リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

『神の悪フザケ』マンガ批評「自己否定的な自己愛の迷路―暴露と欺瞞」

壮絶な鬱マンガとしての『神の悪フザケ』

私はこの漫画を読み終えるのに、漫画一冊ではありえない期間を要した。それは時間が掛かったということではない。この漫画の情報量は多いわけではない。そうではなく、読み続けることができないのだ。めまいがしそうなほど醜い世界が描かれているからである。しかもその世界は私と無関係ではない。過去に私に、または周りの誰かに起こっていたことをアンプで増幅させているかのような世界なのである。

こんな醜いことは、私の中高時代には起こっていなかった、と言いたい。しかし私の記憶から、過去のクラスメイトが溢れてきて、否定することができなくなる。彼らは私に「そんなことはなかった」とは言わせない。私はこの漫画から上手く距離を取ることができない。だからせめて、この漫画の抱える「どうしようもなさ=絶望」について本当にどうしようもないものなのか、と問うてみたいと思う。

 絶望を露呈させようとする衝動

この漫画を描いた山田花子は、92年に自殺している。そのことについて稚拙ではあるが考えてみたい。まず、この作品に流れる通奏低音は、絶望を露呈させようとする衝動だと言えるだろう。これは斎藤環の『キャラクター精神分析』のなかにある「自己否定的な自己愛」と呼ばれるようなものである。

彼らは一種の「負け組」意識を共有しており、そうした負の刻印は運命的なもので、努力やチャンスでは変わりようがないと確信しているかのようだった。一見自己嫌悪に見えるほどの否定的な意識は、しかしその確信ぶりにおいて「自己否定的な自己愛」と呼ぶに値する。(斎藤環(2014)『キャラクター精神分析―マンガ・文学・日本人』筑摩文庫 p.41)

これは2008年に多発した通り魔の容疑者についての一文であるが、この自己についての否定的な確信は山田の特徴も捉えているのではないだろうか。山田はこれでもかと追い討ちをかける手法が得意であるようだ。醜い男の子の心が善良でないこと。醜い女の子が男の子にフラれた後、クラス中から「男の子がかわいそうだ」と攻められてしまうことなど。

それらの描写を通じて、どうしようもないやつは本当にどうしようもない、ということを笑いにしている。彼女にとって少年ジャンプのような「友情」「努力」「勝利」は欺瞞である。或いはクラスの人気者たちだけが味わえる栄誉なのである。山田は醜い者が心優しいという既存のエンターテイメントの表現を笑う。醜い者も(皆と同じように)心も醜いといった具合である。

 『ナチュラル・キッド』に表れる山田花子の思考様式

本漫画には女の子を主人公にしたものの他に『ナチュラル・キッド』という作品が収まっている。知的に障害があると思われる児童の物語である。その中で、山田の心の声のような描写がある。

もともと人間は不平等。宿命(能力等)の違いを認め合うのが本当のいみでよい社会だと思うんだけどなあ。(山田花子(2000)『神の悪フザケ』青林工藝舎 p.156)

わからないことはない考え方である。彼女は平等という欺瞞を剥がそうとしている。その先の絶望を露呈させようとしている。「不平等であることを認めてしまえ、皆もわかっているのだろう」と言っているように聞こえる。小学校時代、普通学級で何らかの障害があるだろう子と一緒に授業を受けたりすると、そのことを考えさせられたものだ。ここで授業を受けることが、本当に彼にとって幸せなことなのかと思うのだ。だからこの考えがシニカルで冷静で現実的であるように見えてしまう。しかしここには大きな絶望の落とし穴がある。

 そして絶望へ

山田の考え方、つまり平等という欺瞞を剥がして例えば、誰かが私より先に会社で昇進を果たすということについて考えてみる。すると私は彼が上司に気に入られたせいで昇進したのだと考えることができなくなってしまう。それは欺瞞なのだから。私が彼より劣っているから昇進できなかったのだということになる。

昇進と能力がイコールで結びつくことは、耐え難いことだ。このように平等という欺瞞を剥がしてしまうと、その世界の弱者を救い出すことは絶望的に困難である。救いの手を差し伸べようとしたとたん、それは救いようもない生来の弱者ということになってしまうからだ。山田は恐らく平等の欺瞞を剥がしたとき、自身がその不平等による弱者側であると考えていただろう(でなければ欺瞞を剥がそうとは思えない)。そして山田は自らの論理で自己を傷つけることになる。自らの論理で自らを救いようもない生来の弱者にしてしまう。それが無意識的であったにせよ、「そんなことはわかりきっていた」にせよである。先ほども言ったように、これは「自己否定的な自己愛」である。私たちは自らに刻まれた負の刻印を運命的なものだと思い込んでしまう傾向がある。

絶望の隠蔽という希望

資本主義は「公正」でないという事実は、資本主義を大衆にとって受け入れやすくする重要な特徴なのである。わたしの失敗はわたしの能力不足によるのではなく偶然による―そう分かれば、わたしは失敗してもずいぶん楽に暮らしていける。(スラヴォイ・ジジェク(2008)中山徹(訳)『暴力-6つの斜めからの省察』(2010) 青土社 p.114)

しかしジジェクが言うようにそれでは「楽に暮らしていけ」ない。皮肉の篭ったこの文章は「絶望の隠蔽」という山田とは逆の考え方を提示している。絶望の隠蔽という欺瞞は、無意味なものではない。むしろ大きな役割、心と現実の間に滑り込みその関係をソフトにするという役割を果たしている。しばしばその覆いは現実そのものよりも重要であったりする。

会社で自分が出世できないことが、上司に好かれていないからだと、思うことができれば、私は働き続けることができる。そして私が出世したならば、それは自分の頑張りによるものだと思うことができる。これらの思い込みが事実であるかはさほど重要ではない。私自身が納得できれば物語であろうと問題はない。絶望を覆う隠蔽の最大の機能は、様々な物語を生み出すことを可能にすることにある。

子どもたちがヒソヒソ話で盛り上がれるのは、その内容が面白いからではない。ヒソヒソ話の面白さは隠れていることによって、私たちにそこには重要な何かがあるのだと思い込ませることにある。隠れているというその事実が重要なのである。私には山田がヒソヒソ話の内容を知って、つまらないと言っているように見える。絶望を露呈させることには、確かに強烈なリアリティがある。世界を「わかった」感じを与えてくれる。しかし、絶望を覆い隠しているものを無碍にしてはいけない。そこから物語が生まれるのだ。そして人生の面白さは物語に住まうのである。

 

定本神の悪フザケ

定本神の悪フザケ

 
暴力 6つの斜めからの省察

暴力 6つの斜めからの省察

 

