リロノウネリ

心理学徒によるサブカルチャーから哲学まで全てにおいて読み違える試み

『十二人の怒れる男』映画批評「スキーマの見せる「客観的」世界について」

映画『十二人の怒れる男』批評

今回は不朽の名作『十二人の怒れる男』の批評を。私が同じ本ばかり引用に使うのは、それだけしか読んでいないわけではなく(確かにそれほど読んでいるわけではないが)、その本への理解をより深めるためなのだと断っておく。 

この映画の面白さは、ひとつの部屋の中で物語が展開するシンプルさ、相手の考えをオセロのようにひっくり返す痛快さだけにあるのではない。私たちがそれとは知らずに縛られている自分の世界認識は、私たちに「それなりの正確性」しかもたらし得ないという感覚的な真実性がこの物語にさらなる面白さを付与している。

私は、この映画を考察するキーワードとしてスキーマ、それに関わる知覚的防衛、そして投影を挙げたいと考える。

偏見とスキーマ

被告人はスラム育ちの少年で、罪状は「父親殺し」の第1級殺人、それに対する犯行の目撃者、逃走の目撃者がいるという状況で、その裁判の陪審員を務めるとはどのような状況であるだろうか。陪審員の12人は様々な階級、民族から構成される大人たちだが、彼らの多くはスラム育ちの人間を人間だとは考えていない。

私はその姿に、ある種、滑稽であるくらいの偏見を感じ取った。しかし私たちは彼らの偏見を笑っていてよいのだろうか。私たちは自身の持つ偏見に、気がつくことができるだろうか。気がついているならば、そんな偏見をまず持たないのではないか。

恐らく、ハンナ・アーレントが、アイヒマンの中に「凡庸な悪」を発見することは、現代に生きる日本人が「凡庸な悪」を発見することよりもはるかに難しいことだっただろう。それは彼女がヒトラーの時代を生きるユダヤ人であったからだ。

私は、アイヒマンに対する一般のユダヤ人の当事者が持っていた憎しみを偏見だというのではない。そうではなくて、当事者にしか見えていない世界でしか語りえぬこともある、ということである。私たちはヒトラーが絶対悪であることや、その行いがもたらした悲劇について知っているが、その当事者ではない。今を生きる私の持つ「アウシュビッツスキーマは、当時のユダヤ人の「アウシュビッツスキーマと同一ではない。

陥りがちな罠

アウシュビッツ」や「スラム」が私にとって俯瞰可能である事象、つまり知識としての「アウシュビッツ」や「スラム」である限り、アーレントに同意することや、一人だけ少年の無罪を唱える陪審員に肩入れすることは容易である。しかしここには大きな落とし穴がある。それはアーレントに同意する知性や、『十二人の怒れる男』で描かれるスラムに対する偏見に憤慨することができる能力は、私たちをスキーマから解放することを意味しない、ということである。

つまり私が今、何かについて、自己のスキーマを通して非合理的な決断を下そうとしていても、私はそこに潜む非合理性に気づかないばかりか、(私がその非合理性を笑った)11人の有罪を求めた陪審員に私の非合理性を笑われる可能性がある、ということだ。私が見る世界は、それがまぎれもない事実であるという現実感を纏っているが、スキーマを通じて歪んでいる。

「エポケー」現実を疑うということ

普通、スキーマは、私たちにそれなりの正確性で世界を見せている。私たちはすれ違いざまに人に刺されることや、寝ている間に親に首を絞められることなどを想像しない。そしてそれは経験的に正しい。しかしスキーマを通して見える世界は、完全なる真実ではない。

いついかなる時も先に書いたような想像に囚われている者は狂気の次元にいる。重要なのは、どのタイミングで自らのスキーマを、つまりは現実を疑うかだ。無罪を唱える陪審員は「この裁判」がそのタイミングであると考えた。彼は、スラムの少年の無実を信じていたわけではない。弁護士すらも十分に戦わぬままに(たとえ少年が父親殺しをしていたとしても)少年を死刑にすることに対して、ためらったのである。

「記号が何ものをも意味しないでただそこにある」とき、その決定不能のものを前に、判断中止をしている「私」を維持すること、それこそすぐれて人間的な能力であり、それこそが人間の人間性を基礎付ける、ラカンはそう考える。(内田樹(2004)『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』文春文庫p.126)

