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リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

『潜水服は蝶の夢を見る』映画批評「コミュニケーションの極限から」

フランス 映画 ラカン 映画批評 コミュニケーション

潜水服は蝶の夢を見る』映画批評

今回は映画批評のようなものを。取り上げる映画は『潜水服は蝶の夢を見る』だ。

主人公ジャン=ドーはパリのファッション誌『ELLE』の編集長であったが、脳梗塞によって左目の瞳と瞼しか動かせなくなってしまった。右目は閉じなくなってしまったため縫いつけられ、左目の視覚と聴覚、そして「想像力」以外は全て麻痺してしまう。彼の物語がただ暗いものにならないのは、彼自身のユーモアと、周りの人間が彼へのコミュニケーションを「めざす」ことによってである。

ジャン=ドーは言語療法士の作った使用頻度順のアルファベットを読み上げる方法に沿い、瞬きをすることでコミュニケーションを取れるようになる。彼は最初これを面倒だと言ってはねつけてしまうのだが、言語療法士が本気で自分に向き合っていることを知り、彼はその後、この方法を用いて著作の執筆に取り掛かるまで上達を遂げるのである。

コミュニケーションの極限

面白いのは、この言語療法士の方法を拒絶し、受け入れるまでにジャン=ドーと言語療法士の間には既に(言語療法士が涙するほどの)コミュニケーションが起こっていることである。私たちがコミュニケーションというときに思い浮かべるのは、やはり言葉のやり取りである。もしくは、言葉使わなくとも表情やしぐさ、間を用いてコミュニケーションを取ることができるだろう。しかし、その全てがジャン=ドーにはできない。

まさにこの状況はコミュニケーションの極限であるだろう。私たちはメールやSNSで文字のみでコミュニケーションを取ることがある。これは一見文字だけのコミュニケーションであるように見えるが意識せずとも、相手がどのような感情で言っているかを普段の会話から推察している。しかし、ジャン=ドーがどのような感情なのかを言語療法士は本当の意味で文字、またはコミュニケーションの拒絶という形でしか読み取れない。

言語療法士は元『ELLE』の編集長という情報以外には、ジャン=ドーのことを知らなかったのである。しかし、文字、またはコミュニケーションの拒絶というコミュニケーションの極限においてもコミュニケーションは可能であることをこの物語は序盤から示しているのだ。言語療法士とジャン=ドーのコミュニケーションは食い違うことがある。しかし、それは彼らのコミュニケーションを妨げるものにはならない。

コミュニケーションの「至らなさ」とラカン

例えば、こんなシーンがある。電話を病室に置くために工事業者がやってくる。そこでブラックジョーク(電話なんて必要ないだろ?無言電話をかけるんだろ)を業者が言うのだが、それに対し言語療法士は、ジャン=ドーのために怒る。しかし当のジャン=ドーはそのジョークに(脳内で)爆笑して、言語療法士に対して「こいつはジョークがわからないのか」というように思っているシーンがある。この思い違いは、言語療法士がジャン=ドーのことを思いやっており、それをジャン=ドーもわかっているという、その一点にのみ支えられて問題にはならない。

私が皆さんに理解できないような仕方でお話しする場面があるのは、わざととは言いませんが、実は明白な意図があるのです。この誤解の幅によってこそ、皆さんは、私の言っていることについていけると思うと書くことができるのです。つまり皆さんは不確かであいまいな位置にとどまっておられるのです。そしてそれがかえって訂正への道の扉を常に開いておいてくれるのです。

ことばをかえれば、私がもし、簡単に解ってもらえるような仕方で、話をすすめたら、対話的ディスクールに関する私の前提そのものからしても、誤解はどうしようもないものになってしまうでしょう。(ジャック・ラカン(1955-1956) 小出浩之他訳『精神病〔下〕』(1987)岩波書店p.9)

