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リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

『紙の本は、滅びない』書評「紙の本と内田樹」

書評 内田樹 レヴィナス

『紙の本は、滅びない』書評

『紙の本は、滅びない』というタイトルは私を惹きつけた。そのタイトルの中に、文字になっていなくとも電子書籍の脅威が見える。また、紙の本の絶滅可能性について人一倍考えているからこそ出てくるタイトルであり、どちらの側に肩入れしているかが瞬時にわかるからだ。ここでは、この本の著者である福嶋聡と、私に紙の本の特異性を思い知らせた内田樹、そして拙くも私の、本への「思い入れ」から紙の本の存続の可能性について考えていきたい。

「「いのち」とは、限りあるものである。本が「いのち」を持つのは、それがいつか無に帰する定めにある「モノ」だからである。」(『紙の本は、滅びない』34ページ)

この言葉に私は深く同意する。これは「動物占い」や「インド数学」など一時期ブームになったジャンルがあり、書店では死んでいくものであったが、電子書籍の世界では生き続ける、その不自然さを糾弾するものだ。確かに時代の流れの中で廃れていく本、ジャンルがあることは自明であるだろう。

内田樹の本の「いのち」観

しかし、本の「いのち」とは時代の流れの中にのみあるのだろうか。本は根本的に「モノ」とはその本質を異にするのではないか。内田樹は言う。

「「一冊の書物」の「意味」は、それを「読む」ことにおいて生成する。書物の意味は、読む人がそこに新しい意味を見出す限り、決して汲み尽くすことができない。」(『レヴィナスと愛の現象学』152ページ)

これは内田が、本の「いのち」は「読まれる」ことで起動すると考えていると言えるだろう。

本に対する愛が溢れる二人であるが、決定的に本の「いのち」観が違う。福嶋が想定する本の「いのち」は、不特定多数の読者(購入者)と本の間の「いのち」であるが、内田は一人の読者に本が読まれることに「いのち」があると考えている。『街場のメディア論』で内田は、読者が一人でもいる本にはアクセス可能であるべきで、紙の本では出版と在庫の関係上無視されてしまった読者にまで、電子書籍は配慮できる可能性があるとしている。

私がここで考えるのは、「動物占い」や「インド数学」は電子書籍の世界で、福島の言うような、永遠の「いのち」は得られないだろうということだ。読み手がいない文字の羅列はそのままで「いのち」と呼べるものではない。一方で、絶版になり、アクセスが難しくなり、『紙の本は、滅びない』に登場する「せどり屋」が高値で取引するような本は、市場の原理により「殺された」のであって読み手が存在する可能性がある。その読み手に、電子書籍という形であれ本が(せどり屋とは違い少なくとも定価で)渡ればその「いのち」は煌々と燃えだすのではないだろうか。

紙の本の特異性

しかし確かに、紙の本には特異性がある。内田の『レヴィナスと愛の現象学』は私にとってそれを教えてくれた本と言える。私はこの本を高校三年生の冬に買ったのだが、当時の私には難しく、途中で投げ出してしまっていた。それから大学に入っても、ずっとこの本は書棚で背表紙だけが見える状態であった。

「僕たちは書棚に「いつか読もうと思っている本」を並べ、家に来る人たちに向かって、いや誰よりも自分自身に向かって「これらの本を読破した私」を詐称的に開示しています。」(『街場のメディア論』155ページ)

内田の言い方ではこのようになるだろう。このとき本は「モノ」としてその役割を負っている。

最近になって、この本をふと書棚から取り出して読んでみるとすらすら読めた。これは内田の他の本を何冊も読むことによって、内田がどのように思考しているかの手がかりが掴めていたということもあったと思われる。しかし、その面白さが並みのものではない。それから読み終えるまで、信号待ちなどほんの些細な空き時間にも読んでしまいたいような衝動に駆られた。

それは他のどの内田の本にも勝る「こんな本が自分の書棚にあったとは思いもよらない」ような読書体験だった。このとき私は、本の意味が開示されるということは、書棚にあった「モノ」としての本とは、まるで別物になることがあると学んだ。

リアル書店における偶然の出会い

紙の本と電子書籍との間には大きな違いがある。それは紙の本が、やはり「モノ」でもあるということだ。福嶋はリアル書店の持つ、偶然の出会いに対してネット書店への優位性を説いている。私たちは今や、読みたい本・読まなければならない本に関してはアマゾンなどですぐに購入する術を持っている。しかし、読んだ後面白いと思える本・豊かになれる本に関しては全く分からないのだ。それは予想外の出来事であるはずであり、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」というような、「やっぱり」や「結局」の語法で語れるものではないのである。

本の意味は読まれるまで開示されない。しかし、その装丁が、背表紙が私たちに迫りくることがある。それは御茶ノ水三省堂において哲学のコーナーに足を踏み入れるときに感じる「底知れなさ」であり、そこに発生する、レヴィナスドゥルーズを「誰それ?」と言わせない無言の圧力であるだろう。リアル書店には「モノ」の強さがある。

「モノ」と「意味」の往来

「モノ」と「意味の開示」の間を紙の本が行き来することに、偶然の出会いがあるのではないかと私は考える。なぜならば、書棚での「モノ」としての本と、読むことで「開示された」意味が全く同じであるということはありえないからだ。書店において本は、「モノ」としてそこにある。それを私たちは(少しは書店で読むにしろ)「モノ」として購入する。その後になって、読むことで初めて「意味の開示」が起こる。私の例では丸3年が経っていたように、買った本の意味の開示はいつになっても構わないのだ。この「モノ」と「意味の開示」の時差が、電子書籍ではたして起こるだろうか?

「『多崎つくる』が電子書籍として流通し、配本不足や売り切れの心配がまったくなかったとしたら、即ちその気になればいつでも入手できるとしたら、発売3日で30万部がほぼ売り切れ、1週間で100万部を刷らねばならないような事態が発生しただろうか?」(『紙の本は、滅びない』85ページ)

即時的かつ永続的に購入可能な電子書籍を、スマホタブレットのアプリの本棚にしか存在しないものを、私たちは「モノ」として欲しくはならないだろう。希少価値がない上に、手触りのある「モノ」ではないからである。

こうして電子書籍では必然的に、その本からどんな意味が開示されるかが「モノ」に先行して考慮される。どのような内容なのか、私が好きな内容かということが購入の決め手になる。それは「やっぱり」や「結局」の語法であり、偶然の出会いというよりも、自分が求めていると「わかっている」ものとの出会いである。そこには想像を超えるものが入り込む隙がない。

紙の本は「モノ」としての存在と「開示される意味」が解離したものであるために、想像を超える可能性を秘めている。だからこそ、紙の本は「モノを超えたモノ」なのである。書店は紙の本を取り扱い、「モノ」としての魅力を引き出し「偶然の出会い」に私たちを巻き込む。私たちは読むことによって「モノ」から意味を引き出し、想像を超える面白さを味わう。そして、読み終えると自分の書棚に収める。そこにある本は確かに読む前と同じ「モノ」なのだが、見え方が全く変わっている。この一連の運動が続く限り、紙の本は滅びないのだ。

 

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

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街場のメディア論 (光文社新書)

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紙の本は、滅びない (ポプラ新書 018)

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