これは、フッサールの「現象的判断中止(エポケー)」によって「客観的世界をかっこに入れる」という文脈で登場した言葉である。私には、無罪を唱える陪審員は判断中止を行うことで、他の11人と違う、もう一つ次数の高い思考の準位に到達しているように見える。(彼はこのことによって物語の主人公になった。)彼の判断停止を駆動したのは、少年の有罪を反射的に決定することへの「なんかおかしい」という身体感覚である。

スキーマによる世界の安定

無罪を唱える陪審員一人の判断停止によって、11対1の状況から6対6、3対9と無罪だと考える陪審員は増えていく。しかし、粘り強く有罪を唱える者がいる。その者たちに共通することは、私たちから見ると偏見に過ぎない、自分の客観的世界に固執するということだ。自分のスキーマを守ることで、世界の安定を維持しようとするのだ。これを知覚的防衛という。これが、スキーマの多くが人生の初期段階に形成され、その後それが精緻化され続ける理由のひとつであろう。

人は自分自身や世界に対して安定した認知を持ち、それを維持したいと望んでいる。したがって自らのスキーマがもはや現実と合わない不正確で歪曲されたものになってしまっても、認知的一貫性を保つために、自分のスキーマを通して物事を解釈するのである。(ジェフリー・E・ヤング,ジャネット・S・クロスコ,マジョリエ・E・ウェイシャー(2003)伊藤絵美(監訳)『スキーマ療法パーソナリティ問題に対する統合的認知行動療法アプローチ』(2008)金剛出版,p.21)

私がこの引用文から連想するのはBPDにおけるスプリッティングである。BPDの患者は「理想化―こきおろし」によって相手を暴力的に理解する。そこには判断停止などはなく、相手はスキーマを通じて「完全に理解」されている。しかし、それは現実とは合わない不正確で歪曲されたものなのである。

客観的世界はあくまで自己の世界である

有罪だと言い張る最後の男は、自らの息子を被告人に投影している。それにより男は物語内で何度も自己の意見の矛盾を(コミカルに)露呈してしまうにも関わらず、有罪だとして譲らない。息子が家を飛び出すというある種トラウマ的な経験が、彼のスキーマを武装しているのだ。最終的には、彼は完全に追い詰められ、息子との写真を何度も破く。この行為は他の11人への投影の暴露であり、ここで彼は無罪に主張を変える。

そのため、彼が無罪だと意見を変えた後の様子は、悲しげであるが、どこか観ている者に暖かさを感じさせる。それはいつか彼の息子が彼の元に戻るとき、彼がそれを受け入れることがありありと想像できるからである。

私たちは「客観的に考えて」や「普通に考えたら」といった言葉に続けて意見を言うことがある。しかし「客観的」や「普通」という、私が想像する他我は結局、私の内的世界のものに他ならない。私の「あの女の子はやめておけ」という忠告が全く意味を持たないのは、私と友人が見ている「客観的」世界が違うからなのである。

十二人の怒れる男』はそこに風穴を開ける作品である。内的世界から外へのアクセスの物語であるのだ。この映画を観て、「当時のスラムへの偏見に対する知識」以上の意味を汲み出すには、「私」の目の前をスキーマが覆い隠すようにして、「私」の世界が成り立っていることに気がつくことだ。「客観的」世界に篭っていてはいけない。

 

他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)

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スキーマ療法―パーソナリティの問題に対する統合的認知行動療法アプローチ

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『カッコーの巣の上で』映画批評「わかるかどうかは重要であるのか」

最近の松本人志のツイートから

今回は『カッコーの巣の上で』の批評である。この批評は最近の松本人志のツイートとも関連していると言える。私は彼の笑いが好きだが、ワイドナショーなどをみていると彼の発言の全てに同意できるわけではない。しかし以下のツイートは私の心に刺さった。