思い違いが問題にならないのは、言語療法士とジャン=ドーのコミュニケーションのなかに、ラカンと読者のような関係性が立ち上がっているからだと私は考える。言語療法士は、編み出した独自の方法でしか、ジャン=ドーとのコミュニケーションが取れない。それは彼女にいつもコミュニケーションの「至らなさ」を感じさせるものだっただろう。ならば言語療法士はジャン=ドーの伝える文字だけでは伝わりきらないことについて、解釈せざるを得ない。そして「至らなさ」を補う解釈は、彼女の中で「不確かであいまいな」位置にある。

だからこそ、誤解をしていても、その誤解はコミュニケーションに致命的なものにならない。言語療法士の至らなさは誤解の可能性を予期している。だからこそ、彼女のブラックジョークへの怒りは、ジャン=ドーの代弁にはならない。代弁などできないと彼女は知っているからである。だからジャン=ドーは訂正しない。自らの代弁として言語療法士が怒っているのであれば、その齟齬についてジャン=ドーも怒るはずなのである。

ラカンが嫌ったのは、この種の齟齬である。ラカンはこう考えている、と読者が「完璧に理解した」と思っているものを読者は訂正できない。だからこそ、ラカンは最初から「完璧に理解した」などと、読者には思わせないような文体を用いて語るのである。その形を取れば、読者にとって誤解は致命的なものにならず済むのである。

極限で残るのは、めざしている「方向」

コミュニケーションの極限において、なおそこに残るものは何であるのだろうか。正確に自分の考えていることを伝えるのでもなく、相手のことを正確に読み取るのでもない。そのような極限で見出される関係には、「あなた」に「伝えようとしていること」と、「あなた」から「聞き取ろうとしていること」ということだけが残る。コミュニケーションの極限で削ぎ落とされ、なお残るものはめざしている「方向」である。そしてその方向こそが、唯一自分から抜け出し、外部に触れうる道なのである。

潜水服に閉じ込められたジャン=ドーは想像力で蝶になることができた。しかしそれは私たちにとって他人事ではない。私たちもまた、客観的世界という自らの作り出した世界に縛られている。そして、私たちは言葉にニュアンスを込めることができることで、また豊かな表情を持つことで、しばしばコミュニケーションにおける誤解は致命的なものになる。

潜水服に閉じ込められないために

私たちは言葉やニュアンスを操ることで、文字としては同じでも意味が逆になるというようなことを知っている。しかし意味を取るのは、聞いている「私」の独断である。そしてそこに起こる誤解について、私たちは訂正できない。「そんなつもりで言ったんじゃない」という言葉では、相手の傷ついた心を癒やすことはできない。

これはラカンで言うところの「誤解はどうしようもないものになって」しまったということであるのだろう。会話においては常に、言わんとしていることよりも、言われたことのほうが意味は多くなる。だからこそ、経験に照らし合わせて聞く側は解釈しなければならない。その解釈は、聞いている「私」にしかできないものであるが、言わんとしていることと完璧には合致することはない。

ジャン=ドーは身をもって「誤解」を体感する。閉じない右目を閉じるための手術や、点滴の係が消してしまうテレビは行為者としては良かれと思い行っている(もしくはそうせざるを得ない)。しかし、ジャン=ドー自身からすればその一つひとつに思うところがあり、そのことは伝わらないのだ。しかしまた彼が証明したように、コミュニケーションの本質は「方向性」にある。「あなた」が言わんとしていることを、「私」が聞き取ろうとすること、そして聞き取ったことは「私」が解釈した不確かなものであること。そのことを「私」は忘れてはいけない。でなければ、私たちは気づかぬままに潜水服に閉じ込められることになるのである。

対話を開始するときに、私は「あなたが何を知らず、何を知りたがっているか」を知らないし、あなたは「私が何を知らず、何を知りたがっているか」を知らない。しかしそんなことは対話の進行を少しも妨げない。なぜなら、対話は「あなたが語りつつあること」を「それこそ、私がまさに聞きたかったこと」であるというふうに体系的に「誤解」しながら進行するものだからである。(内田樹(2004)『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』文春文庫p.62-63)

 

他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)

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ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

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