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リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

『カッコーの巣の上で』映画批評「わかるかどうかは重要であるのか」

映画 映画批評 心理学 レヴィナス ラカン 松本人志 内田樹 コミュニケーション

最近の松本人志のツイートから

今回は『カッコーの巣の上で』の批評である。この批評は最近の松本人志のツイートとも関連していると言える。私は彼の笑いが好きだが、ワイドナショーなどをみていると彼の発言の全てに同意できるわけではない。しかし以下のツイートは私の心に刺さった。

聴覚障害の人に握手を求められた。マスク着けたまま ありがとうって言ってしまった。
オレあほやな。

松本人志Twitter(matsu_bouzu)21:26 - 2017年4月7日

それでは映画批評に移っていこう。

 映画 『カッコーの巣の上で』批評

言葉が聞き取れない相手には、言葉がけは意味を持たないだろうか。新たな状況に投げ込まれるとパニックを起こす人間は、好奇心を満たす必要はないのだろうか。この映画は治療者-患者関係の強すぎる非対称性が残る時代の精神病院を描いた映画だ。刑務所から逃れるためにやってきたマクマーフィが、精神病院の息苦しさに耐えかねて変革を起こそうとしていく。映画を観ている私たちには、最初は卑怯で横暴に見えるマクマーフィが、精神病院の問題点を暴いていく中で、だんだんと人間味あふれる主人公に見えてくる。

マクマーフィは何の理由もなく薬を飲まされること、会話に支障があるくらいに大きく流れる音楽、国民的関心事である野球のワールドシリーズを見られないことなどに次々と噛み付いていく。現在ではインフォームド・コンセントの観点から、薬を何の説明もなく飲まされるということはありえない。この点ではマクマーフィは医療の進歩に必要な発言をしている。しかし、説明を求めることは看護婦長ラチェッドからすれば言うことを聞かない患者というだけのことで、それならば「他の方法で」投薬することになるだけである。

予期不能性をカットする婦長

病院の職員は基本的に、患者に判を押したように同じ毎日を送らせようとしている。滞りなく毎日が進むのならば、それでよいのであり、患者が要求したことであってもそこにルーティーンを崩す要素があれば容赦なく切り捨ててゆく。ワールドシリーズを頑なに見せない婦長の姿は子どもじみているように思える。しかしそれは、ワールドシリーズを見せることで予想外の事件が起こる可能性を予期しているからである。

ワールドシリーズがマクマーフィたちに起こす興奮は他の患者の、興奮や不安を煽るかもしれないのだ。婦長は恐らくこの予期不能性をカットするために必死なのである。しかし、治療者―患者関係を人間関係として考えた場合に予期不能なことが入り込まないということがあり得るだろうか。婦長にとってはすべてが想像通りの人間関係でいいのだが、患者にとってはそれ自体が生活の全てなのだ。生活のすべてが想像通りということは(それをつまらないと感じる能力がないとされていても)理想的ではない。ましてや、つまらないという意見が出ていては無視していいはずがないのである。

これは、小学校の学級担任にもよく起こることである。子どもが何を考え、何をするのかその全てを把握しなければ気がすまないという教員がいる。全て把握することは、どのようにコミュニケーションを図ろうと、観察しようと通常はできない。それを実現する唯一の方法は、相手に考える隙をなくすこと、また考えていることを表現させないことだ。そのために教員の知的・肉体的リソースが全て注ぎ込まれるのである。そこに起こるのは人間関係ではなく、主従関係である。このようなクラスでは担任が変わると、おとなしかったそのクラスが急変して学級崩壊を起こしたりする。新たな担任が悪いのではない、人間関係とは違い主従関係は、積み重ねることで研鑽され引き継がれるということがないのである。

コミュニケーションを欠いた精神病院

チーフという耳の聞こえない(とされている)患者がいる。マクマーフィはバスケットしたさからチーフに言葉を交えて教えようとする。そこで病院職員は「無駄だよ、チーフは耳が聞こえていない」ということを平然と言う。耳が聞こえているのに聞こえない振りをしていたチーフは患者とは言えないのかもしれない。しかし、考え方を変えてみれば、耳が聞こえないと言う理由で、職員たちがコミュニケーションを断念していたからこそ嘘を突き通せたのである。彼は耳が聞こえないという嘘をつくことで罪悪感は抱かなかったはずである。彼にはマクマーフィが現れるまで、それだけの人間関係が存在しなかったからである。