『パンズ・ラビリンス』映画批評「ファンタジーと現実を繋ぐ発想の転換」

映画『パンズ・ラビリンス』批評

今回は『パンズ・ラビリンス』の批評を。かなり論理の飛躍、恣意的な読み取りが見られるのはご愛嬌。

主人公の少女オフェリアは最初、これから巻き込まれるファンタジーと類似した物語を読んでいる。そして行き先は、新たな父のいる山奥の戦場である。彼女は、母が妊娠中の長旅で具合を悪くしている間にナナフシと出会う。彼女はそれを妖精だと信じこむところから映画は始まる。

オフェリアは妖精に導かれ、迷宮の中の地下と繋がるところに行くことになる。そこで、悪魔とも神とも見えるような容姿をした地下の番人パンと出会う。彼はオフェリアに、3つの試練を課し、その試練が浮かび上がる本を彼女に授ける。この本を開くのは、彼女が一人でいる時でなくてはならず、さらに彼女の母が苦しんでいるときには血が浮かび上がるような本である。そのためこの本は、彼女の思うことが浮かび上がってくる本だと言える。そしてそれは、この本を起点に進むファンタジーそのものがオフェリアの幻想だということを表明しているように思われる。

オフェリアが試練の中で、反抗するのは1度だけである。それは、盲目の怪物の目の前に置かれたぶどうを2粒食べてしまうことだ。第一の試練でオフェリアはグロテスクな虫やカエルの体液のようなものから逃げ出さず、鍵を発見することに成功している。ここの時点では、不快であっても忠実に試練に耐えている。しかし第二の試練では、盲目の怪物に殺されたであろう大量の子どもの靴があるにもかかわらず、危険を冒してでもぶどうを食べてしまう。これはなぜなのかについて考えてみたい。

ファンタジー=現実逃避のための装置

私はファンタジーの世界を、彼女の作り出した現実からの逃避の装置であると考える立場をとる。その視点で考えると、オフェリアはぶどうを食べることで、ファンタジーの世界から抜け出し、普通の人間として生きることを決めているように見えるのである。

オフェリアが第一の試練を乗り越えた後、次の試練にすぐに進まなかったためにパンが枕元にやってくる。そのとき彼女は、母親の体調が良くないからだとパンに弁明する。しかし或いはこうも考えられる。母親の体調が良くないという耐え難い状況に追い込まれたからこそパン(という幻想)が枕元に登場したのだと。

そこで、母親の体調が良くなるという、マンドラゴラを受け取る。或いは、オフェリア自身がマンドラゴラというものを作り出し、信じることで落ち着こうとしている。彼女は(彼女の作り出した)マンドラゴラで母親を救おうと考えた。それは、彼女にとって現実世界における希望である。彼女は逃避先のファンタジーの世界で現実世界の希望を得る。このアクロバティックな論理で彼女は、(無意識的にではあるが)人間として成長を遂げようとする。

オフェリアはなぜぶどうを食べたのか

その後、オフェリアは第二の試練に挑戦している。試練はファンタジーの世界のお話を進めるためにある。つまり彼女がより、どっぷりとファンタジーの世界に浸かるため、より現実から逃げるために試練を受けている。この試練をクリアすれば王女への道に一歩近づくことを意味しており、これは彼女の表の欲望である。しかし、無意識では人間的に成長しようという欲望があり、そのためにはファンタジーにのめり込み過ぎてはならない。

だからこそ、彼女は現実とファンタジーのどちらを選ぶのかという葛藤に巻き込まれることになるのだ。最終的に、妖精の制止を振り切って彼女がぶどうを食べるのは、ぶどうが食べたかったからではない。葛藤の中で、現実世界で生きるという選択をしたからである。これは禁断の果実を食べ、楽園を追放されるアダムとイヴを想起させる。

そう考えると、怪物に食べられ靴だけを残すことになった子どもたちは、ファンタジーの世界から抜け出し、現実世界で生きることを決めた者たちが散っていった姿なのではないかとも考えられる。そして、残念ながらオフェリアも自らが選んだ現実世界の厳しさの前に散ることになるのである。

命からがら第二の試練から還ってきたオフェリアは、やってきたパンにぶどうを食べてしまったことを明かす。しかしパンは、オフェリアが試練を果たし戻ってきたはずであるのに、ぶどうを食べるという失敗のために王女への道が閉ざされたと告げる。もともとパンはオフェリアの命のために、怪物の目の前に置かれたものを食べることを禁止したはずである。試練を達成したのに王女にはなれないという、ここには小さな矛盾が起きている。   

これは、オフェリアがパンという存在と決別し、現実の世界を生きていくという決断なのだ。彼女はここで、普通の人間として生きていくことを嫌がっているが、無意識的には成長し、普通の人間になることを望んでいる。母のために生きようとしている。パンがオフェリアを見切るのではなく、オフェリアがパンと別れようとしているのである。

度重なる勇気くじき

しかし、それもうまくはいかない。まずはマンドラゴラを育てる姿を義父である大尉に見つかってしまう。そしてそれを、オフェリアが助けようとした母自身の手で焼かれてしまう。母親はオフェリアをファンタジーの世界から現実へ引き戻そうと焼くのだが、実はマンドラゴラ自体がオフェリアを現実へ戻す鍵だったのだ。オフェリアの目からはマンドラゴラが焼かれることで母という守る対象(それは守ってくれる対象でもある)が死ぬことになる。

そして、厳しすぎる義父のもとから離れるために、メルセデスと逃亡を決行する。メルセデスは、義父と、義父を優先する母よりもオフェリアのことをわかる存在である。しかし、その逃亡も失敗に終わり、メルセデスレジスタンスであることを黙っていたという罪で父親にぶたれてしまう。これは明らかに父が子にとる態度としてはありえないものである。

このような度重なる現実世界による勇気くじきによってオフェリアの前には、決別を告げたはずのパンが戻ってきてしまうのである。パンは、弟を抱いて、迷宮の中へ来いという。ここで一度、大尉であり弟の父親、オフェリアの義父の話をしよう。なぜ弟を連れて行く必要があるのか、その手がかりは義父にあるのだ。

義父の抱えるコンプレックス

大尉である義父は、父子関係というものに強いコンプレックスがあるように見える。ウサギ狩りをしていた父子を捕まえた際には、父を擁護する子を執拗に殴り、最終的に二人を殺すのである。かばんの中にはウサギが入っており、無実であったことがわかるが、反省の様子はない。また、父が死ぬ時刻を残していた懐中時計を自ら修理し使っている。そしてそのことを他の人間には隠している。妻の腹には男児がいることを信じて疑わず、妻の生命よりも男児の生命を優先するように医師に伝える。