聴覚障害の人に握手を求められた。マスク着けたまま ありがとうって言ってしまった。
オレあほやな。

松本人志Twitter(matsu_bouzu)21:26 - 2017年4月7日

それでは映画批評に移っていこう。

 映画 『カッコーの巣の上で』批評

言葉が聞き取れない相手には、言葉がけは意味を持たないだろうか。新たな状況に投げ込まれるとパニックを起こす人間は、好奇心を満たす必要はないのだろうか。この映画は治療者-患者関係の強すぎる非対称性が残る時代の精神病院を描いた映画だ。刑務所から逃れるためにやってきたマクマーフィが、精神病院の息苦しさに耐えかねて変革を起こそうとしていく。映画を観ている私たちには、最初は卑怯で横暴に見えるマクマーフィが、精神病院の問題点を暴いていく中で、だんだんと人間味あふれる主人公に見えてくる。

マクマーフィは何の理由もなく薬を飲まされること、会話に支障があるくらいに大きく流れる音楽、国民的関心事である野球のワールドシリーズを見られないことなどに次々と噛み付いていく。現在ではインフォームド・コンセントの観点から、薬を何の説明もなく飲まされるということはありえない。この点ではマクマーフィは医療の進歩に必要な発言をしている。しかし、説明を求めることは看護婦長ラチェッドからすれば言うことを聞かない患者というだけのことで、それならば「他の方法で」投薬することになるだけである。

予期不能性をカットする婦長

病院の職員は基本的に、患者に判を押したように同じ毎日を送らせようとしている。滞りなく毎日が進むのならば、それでよいのであり、患者が要求したことであってもそこにルーティーンを崩す要素があれば容赦なく切り捨ててゆく。ワールドシリーズを頑なに見せない婦長の姿は子どもじみているように思える。しかしそれは、ワールドシリーズを見せることで予想外の事件が起こる可能性を予期しているからである。

ワールドシリーズがマクマーフィたちに起こす興奮は他の患者の、興奮や不安を煽るかもしれないのだ。婦長は恐らくこの予期不能性をカットするために必死なのである。しかし、治療者―患者関係を人間関係として考えた場合に予期不能なことが入り込まないということがあり得るだろうか。婦長にとってはすべてが想像通りの人間関係でいいのだが、患者にとってはそれ自体が生活の全てなのだ。生活のすべてが想像通りということは(それをつまらないと感じる能力がないとされていても)理想的ではない。ましてや、つまらないという意見が出ていては無視していいはずがないのである。

これは、小学校の学級担任にもよく起こることである。子どもが何を考え、何をするのかその全てを把握しなければ気がすまないという教員がいる。全て把握することは、どのようにコミュニケーションを図ろうと、観察しようと通常はできない。それを実現する唯一の方法は、相手に考える隙をなくすこと、また考えていることを表現させないことだ。そのために教員の知的・肉体的リソースが全て注ぎ込まれるのである。そこに起こるのは人間関係ではなく、主従関係である。このようなクラスでは担任が変わると、おとなしかったそのクラスが急変して学級崩壊を起こしたりする。新たな担任が悪いのではない、人間関係とは違い主従関係は、積み重ねることで研鑽され引き継がれるということがないのである。

コミュニケーションを欠いた精神病院

チーフという耳の聞こえない(とされている)患者がいる。マクマーフィはバスケットしたさからチーフに言葉を交えて教えようとする。そこで病院職員は「無駄だよ、チーフは耳が聞こえていない」ということを平然と言う。耳が聞こえているのに聞こえない振りをしていたチーフは患者とは言えないのかもしれない。しかし、考え方を変えてみれば、耳が聞こえないと言う理由で、職員たちがコミュニケーションを断念していたからこそ嘘を突き通せたのである。彼は耳が聞こえないという嘘をつくことで罪悪感は抱かなかったはずである。彼にはマクマーフィが現れるまで、それだけの人間関係が存在しなかったからである。

ビリーという患者がいる。婦長は彼の母親と友人であるらしく、ことあるごとに彼の意見を母親の名において潰している。ビリーは、マクマーフィの計らいでクリスマスの夜に「男になる」。そして次の朝、婦長に対する弁明で彼の特徴的な吃音は現れなかった。しかし、その弁明を反抗的だと見た婦長の「お母さんが聞くとどう思うかしら」という一言でビリーはまた吃音に戻り、母には言わないよう懇願する。ビリーは職員に連れられその場から消えるが、その後落ちていたガラス片で自らを切りつけ自殺する。