ビリーという患者がいる。婦長は彼の母親と友人であるらしく、ことあるごとに彼の意見を母親の名において潰している。ビリーは、マクマーフィの計らいでクリスマスの夜に「男になる」。そして次の朝、婦長に対する弁明で彼の特徴的な吃音は現れなかった。しかし、その弁明を反抗的だと見た婦長の「お母さんが聞くとどう思うかしら」という一言でビリーはまた吃音に戻り、母には言わないよう懇願する。ビリーは職員に連れられその場から消えるが、その後落ちていたガラス片で自らを切りつけ自殺する。

婦長は自らがコミュニケーションをめざしていないということ自体に気がついていないように思われる。彼女は、日課をスムーズに進行させるだけで精一杯なのだ。グループセラピーを開くことも日課の一つである。しかしそこでも、彼女は主従関係を用い、患者の言いたくないことでも言わせようとする。彼女は、患者の考えていることを把握し、患者に何かをさせることで解決しようとしている。そしてそれをコミュニケーションだと考えている。

沈黙によるコミュニケーション

現代のグループセラピーで言いたくないことを「パスできる」というのは、不安を煽ることを避けるためだけではないように思われる。パスすることそれ自体がコミュニケーションなのだ。沈黙は意味を持つ、それを許さないということはある意味で、沈黙によるコミュニケーションを拒絶している。コミュニケーションにおいて重要なのはその内容ではない。

対話を開始するときに、私は「あなたが何を知らず、何を知りたがっているか」を知らないし、あなたは「私が何を知らず、何を知りたがっているか」を知らない。しかしそんなことは対話の進行を少しも妨げない。なぜなら、対話は「あなたが語りつつあること」を「それこそ、私がまさに聞きたかったこと」であるというふうに体系的に「誤解」しながら進行するものだからである。(内田樹(2004)『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』文春文庫p.62-63)

コミュニケーションは、私が聞きたいことを聞くというのではなく、「あなた」の語ること(或いは語らないこと)をそれこそ私が聞きたかったことだとして進行する。コミュニケーションの本質は「めざす」ことにある。

マクマーフィはビリーの弁明に対する、婦長の対応に、悲しさと侮蔑が交じり合ったような表情で見つめている。婦長がビリーとのコミュニケーションを遮断していることに彼は気がついている。婦長はビリーから聞きたいことしか聞きたくないのだということを悟るのだ。そして、ビリーの自殺後、婦長の首を怒りのあまり絞めあげるのである。

職場に適応することの罠

病院職員たちは無限に続くコミュニケーションの挫折の経験によって、患者とのコミュニケーションなど無意味であるとして切り捨ててしまったのだろう。専門家こそが真理を見誤るのだ。これは恐ろしいことである。通常のコミュニケーションとは異なるものであれ、コミュニケーションは起こっている。しかし、経験こそが職員の患者スキーマをいびつなものにしていくのである。これは職員にとっては適応的だからこそ起こる。患者とのコミュニケーションを無意味なものと捉えれば(つまり患者は物と同じであると捉えれば)、考えることや気にすることが減り、仕事が楽なものになるのである。

しかし、当たり前だがこれは本末転倒なことである。患者のために必要な施設が、患者のことを考えていないことになってしまうからだ。私たちはこの「慣れ」に抗っていかなければならない。映画内の病院の職員のすべての対応は、患者のために行われており、それは真実であるのだろう。しかし、定期的にシステムを点検していかなければ、初期のマクマーフィのように、外部の人間からすればありえないことが平気で行われる環境になってしまうのである。

現在でもアクチュアルな『カッコーの巣の上で

カッコーの巣の上で』は1975年製作の映画であることから(原作小説は1962年発表)、今を生きる私たちには当時の精神病院の問題点が見えやすくなっている。しかし現在でも、相模原障害者施設殺傷事件のように、進みすぎた経済原理によって、障害者の生きる意味を建前としてしか受け取れなくなる、というように形を変えて起こりうるのではないか。

この映画のラストでは、マクマーフィは婦長を殺そうとしたために、恐らくはロボトミー手術を受けさせられている。何も考えられなくなったマクマーフィを見てチーフは悲しみに暮れ、いままでの彼の尊厳を保つために枕で窒息死させる。チーフはその後、マクマーフィの持ち上げられなかった水道の装置を持ち上げ、鉄格子と窓を突き破り、森の中に消えていく。その姿は今後の精神病院の変革を予感させるものである。マクマーフィの成し遂げられなかった変革の思いをチーフが果たすのである。

 

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他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)

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文藝芸人 (文春ムック)

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