おそらく、彼は亡き父親を恐れており、また自らが恐れられる父親のポジションに着くことを夢見ている。そして、オフェリアはこの義父の息子への思いに気づいている。だからこそ、パン(彼女に命令を下す者)は義父が大切にしている弟を迷宮に連れてくるようにいうのである。つまり、後の試練が弟の血を捧げることであるように、オフェリアは隠れた弟への攻撃性をそのファンタジーに込めるのである。オフェリアは、義父への復讐と、義父の愛情が弟へ注がれることへの嫉妬を、パンの与える試練として自らに課すのである。

 オフェリアを救うアクロバティックな論理

しかし、オフェリアは弟を傷つけることができなかった。そして追ってきた義父に殺されることになるのだ。オフェリアは試練を乗り越えられなかったが、しかし復讐心と嫉妬心に打ち勝った。彼女が最後に見るファンタジーの王国は弟の代わりに自分が傷つくことによって開かれた。現実世界での栄誉が今度はファンタジーの世界での希望となるというアクロバティックな論理がまたもや登場する。

他者の苦しみを、我が苦しみとして引き受けることで立ち上がる希望、誰にも代替不能な責任を引き受けることで立ち上がる主体性。私はこの極限の構造をレヴィナスの「アブラハム的主体」やフランクルの『夜と霧』で知っている。彼女は最期に、自らの死を無意味なものから意味あるものに変えたのである。対照的に、大尉である義父はこの後すぐに殺されるのだが、彼は自らの死を息子に意味づけしようとするが、新たな母親になるだろうメルセデスに打ち消されてしまう。彼は息子に、自分の死んだ時刻はおろか名前すらも伝えられない。彼はいままでの残虐行為を、自らの死の無意味をもって償うことになるのである。

 

『モモ』書評「システムの無謬性と想像力の欠如」

『モモ』に描かれる世界のシステム

幸福のために限りある時間を有効に使おうとする。その振る舞いは間違っていない。しかし人々が時間に対して過度な合理性を求めると、今度は合理的に時間を使うことが目的化されてしまう。つまり、なんのために時間を切り詰めているのかという部分を忘れてしまう。

うつ病の妄想には貧困妄想というものがある。自分は貧困状態にあると思い込んでしまうというものだが、ここでのお金が『モモ』では時間に置き換わっている。 

『モモ』では世界の細かな状況は明らかにされていないが、今日、私たちが読んでも深い感動を覚えるのは、時間に追われる世界というものに私たちがどっぷり浸かっているからだ。そして残念ながらそこから抜け出すことはできそうにない。時間に追われる世界を構成しているシステムは、もはや私たちの一部だからである。

いまや「システム」とは、単に「利用するもの」ではなく、「我々に存在根拠を与えるもの」なのだ。われわれはシステムを日々利用して生きるのではない。むしろわれわれは日々、システムによって〈生かされて〉いるのだ。(斎藤環(2016)『承認をめぐる病』筑摩文庫 p.234)

斎藤環は『承認をめぐる病』のなかで、システムと人々の関係を原初的な母子関係になぞらえて考えている。万能の母親=システムに依存し、人々は万能感を調達する。ここではシステムは人々の自己愛の一部に食い込んでしまっている。

灰色の男 と経済の論理

『モモ』のなかでも灰色の男の登場後は、(システムの典型である)ファストフード店など、人々がピリピリとしている場面が多く描かれる。これはファストフード店という(安く早く食事が提供される)システムとそれを運営している不完全なニノの分裂による怒りだ。システムの絶対視からくるのは、ミスを犯す人間へのほとんど義務のように湧き上がる怒りである。

ここで時間泥棒、つまり灰色の男たちについて考えてみたい。灰色の男たちの所属が時間貯蓄銀行というのは面白い。これは灰色の男たちは時間というものを、経済の論理で語るということを端的に表している。例えば、理髪店のフージーは毎日、車椅子の女性に花を持っていく。それを灰色の男は無駄な時間だという。私たちはそれを読み「なんて酷い論理だ!」と思うだろう。しかしこの論理は、長谷川豊の人工透析自己責任論や相模原障害者施設殺傷事件という形で私たちの身近なところにまで侵食してきている。人工透析自己責任論などを聞いていて思うことは、彼ら自身がその立場になることを全く考慮していないということだ。ここでは想像力が欠如している。

灰色の男たちは時間の計算を平坦に行う。日常を数百倍、数千倍と引き伸ばして生涯を算出する。つまり日常のつまらなさ、変化のなさを強調する形で人々に語りかけるのだ。このような論理に言いくるめられてしまうのは、フージーに「未来もきっと変わらないのだ」という確信があるからだ。これも想像力の欠如といえる。この一致は偶然であろうか。

また、灰色の男たちは人間から時間を奪うのに、基本的にはなにもしないということも象徴的だ。一度、時間の使い方について人々に語るだけで、その後は勝手に人々が時間に追われ始めるのだ。システムは根付いてしまえば、人々自身に食い込み自動的に稼動し続ける。

システムの外部にいるモモ

ここでやっとこの物語の主人公モモについて考えてみる。モモはカシオペイヤに導かれて、マイスター・ホラと出会ったただ一人の女の子だ。モモは勉強ができたわけでもなく、特別に勇敢だということもない。しかし彼女は時間の核心に行き着いた。それはなぜか。

モモは浮浪児だ。どこから来たのかも、何歳なのかもわからない。その点で彼女は完全にシステムの外側にいる。だからこそ、周りの人間はモモに救われる。モモは喧嘩や悩みを解決するだけではなく、よく遊ぶために大切な存在だ。傾聴に徹するカウンセラーのようにモモは何をするわけでもなく、その場にいることが大切なのだ。
モモは時間を使うとき、合理性や効率などを考えていない。モモは熟考するベッポや物語を語るジジと仲がいい。彼らといる時間が無駄だとは一切考えない。そしてこれこそが時間の本質を捉えた過ごし方なのだ。

けれど、時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです。(ミヒャエル・エンデ (1973)大島かおり(訳)『モモ』(1976)岩波書店,p95)

モモはシステムの外側にいることで、時間の核心にたどり着いた。そして人々を救うために戦い、世界に時間=生活を取り戻してみせた。しかしモモのような戦いをシステムにどっぷり浸かる私たちにできるだろうか。最後にひとつ『モモ』を読んでいて思い出したことがある。これが現代人におけるシステムとの折り合いのつけ方のヒントになるかもしれない。

フードコート授乳問題と東浩紀

だいぶ前の話であるが2017年1月11日の朝日新聞に「授乳室があるのにフードコートで授乳している人がいて迷惑だ」という投書がありツイッターで話題を呼んでいた。確かに、公の場で授乳することにイヤだという人はいるのかもしれない。そしてイヤだと言う事も制限はできない。現代ではイヤだという言葉は拡散されて私たちにまで届く。まるで私たちの総意であるかのように。

