題を呼んでいた。確かに、公の場で授乳することにイヤだという人はいるのかもしれない。そしてイヤだと言う事も制限はできない。現代ではイヤだという言葉は拡散されて私たちにまで届く。まるで私たちの総意であるかのように。

これに対し批評家の東浩紀ツイッター上で「イヤな人がイヤだというのは勝手だが、それを無視するのも勝手だ。」と発言した。これは母親を擁護するありきたりな発言であるように見える。しかし、考えてみるとかなり鋭い指摘であるのではないだろうか。

ここで重要なのは東が、子育ての大変さについての「思いやり」などに言及しないことだ。もちろん東は「思いやり」で済ますことが「正しい」問題だとわかっているはずだ。しかし「投書した人もこれから結婚して子どもを生んだらわかる」などとは言わない。恐らく感覚的に、そんなことでは解決できないことに気がついている。思いやりすらもシステムが担う時代になっている。それは一見、便利なようでいて私たちから思いやりの想像力を奪うのだ。

フードコートに授乳室があるのは私たちの優しさからではない、システムとしてあるのだ。そしてシステムからはみ出た人間に、システムに生かされる人間は怒りを覚える。この時に私たちは想像力が働かなくなる。

そこで東は無視してもいいのだと言う。つまり、システムから聞こえる声を聞かないという選択を勧めるのだ。相手を変えようとするという意見に対し、あなたが間違っていると返すのではない。柔らかく言えば「そういう意見もあるよね」と受け流すのである。

 エンデとポストモダン

ミヒャエル・エンデは『モモ』のあとがきで、この物語が「将来起こること」であることを匂わせている。エンデは『モモ』を1973年に著した。これはポストモダンと言われる時代の少し前にあたる。しかし『モモ』は「システムによって生きる」から「システムによって生かされる」ように切り替わるポストモダンの世界を巧みに描き出している。

その解決は児童文学らしく夢に溢れているが、扱う問題が私たちに馴染み深いだけに考えさせられてしまう。便利さと生きにくさが加速するシステムのなかにあって想像力を持ち続けられるか。それを考える「時間」くらいは盗まれずにもっておきたいものだ。

 

モモ (岩波少年文庫(127))

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承認をめぐる病 (ちくま文庫 さ 29-8)

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ゲンロン0 観光客の哲学

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