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リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

物語シリーズを2週間で駆け抜けてみた

はてなブログ初投稿だ。サブカルともオタクともわからない、どっちつかずの私がブログを始めてみる。

 

物語シリーズのアニメを2週間ほどで観終えた。(正確には傷物語〈II熱血篇〉までなのだが、すぐに冷血篇を観ようと思っている。)

 

私は大学生なので1月の終わりはテストの時期だ。そのようなタイミングにクールもののアニメにハマるというのはよくあることである。しかし物語シリーズに手を出したのはまずかった。なめていた。とにかく長い。化物語偽物語猫物語(黒)猫物語(白)、傾物語囮物語鬼物語恋物語花物語憑物語終物語傷物語〈Ⅰ鉄血篇〉、傷物語〈II熱血篇〉・・・。

 

途中で飽きるだろうと思っていた、が違った。面白いのだ。ガブガブと連続視聴することで、文字通り「物語」を「消費」した。ずうっと観ていられる、ヒロイン皆を愛せる作品だ。大好きだ。冷血篇は絶対に劇場で観る、そう決めている。しかしだ。

 

この2週間の間に同時に私には読んでいた本があった。それは『動物化するポストモダン』だ。オタクたちの間で東浩紀の評判は必ずも良くはないらしい。しかしあの、ノベルゲーム分析のなかには物語シリーズにも応用できる部分が多くあると思う。

 

ノベルゲームの構造は、本質的に、プレイヤーがいくつもの恋愛を変遷することを求めている。にもかかわらず、ノベルゲームのシナリオでは、主人公(プレイヤーの同一化の対象になる登場人物)の性格として、つぎつぎと女性を取り替える漁色のタイプが設定されることは少ない。むしろそこでは、ヒロインとの「運命」や「純愛」が強調されることがきわめて多い。(p.123)

 

これは物語シリーズにも言えるのではないだろうか。大きく運命と言える関係は、主人公と血のつながりになってしまう忍野忍。物語の原点において主人公との重要な出会いをはたす羽川翼。そして彼女である戦場ヶ原ひたぎだ。

 

私のようにシリーズを短期間に横断すると顕著に現れる、運命の複数性。これはアニメを放送と同時に追っていると気がつきにくいことだ。ここだけ見ると、物語シリーズ東浩紀が言う安易な感動産業のようなものに思えてしまう。

 

しかし、物語シリーズとノベルゲームにはひとつの違いがある。当たり前ではあるのだが、やはり暦の彼女は戦場ヶ原だと言うことである。傷物語を見て、羽川との運命に私たちは身を委ねられない。なぜなら羽川は暦とは結ばれないと私たちは知っているからだ。しかし身を委ねられないからこそ来る感動がそこにはある。「羽川あああぁ!!」と言わせる無常さがそこにはある。

 

西尾維新はノベルゲームの抱える矛盾を逆手に取っている。オタクたちが無意識的に物語を消費するなかで生まれる疲れ。それを癒す作品として物語シリーズはあるのだ。