これに対し批評家の東浩紀ツイッター上で「イヤな人がイヤだというのは勝手だが、それを無視するのも勝手だ。」と発言した。これは母親を擁護するありきたりな発言であるように見える。しかし、考えてみるとかなり鋭い指摘であるのではないだろうか。

ここで重要なのは東が、子育ての大変さについての「思いやり」などに言及しないことだ。もちろん東は「思いやり」で済ますことが「正しい」問題だとわかっているはずだ。しかし「投書した人もこれから結婚して子どもを生んだらわかる」などとは言わない。恐らく感覚的に、そんなことでは解決できないことに気がついている。思いやりすらもシステムが担う時代になっている。それは一見、便利なようでいて私たちから思いやりの想像力を奪うのだ。

フードコートに授乳室があるのは私たちの優しさからではない、システムとしてあるのだ。そしてシステムからはみ出た人間に、システムに生かされる人間は怒りを覚える。この時に私たちは想像力が働かなくなる。

そこで東は無視してもいいのだと言う。つまり、システムから聞こえる声を聞かないという選択を勧めるのだ。相手を変えようとするという意見に対し、あなたが間違っていると返すのではない。柔らかく言えば「そういう意見もあるよね」と受け流すのである。

 エンデとポストモダン

ミヒャエル・エンデは『モモ』のあとがきで、この物語が「将来起こること」であることを匂わせている。エンデは『モモ』を1973年に著した。これはポストモダンと言われる時代の少し前にあたる。しかし『モモ』は「システムによって生きる」から「システムによって生かされる」ように切り替わるポストモダンの世界を巧みに描き出している。

その解決は児童文学らしく夢に溢れているが、扱う問題が私たちに馴染み深いだけに考えさせられてしまう。便利さと生きにくさが加速するシステムのなかにあって想像力を持ち続けられるか。それを考える「時間」くらいは盗まれずにもっておきたいものだ。

 

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 
承認をめぐる病 (ちくま文庫 さ 29-8)

承認をめぐる病 (ちくま文庫 さ 29-8)

 
ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

『十二人の怒れる男』映画批評「スキーマの見せる「客観的」世界について」

映画『十二人の怒れる男』批評

今回は不朽の名作『十二人の怒れる男』の批評を。私が同じ本ばかり引用に使うのは、それだけしか読んでいないわけではなく(確かにそれほど読んでいるわけではないが)、その本への理解をより深めるためなのだと断っておく。 

この映画の面白さは、ひとつの部屋の中で物語が展開するシンプルさ、相手の考えをオセロのようにひっくり返す痛快さだけにあるのではない。私たちがそれとは知らずに縛られている自分の世界認識は、私たちに「それなりの正確性」しかもたらし得ないという感覚的な真実性がこの物語にさらなる面白さを付与している。

私は、この映画を考察するキーワードとしてスキーマ、それに関わる知覚的防衛、そして投影を挙げたいと考える。

偏見とスキーマ

被告人はスラム育ちの少年で、罪状は「父親殺し」の第1級殺人、それに対する犯行の目撃者、逃走の目撃者がいるという状況で、その裁判の陪審員を務めるとはどのような状況であるだろうか。陪審員の12人は様々な階級、民族から構成される大人たちだが、彼らの多くはスラム育ちの人間を人間だとは考えていない。

私はその姿に、ある種、滑稽であるくらいの偏見を感じ取った。しかし私たちは彼らの偏見を笑っていてよいのだろうか。私たちは自身の持つ偏見に、気がつくことができるだろうか。気がついているならば、そんな偏見をまず持たないのではないか。

恐らく、ハンナ・アーレントが、アイヒマンの中に「凡庸な悪」を発見することは、現代に生きる日本人が「凡庸な悪」を発見することよりもはるかに難しいことだっただろう。それは彼女がヒトラーの時代を生きるユダヤ人であったからだ。

私は、アイヒマンに対する一般のユダヤ人の当事者が持っていた憎しみを偏見だというのではない。そうではなくて、当事者にしか見えていない世界でしか語りえぬこともある、ということである。私たちはヒトラーが絶対悪であることや、その行いがもたらした悲劇について知っているが、その当事者ではない。今を生きる私の持つ「アウシュビッツスキーマは、当時のユダヤ人の「アウシュビッツスキーマと同一ではない。

陥りがちな罠

アウシュビッツ」や「スラム」が私にとって俯瞰可能である事象、つまり知識としての「アウシュビッツ」や「スラム」である限り、アーレントに同意することや、一人だけ少年の無罪を唱える陪審員に肩入れすることは容易である。しかしここには大きな落とし穴がある。それはアーレントに同意する知性や、『十二人の怒れる男』で描かれるスラムに対する偏見に憤慨することができる能力は、私たちをスキーマから解放することを意味しない、ということである。

つまり私が今、何かについて、自己のスキーマを通して非合理的な決断を下そうとしていても、私はそこに潜む非合理性に気づかないばかりか、(私がその非合理性を笑った)11人の有罪を求めた陪審員に私の非合理性を笑われる可能性がある、ということだ。私が見る世界は、それがまぎれもない事実であるという現実感を纏っているが、スキーマを通じて歪んでいる。

「エポケー」現実を疑うということ

普通、スキーマは、私たちにそれなりの正確性で世界を見せている。私たちはすれ違いざまに人に刺されることや、寝ている間に親に首を絞められることなどを想像しない。そしてそれは経験的に正しい。しかしスキーマを通して見える世界は、完全なる真実ではない。

いついかなる時も先に書いたような想像に囚われている者は狂気の次元にいる。重要なのは、どのタイミングで自らのスキーマを、つまりは現実を疑うかだ。無罪を唱える陪審員は「この裁判」がそのタイミングであると考えた。彼は、スラムの少年の無実を信じていたわけではない。弁護士すらも十分に戦わぬままに(たとえ少年が父親殺しをしていたとしても)少年を死刑にすることに対して、ためらったのである。

「記号が何ものをも意味しないでただそこにある」とき、その決定不能のものを前に、判断中止をしている「私」を維持すること、それこそすぐれて人間的な能力であり、それこそが人間の人間性を基礎付ける、ラカンはそう考える。(内田樹(2004)『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』文春文庫p.126)

これは、フッサールの「現象的判断中止(エポケー)」によって「客観的世界をかっこに入れる」という文脈で登場した言葉である。私には、無罪を唱える陪審員は判断中止を行うことで、他の11人と違う、もう一つ次数の高い思考の準位に到達しているように見える。(彼はこのことによって物語の主人公になった。)彼の判断停止を駆動したのは、少年の有罪を反射的に決定することへの「なんかおかしい」という身体感覚である。