婦長は自らがコミュニケーションをめざしていないということ自体に気がついていないように思われる。彼女は、日課をスムーズに進行させるだけで精一杯なのだ。グループセラピーを開くことも日課の一つである。しかしそこでも、彼女は主従関係を用い、患者の言いたくないことでも言わせようとする。彼女は、患者の考えていることを把握し、患者に何かをさせることで解決しようとしている。そしてそれをコミュニケーションだと考えている。

沈黙によるコミュニケーション

現代のグループセラピーで言いたくないことを「パスできる」というのは、不安を煽ることを避けるためだけではないように思われる。パスすることそれ自体がコミュニケーションなのだ。沈黙は意味を持つ、それを許さないということはある意味で、沈黙によるコミュニケーションを拒絶している。コミュニケーションにおいて重要なのはその内容ではない。

対話を開始するときに、私は「あなたが何を知らず、何を知りたがっているか」を知らないし、あなたは「私が何を知らず、何を知りたがっているか」を知らない。しかしそんなことは対話の進行を少しも妨げない。なぜなら、対話は「あなたが語りつつあること」を「それこそ、私がまさに聞きたかったこと」であるというふうに体系的に「誤解」しながら進行するものだからである。(内田樹(2004)『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』文春文庫p.62-63)

コミュニケーションは、私が聞きたいことを聞くというのではなく、「あなた」の語ること(或いは語らないこと)をそれこそ私が聞きたかったことだとして進行する。コミュニケーションの本質は「めざす」ことにある。

マクマーフィはビリーの弁明に対する、婦長の対応に、悲しさと侮蔑が交じり合ったような表情で見つめている。婦長がビリーとのコミュニケーションを遮断していることに彼は気がついている。婦長はビリーから聞きたいことしか聞きたくないのだということを悟るのだ。そして、ビリーの自殺後、婦長の首を怒りのあまり絞めあげるのである。

職場に適応することの罠

病院職員たちは無限に続くコミュニケーションの挫折の経験によって、患者とのコミュニケーションなど無意味であるとして切り捨ててしまったのだろう。専門家こそが真理を見誤るのだ。これは恐ろしいことである。通常のコミュニケーションとは異なるものであれ、コミュニケーションは起こっている。しかし、経験こそが職員の患者スキーマをいびつなものにしていくのである。これは職員にとっては適応的だからこそ起こる。患者とのコミュニケーションを無意味なものと捉えれば(つまり患者は物と同じであると捉えれば)、考えることや気にすることが減り、仕事が楽なものになるのである。

しかし、当たり前だがこれは本末転倒なことである。患者のために必要な施設が、患者のことを考えていないことになってしまうからだ。私たちはこの「慣れ」に抗っていかなければならない。映画内の病院の職員のすべての対応は、患者のために行われており、それは真実であるのだろう。しかし、定期的にシステムを点検していかなければ、初期のマクマーフィのように、外部の人間からすればありえないことが平気で行われる環境になってしまうのである。

現在でもアクチュアルな『カッコーの巣の上で

カッコーの巣の上で』は1975年製作の映画であることから(原作小説は1962年発表)、今を生きる私たちには当時の精神病院の問題点が見えやすくなっている。しかし現在でも、相模原障害者施設殺傷事件のように、進みすぎた経済原理によって、障害者の生きる意味を建前としてしか受け取れなくなる、というように形を変えて起こりうるのではないか。

この映画のラストでは、マクマーフィは婦長を殺そうとしたために、恐らくはロボトミー手術を受けさせられている。何も考えられなくなったマクマーフィを見てチーフは悲しみに暮れ、いままでの彼の尊厳を保つために枕で窒息死させる。チーフはその後、マクマーフィの持ち上げられなかった水道の装置を持ち上げ、鉄格子と窓を突き破り、森の中に消えていく。その姿は今後の精神病院の変革を予感させるものである。マクマーフィの成し遂げられなかった変革の思いをチーフが果たすのである。

 

カッコーの巣の上で [DVD]

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他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)

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文藝芸人 (文春ムック)