スキーマによる世界の安定

無罪を唱える陪審員一人の判断停止によって、11対1の状況から6対6、3対9と無罪だと考える陪審員は増えていく。しかし、粘り強く有罪を唱える者がいる。その者たちに共通することは、私たちから見ると偏見に過ぎない、自分の客観的世界に固執するということだ。自分のスキーマを守ることで、世界の安定を維持しようとするのだ。これを知覚的防衛という。これが、スキーマの多くが人生の初期段階に形成され、その後それが精緻化され続ける理由のひとつであろう。

人は自分自身や世界に対して安定した認知を持ち、それを維持したいと望んでいる。したがって自らのスキーマがもはや現実と合わない不正確で歪曲されたものになってしまっても、認知的一貫性を保つために、自分のスキーマを通して物事を解釈するのである。(ジェフリー・E・ヤング,ジャネット・S・クロスコ,マジョリエ・E・ウェイシャー(2003)伊藤絵美(監訳)『スキーマ療法パーソナリティ問題に対する統合的認知行動療法アプローチ』(2008)金剛出版,p.21)

私がこの引用文から連想するのはBPDにおけるスプリッティングである。BPDの患者は「理想化―こきおろし」によって相手を暴力的に理解する。そこには判断停止などはなく、相手はスキーマを通じて「完全に理解」されている。しかし、それは現実とは合わない不正確で歪曲されたものなのである。

客観的世界はあくまで自己の世界である

有罪だと言い張る最後の男は、自らの息子を被告人に投影している。それにより男は物語内で何度も自己の意見の矛盾を(コミカルに)露呈してしまうにも関わらず、有罪だとして譲らない。息子が家を飛び出すというある種トラウマ的な経験が、彼のスキーマを武装しているのだ。最終的には、彼は完全に追い詰められ、息子との写真を何度も破く。この行為は他の11人への投影の暴露であり、ここで彼は無罪に主張を変える。

そのため、彼が無罪だと意見を変えた後の様子は、悲しげであるが、どこか観ている者に暖かさを感じさせる。それはいつか彼の息子が彼の元に戻るとき、彼がそれを受け入れることがありありと想像できるからである。

私たちは「客観的に考えて」や「普通に考えたら」といった言葉に続けて意見を言うことがある。しかし「客観的」や「普通」という、私が想像する他我は結局、私の内的世界のものに他ならない。私の「あの女の子はやめておけ」という忠告が全く意味を持たないのは、私と友人が見ている「客観的」世界が違うからなのである。

十二人の怒れる男』はそこに風穴を開ける作品である。内的世界から外へのアクセスの物語であるのだ。この映画を観て、「当時のスラムへの偏見に対する知識」以上の意味を汲み出すには、「私」の目の前をスキーマが覆い隠すようにして、「私」の世界が成り立っていることに気がつくことだ。「客観的」世界に篭っていてはいけない。

 

他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)

他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)

 
スキーマ療法―パーソナリティの問題に対する統合的認知行動療法アプローチ

スキーマ療法―パーソナリティの問題に対する統合的認知行動療法アプローチ

 

『カッコーの巣の上で』映画批評「わかるかどうかは重要であるのか」

最近の松本人志のツイートから

今回は『カッコーの巣の上で』の批評である。この批評は最近の松本人志のツイートとも関連していると言える。私は彼の笑いが好きだが、ワイドナショーなどをみていると彼の発言の全てに同意できるわけではない。しかし以下のツイートは私の心に刺さった。

聴覚障害の人に握手を求められた。マスク着けたまま ありがとうって言ってしまった。
オレあほやな。

松本人志Twitter(matsu_bouzu)21:26 - 2017年4月7日

それでは映画批評に移っていこう。

 映画 『カッコーの巣の上で』批評

言葉が聞き取れない相手には、言葉がけは意味を持たないだろうか。新たな状況に投げ込まれるとパニックを起こす人間は、好奇心を満たす必要はないのだろうか。この映画は治療者-患者関係の強すぎる非対称性が残る時代の精神病院を描いた映画だ。刑務所から逃れるためにやってきたマクマーフィが、精神病院の息苦しさに耐えかねて変革を起こそうとしていく。映画を観ている私たちには、最初は卑怯で横暴に見えるマクマーフィが、精神病院の問題点を暴いていく中で、だんだんと人間味あふれる主人公に見えてくる。

マクマーフィは何の理由もなく薬を飲まされること、会話に支障があるくらいに大きく流れる音楽、国民的関心事である野球のワールドシリーズを見られないことなどに次々と噛み付いていく。現在ではインフォームド・コンセントの観点から、薬を何の説明もなく飲まされるということはありえない。この点ではマクマーフィは医療の進歩に必要な発言をしている。しかし、説明を求めることは看護婦長ラチェッドからすれば言うことを聞かない患者というだけのことで、それならば「他の方法で」投薬することになるだけである。

予期不能性をカットする婦長

病院の職員は基本的に、患者に判を押したように同じ毎日を送らせようとしている。滞りなく毎日が進むのならば、それでよいのであり、患者が要求したことであってもそこにルーティーンを崩す要素があれば容赦なく切り捨ててゆく。ワールドシリーズを頑なに見せない婦長の姿は子どもじみているように思える。しかしそれは、ワールドシリーズを見せることで予想外の事件が起こる可能性を予期しているからである。

ワールドシリーズがマクマーフィたちに起こす興奮は他の患者の、興奮や不安を煽るかもしれないのだ。婦長は恐らくこの予期不能性をカットするために必死なのである。しかし、治療者―患者関係を人間関係として考えた場合に予期不能なことが入り込まないということがあり得るだろうか。婦長にとってはすべてが想像通りの人間関係でいいのだが、患者にとってはそれ自体が生活の全てなのだ。生活のすべてが想像通りということは(それをつまらないと感じる能力がないとされていても)理想的ではない。ましてや、つまらないという意見が出ていては無視していいはずがないのである。

これは、小学校の学級担任にもよく起こることである。子どもが何を考え、何をするのかその全てを把握しなければ気がすまないという教員がいる。全て把握することは、どのようにコミュニケーションを図ろうと、観察しようと通常はできない。それを実現する唯一の方法は、相手に考える隙をなくすこと、また考えていることを表現させないことだ。そのために教員の知的・肉体的リソースが全て注ぎ込まれるのである。そこに起こるのは人間関係ではなく、主従関係である。このようなクラスでは担任が変わると、おとなしかったそのクラスが急変して学級崩壊を起こしたりする。新たな担任が悪いのではない、人間関係とは違い主従関係は、積み重ねることで研鑽され引き継がれるということがないのである。

コミュニケーションを欠いた精神病院

チーフという耳の聞こえない(とされている)患者がいる。マクマーフィはバスケットしたさからチーフに言葉を交えて教えようとする。そこで病院職員は「無駄だよ、チーフは耳が聞こえていない」ということを平然と言う。耳が聞こえているのに聞こえない振りをしていたチーフは患者とは言えないのかもしれない。しかし、考え方を変えてみれば、耳が聞こえないと言う理由で、職員たちがコミュニケーションを断念していたからこそ嘘を突き通せたのである。彼は耳が聞こえないという嘘をつくことで罪悪感は抱かなかったはずである。彼にはマクマーフィが現れるまで、それだけの人間関係が存在しなかったからである。

ビリーという患者がいる。婦長は彼の母親と友人であるらしく、ことあるごとに彼の意見を母親の名において潰している。ビリーは、マクマーフィの計らいでクリスマスの夜に「男になる」。そして次の朝、婦長に対する弁明で彼の特徴的な吃音は現れなかった。しかし、その弁明を反抗的だと見た婦長の「お母さんが聞くとどう思うかしら」という一言でビリーはまた吃音に戻り、母には言わないよう懇願する。ビリーは職員に連れられその場から消えるが、その後落ちていたガラス片で自らを切りつけ自殺する。

婦長は自らがコミュニケーションをめざしていないということ自体に気がついていないように思われる。彼女は、日課をスムーズに進行させるだけで精一杯なのだ。グループセラピーを開くことも日課の一つである。しかしそこでも、彼女は主従関係を用い、患者の言いたくないことでも言わせようとする。彼女は、患者の考えていることを把握し、患者に何かをさせることで解決しようとしている。そしてそれをコミュニケーションだと考えている。

沈黙によるコミュニケーション

現代のグループセラピーで言いたくないことを「パスできる」というのは、不安を煽ることを避けるためだけではないように思われる。パスすることそれ自体がコミュニケーションなのだ。沈黙は意味を持つ、それを許さないということはある意味で、沈黙によるコミュニケーションを拒絶している。コミュニケーションにおいて重要なのはその内容ではない。

対話を開始するときに、私は「あなたが何を知らず、何を知りたがっているか」を知らないし、あなたは「私が何を知らず、何を知りたがっているか」を知らない。しかしそんなことは対話の進行を少しも妨げない。なぜなら、対話は「あなたが語りつつあること」を「それこそ、私がまさに聞きたかったこと」であるというふうに体系的に「誤解」しながら進行するものだからである。(内田樹(2004)『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』文春文庫p.62-63)

コミュニケーションは、私が聞きたいことを聞くというのではなく、「あなた」の語ること(或いは語らないこと)をそれこそ私が聞きたかったことだとして進行する。コミュニケーションの本質は「めざす」ことにある。

マクマーフィはビリーの弁明に対する、婦長の対応に、悲しさと侮蔑が交じり合ったような表情で見つめている。婦長がビリーとのコミュニケーションを遮断していることに彼は気がついている。婦長はビリーから聞きたいことしか聞きたくないのだということを悟るのだ。そして、ビリーの自殺後、婦長の首を怒りのあまり絞めあげるのである。

職場に適応することの罠

病院職員たちは無限に続くコミュニケーションの挫折の経験によって、患者とのコミュニケーションなど無意味であるとして切り捨ててしまったのだろう。専門家こそが真理を見誤るのだ。これは恐ろしいことである。通常のコミュニケーションとは異なるものであれ、コミュニケーションは起こっている。しかし、経験こそが職員の患者スキーマをいびつなものにしていくのである。これは職員にとっては適応的だからこそ起こる。患者とのコミュニケーションを無意味なものと捉えれば(つまり患者は物と同じであると捉えれば)、考えることや気にすることが減り、仕事が楽なものになるのである。

しかし、当たり前だがこれは本末転倒なことである。患者のために必要な施設が、患者のことを考えていないことになってしまうからだ。私たちはこの「慣れ」に抗っていかなければならない。映画内の病院の職員のすべての対応は、患者のために行われており、それは真実であるのだろう。しかし、定期的にシステムを点検していかなければ、初期のマクマーフィのように、外部の人間からすればありえないことが平気で行われる環境になってしまうのである。

現在でもアクチュアルな『カッコーの巣の上で

カッコーの巣の上で』は1975年製作の映画であることから(原作小説は1962年発表)、今を生きる私たちには当時の精神病院の問題点が見えやすくなっている。しかし現在でも、相模原障害者施設殺傷事件のように、進みすぎた経済原理によって、障害者の生きる意味を建前としてしか受け取れなくなる、というように形を変えて起こりうるのではないか。

この映画のラストでは、マクマーフィは婦長を殺そうとしたために、恐らくはロボトミー手術を受けさせられている。何も考えられなくなったマクマーフィを見てチーフは悲しみに暮れ、いままでの彼の尊厳を保つために枕で窒息死させる。チーフはその後、マクマーフィの持ち上げられなかった水道の装置を持ち上げ、鉄格子と窓を突き破り、森の中に消えていく。その姿は今後の精神病院の変革を予感させるものである。マクマーフィの成し遂げられなかった変革の思いをチーフが果たすのである。

 

カッコーの巣の上で [DVD]

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他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)

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文藝芸人 (文春ムック)

文藝芸人 (文春ムック)

 

『潜水服は蝶の夢を見る』映画批評「コミュニケーションの極限から」

潜水服は蝶の夢を見る』映画批評

今回は映画批評のようなものを。取り上げる映画は『潜水服は蝶の夢を見る』だ。

主人公ジャン=ドーはパリのファッション誌『ELLE』の編集長であったが、脳梗塞によって左目の瞳と瞼しか動かせなくなってしまった。右目は閉じなくなってしまったため縫いつけられ、左目の視覚と聴覚、そして「想像力」以外は全て麻痺してしまう。彼の物語がただ暗いものにならないのは、彼自身のユーモアと、周りの人間が彼へのコミュニケーションを「めざす」ことによってである。

ジャン=ドーは言語療法士の作った使用頻度順のアルファベットを読み上げる方法に沿い、瞬きをすることでコミュニケーションを取れるようになる。彼は最初これを面倒だと言ってはねつけてしまうのだが、言語療法士が本気で自分に向き合っていることを知り、彼はその後、この方法を用いて著作の執筆に取り掛かるまで上達を遂げるのである。

コミュニケーションの極限

面白いのは、この言語療法士の方法を拒絶し、受け入れるまでにジャン=ドーと言語療法士の間には既に(言語療法士が涙するほどの)コミュニケーションが起こっていることである。私たちがコミュニケーションというときに思い浮かべるのは、やはり言葉のやり取りである。もしくは、言葉使わなくとも表情やしぐさ、間を用いてコミュニケーションを取ることができるだろう。しかし、その全てがジャン=ドーにはできない。

まさにこの状況はコミュニケーションの極限であるだろう。私たちはメールやSNSで文字のみでコミュニケーションを取ることがある。これは一見文字だけのコミュニケーションであるように見えるが意識せずとも、相手がどのような感情で言っているかを普段の会話から推察している。しかし、ジャン=ドーがどのような感情なのかを言語療法士は本当の意味で文字、またはコミュニケーションの拒絶という形でしか読み取れない。

言語療法士は元『ELLE』の編集長という情報以外には、ジャン=ドーのことを知らなかったのである。しかし、文字、またはコミュニケーションの拒絶というコミュニケーションの極限においてもコミュニケーションは可能であることをこの物語は序盤から示しているのだ。言語療法士とジャン=ドーのコミュニケーションは食い違うことがある。しかし、それは彼らのコミュニケーションを妨げるものにはならない。

コミュニケーションの「至らなさ」とラカン

例えば、こんなシーンがある。電話を病室に置くために工事業者がやってくる。そこでブラックジョーク(電話なんて必要ないだろ?無言電話をかけるんだろ)を業者が言うのだが、それに対し言語療法士は、ジャン=ドーのために怒る。しかし当のジャン=ドーはそのジョークに(脳内で)爆笑して、言語療法士に対して「こいつはジョークがわからないのか」というように思っているシーンがある。この思い違いは、言語療法士がジャン=ドーのことを思いやっており、それをジャン=ドーもわかっているという、その一点にのみ支えられて問題にはならない。

私が皆さんに理解できないような仕方でお話しする場面があるのは、わざととは言いませんが、実は明白な意図があるのです。この誤解の幅によってこそ、皆さんは、私の言っていることについていけると思うと書くことができるのです。つまり皆さんは不確かであいまいな位置にとどまっておられるのです。そしてそれがかえって訂正への道の扉を常に開いておいてくれるのです。

ことばをかえれば、私がもし、簡単に解ってもらえるような仕方で、話をすすめたら、対話的ディスクールに関する私の前提そのものからしても、誤解はどうしようもないものになってしまうでしょう。(ジャック・ラカン(1955-1956) 小出浩之他訳『精神病〔下〕』(1987)岩波書店p.9)

思い違いが問題にならないのは、言語療法士とジャン=ドーのコミュニケーションのなかに、ラカンと読者のような関係性が立ち上がっているからだと私は考える。言語療法士は、編み出した独自の方法でしか、ジャン=ドーとのコミュニケーションが取れない。それは彼女にいつもコミュニケーションの「至らなさ」を感じさせるものだっただろう。ならば言語療法士はジャン=ドーの伝える文字だけでは伝わりきらないことについて、解釈せざるを得ない。そして「至らなさ」を補う解釈は、彼女の中で「不確かであいまいな」位置にある。

だからこそ、誤解をしていても、その誤解はコミュニケーションに致命的なものにならない。言語療法士の至らなさは誤解の可能性を予期している。だからこそ、彼女のブラックジョークへの怒りは、ジャン=ドーの代弁にはならない。代弁などできないと彼女は知っているからである。だからジャン=ドーは訂正しない。自らの代弁として言語療法士が怒っているのであれば、その齟齬についてジャン=ドーも怒るはずなのである。

ラカンが嫌ったのは、この種の齟齬である。ラカンはこう考えている、と読者が「完璧に理解した」と思っているものを読者は訂正できない。だからこそ、ラカンは最初から「完璧に理解した」などと、読者には思わせないような文体を用いて語るのである。その形を取れば、読者にとって誤解は致命的なものにならず済むのである。

極限で残るのは、めざしている「方向」

コミュニケーションの極限において、なおそこに残るものは何であるのだろうか。正確に自分の考えていることを伝えるのでもなく、相手のことを正確に読み取るのでもない。そのような極限で見出される関係には、「あなた」に「伝えようとしていること」と、「あなた」から「聞き取ろうとしていること」ということだけが残る。コミュニケーションの極限で削ぎ落とされ、なお残るものはめざしている「方向」である。そしてその方向こそが、唯一自分から抜け出し、外部に触れうる道なのである。

潜水服に閉じ込められたジャン=ドーは想像力で蝶になることができた。しかしそれは私たちにとって他人事ではない。私たちもまた、客観的世界という自らの作り出した世界に縛られている。そして、私たちは言葉にニュアンスを込めることができることで、また豊かな表情を持つことで、しばしばコミュニケーションにおける誤解は致命的なものになる。

潜水服に閉じ込められないために

私たちは言葉やニュアンスを操ることで、文字としては同じでも意味が逆になるというようなことを知っている。しかし意味を取るのは、聞いている「私」の独断である。そしてそこに起こる誤解について、私たちは訂正できない。「そんなつもりで言ったんじゃない」という言葉では、相手の傷ついた心を癒やすことはできない。

これはラカンで言うところの「誤解はどうしようもないものになって」しまったということであるのだろう。会話においては常に、言わんとしていることよりも、言われたことのほうが意味は多くなる。だからこそ、経験に照らし合わせて聞く側は解釈しなければならない。その解釈は、聞いている「私」にしかできないものであるが、言わんとしていることと完璧には合致することはない。

ジャン=ドーは身をもって「誤解」を体感する。閉じない右目を閉じるための手術や、点滴の係が消してしまうテレビは行為者としては良かれと思い行っている(もしくはそうせざるを得ない)。しかし、ジャン=ドー自身からすればその一つひとつに思うところがあり、そのことは伝わらないのだ。しかしまた彼が証明したように、コミュニケーションの本質は「方向性」にある。「あなた」が言わんとしていることを、「私」が聞き取ろうとすること、そして聞き取ったことは「私」が解釈した不確かなものであること。そのことを「私」は忘れてはいけない。でなければ、私たちは気づかぬままに潜水服に閉じ込められることになるのである。

対話を開始するときに、私は「あなたが何を知らず、何を知りたがっているか」を知らないし、あなたは「私が何を知らず、何を知りたがっているか」を知らない。しかしそんなことは対話の進行を少しも妨げない。なぜなら、対話は「あなたが語りつつあること」を「それこそ、私がまさに聞きたかったこと」であるというふうに体系的に「誤解」しながら進行するものだからである。(内田樹(2004)『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』文春文庫p.62-63)

 

他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)

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ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

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『紙の本は、滅びない』書評「紙の本と内田樹」

『紙の本は、滅びない』書評

『紙の本は、滅びない』というタイトルは私を惹きつけた。そのタイトルの中に、文字になっていなくとも電子書籍の脅威が見える。また、紙の本の絶滅可能性について人一倍考えているからこそ出てくるタイトルであり、どちらの側に肩入れしているかが瞬時にわかるからだ。ここでは、この本の著者である福嶋聡と、私に紙の本の特異性を思い知らせた内田樹、そして拙くも私の、本への「思い入れ」から紙の本の存続の可能性について考えていきたい。

「「いのち」とは、限りあるものである。本が「いのち」を持つのは、それがいつか無に帰する定めにある「モノ」だからである。」(『紙の本は、滅びない』34ページ)

この言葉に私は深く同意する。これは「動物占い」や「インド数学」など一時期ブームになったジャンルがあり、書店では死んでいくものであったが、電子書籍の世界では生き続ける、その不自然さを糾弾するものだ。確かに時代の流れの中で廃れていく本、ジャンルがあることは自明であるだろう。

内田樹の本の「いのち」観

しかし、本の「いのち」とは時代の流れの中にのみあるのだろうか。本は根本的に「モノ」とはその本質を異にするのではないか。内田樹は言う。

「「一冊の書物」の「意味」は、それを「読む」ことにおいて生成する。書物の意味は、読む人がそこに新しい意味を見出す限り、決して汲み尽くすことができない。」(『レヴィナスと愛の現象学』152ページ)

これは内田が、本の「いのち」は「読まれる」ことで起動すると考えていると言えるだろう。

本に対する愛が溢れる二人であるが、決定的に本の「いのち」観が違う。福嶋が想定する本の「いのち」は、不特定多数の読者(購入者)と本の間の「いのち」であるが、内田は一人の読者に本が読まれることに「いのち」があると考えている。『街場のメディア論』で内田は、読者が一人でもいる本にはアクセス可能であるべきで、紙の本では出版と在庫の関係上無視されてしまった読者にまで、電子書籍は配慮できる可能性があるとしている。

私がここで考えるのは、「動物占い」や「インド数学」は電子書籍の世界で、福島の言うような、永遠の「いのち」は得られないだろうということだ。読み手がいない文字の羅列はそのままで「いのち」と呼べるものではない。一方で、絶版になり、アクセスが難しくなり、『紙の本は、滅びない』に登場する「せどり屋」が高値で取引するような本は、市場の原理により「殺された」のであって読み手が存在する可能性がある。その読み手に、電子書籍という形であれ本が(せどり屋とは違い少なくとも定価で)渡ればその「いのち」は煌々と燃えだすのではないだろうか。

紙の本の特異性

しかし確かに、紙の本には特異性がある。内田の『レヴィナスと愛の現象学』は私にとってそれを教えてくれた本と言える。私はこの本を高校三年生の冬に買ったのだが、当時の私には難しく、途中で投げ出してしまっていた。それから大学に入っても、ずっとこの本は書棚で背表紙だけが見える状態であった。

「僕たちは書棚に「いつか読もうと思っている本」を並べ、家に来る人たちに向かって、いや誰よりも自分自身に向かって「これらの本を読破した私」を詐称的に開示しています。」(『街場のメディア論』155ページ)

内田の言い方ではこのようになるだろう。このとき本は「モノ」としてその役割を負っている。

最近になって、この本をふと書棚から取り出して読んでみるとすらすら読めた。これは内田の他の本を何冊も読むことによって、内田がどのように思考しているかの手がかりが掴めていたということもあったと思われる。しかし、その面白さが並みのものではない。それから読み終えるまで、信号待ちなどほんの些細な空き時間にも読んでしまいたいような衝動に駆られた。

それは他のどの内田の本にも勝る「こんな本が自分の書棚にあったとは思いもよらない」ような読書体験だった。このとき私は、本の意味が開示されるということは、書棚にあった「モノ」としての本とは、まるで別物になることがあると学んだ。

リアル書店における偶然の出会い

紙の本と電子書籍との間には大きな違いがある。それは紙の本が、やはり「モノ」でもあるということだ。福嶋はリアル書店の持つ、偶然の出会いに対してネット書店への優位性を説いている。私たちは今や、読みたい本・読まなければならない本に関してはアマゾンなどですぐに購入する術を持っている。しかし、読んだ後面白いと思える本・豊かになれる本に関しては全く分からないのだ。それは予想外の出来事であるはずであり、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」というような、「やっぱり」や「結局」の語法で語れるものではないのである。

本の意味は読まれるまで開示されない。しかし、その装丁が、背表紙が私たちに迫りくることがある。それは御茶ノ水三省堂において哲学のコーナーに足を踏み入れるときに感じる「底知れなさ」であり、そこに発生する、レヴィナスドゥルーズを「誰それ?」と言わせない無言の圧力であるだろう。リアル書店には「モノ」の強さがある。

「モノ」と「意味」の往来

「モノ」と「意味の開示」の間を紙の本が行き来することに、偶然の出会いがあるのではないかと私は考える。なぜならば、書棚での「モノ」としての本と、読むことで「開示された」意味が全く同じであるということはありえないからだ。書店において本は、「モノ」としてそこにある。それを私たちは(少しは書店で読むにしろ)「モノ」として購入する。その後になって、読むことで初めて「意味の開示」が起こる。私の例では丸3年が経っていたように、買った本の意味の開示はいつになっても構わないのだ。この「モノ」と「意味の開示」の時差が、電子書籍ではたして起こるだろうか?

「『多崎つくる』が電子書籍として流通し、配本不足や売り切れの心配がまったくなかったとしたら、即ちその気になればいつでも入手できるとしたら、発売3日で30万部がほぼ売り切れ、1週間で100万部を刷らねばならないような事態が発生しただろうか?」(『紙の本は、滅びない』85ページ)

即時的かつ永続的に購入可能な電子書籍を、スマホタブレットのアプリの本棚にしか存在しないものを、私たちは「モノ」として欲しくはならないだろう。希少価値がない上に、手触りのある「モノ」ではないからである。

こうして電子書籍では必然的に、その本からどんな意味が開示されるかが「モノ」に先行して考慮される。どのような内容なのか、私が好きな内容かということが購入の決め手になる。それは「やっぱり」や「結局」の語法であり、偶然の出会いというよりも、自分が求めていると「わかっている」ものとの出会いである。そこには想像を超えるものが入り込む隙がない。

紙の本は「モノ」としての存在と「開示される意味」が解離したものであるために、想像を超える可能性を秘めている。だからこそ、紙の本は「モノを超えたモノ」なのである。書店は紙の本を取り扱い、「モノ」としての魅力を引き出し「偶然の出会い」に私たちを巻き込む。私たちは読むことによって「モノ」から意味を引き出し、想像を超える面白さを味わう。そして、読み終えると自分の書棚に収める。そこにある本は確かに読む前と同じ「モノ」なのだが、見え方が全く変わっている。この一連の運動が続く限り、紙の本は滅びないのだ。

 

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

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街場のメディア論 (光文社新書)

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紙の本は、滅びない (ポプラ新書 018)

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