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『潜水服は蝶の夢を見る』映画批評「コミュニケーションの極限から」

潜水服は蝶の夢を見る』映画批評

今回は映画批評のようなものを。取り上げる映画は『潜水服は蝶の夢を見る』だ。

主人公ジャン=ドーはパリのファッション誌『ELLE』の編集長であったが、脳梗塞によって左目の瞳と瞼しか動かせなくなってしまった。右目は閉じなくなってしまったため縫いつけられ、左目の視覚と聴覚、そして「想像力」以外は全て麻痺してしまう。彼の物語がただ暗いものにならないのは、彼自身のユーモアと、周りの人間が彼へのコミュニケーションを「めざす」ことによってである。

ジャン=ドーは言語療法士の作った使用頻度順のアルファベットを読み上げる方法に沿い、瞬きをすることでコミュニケーションを取れるようになる。彼は最初これを面倒だと言ってはねつけてしまうのだが、言語療法士が本気で自分に向き合っていることを知り、彼はその後、この方法を用いて著作の執筆に取り掛かるまで上達を遂げるのである。

コミュニケーションの極限

面白いのは、この言語療法士の方法を拒絶し、受け入れるまでにジャン=ドーと言語療法士の間には既に(言語療法士が涙するほどの)コミュニケーションが起こっていることである。私たちがコミュニケーションというときに思い浮かべるのは、やはり言葉のやり取りである。もしくは、言葉使わなくとも表情やしぐさ、間を用いてコミュニケーションを取ることができるだろう。しかし、その全てがジャン=ドーにはできない。

まさにこの状況はコミュニケーションの極限であるだろう。私たちはメールやSNSで文字のみでコミュニケーションを取ることがある。これは一見文字だけのコミュニケーションであるように見えるが意識せずとも、相手がどのような感情で言っているかを普段の会話から推察している。しかし、ジャン=ドーがどのような感情なのかを言語療法士は本当の意味で文字、またはコミュニケーションの拒絶という形でしか読み取れない。

言語療法士は元『ELLE』の編集長という情報以外には、ジャン=ドーのことを知らなかったのである。しかし、文字、またはコミュニケーションの拒絶というコミュニケーションの極限においてもコミュニケーションは可能であることをこの物語は序盤から示しているのだ。言語療法士とジャン=ドーのコミュニケーションは食い違うことがある。しかし、それは彼らのコミュニケーションを妨げるものにはならない。

コミュニケーションの「至らなさ」とラカン

例えば、こんなシーンがある。電話を病室に置くために工事業者がやってくる。そこでブラックジョーク(電話なんて必要ないだろ?無言電話をかけるんだろ)を業者が言うのだが、それに対し言語療法士は、ジャン=ドーのために怒る。しかし当のジャン=ドーはそのジョークに(脳内で)爆笑して、言語療法士に対して「こいつはジョークがわからないのか」というように思っているシーンがある。この思い違いは、言語療法士がジャン=ドーのことを思いやっており、それをジャン=ドーもわかっているという、その一点にのみ支えられて問題にはならない。

私が皆さんに理解できないような仕方でお話しする場面があるのは、わざととは言いませんが、実は明白な意図があるのです。この誤解の幅によってこそ、皆さんは、私の言っていることについていけると思うと書くことができるのです。つまり皆さんは不確かであいまいな位置にとどまっておられるのです。そしてそれがかえって訂正への道の扉を常に開いておいてくれるのです。

ことばをかえれば、私がもし、簡単に解ってもらえるような仕方で、話をすすめたら、対話的ディスクールに関する私の前提そのものからしても、誤解はどうしようもないものになってしまうでしょう。(ジャック・ラカン(1955-1956) 小出浩之他訳『精神病〔下〕』(1987)岩波書店p.9)

思い違いが問題にならないのは、言語療法士とジャン=ドーのコミュニケーションのなかに、ラカンと読者のような関係性が立ち上がっているからだと私は考える。言語療法士は、編み出した独自の方法でしか、ジャン=ドーとのコミュニケーションが取れない。それは彼女にいつもコミュニケーションの「至らなさ」を感じさせるものだっただろう。ならば言語療法士はジャン=ドーの伝える文字だけでは伝わりきらないことについて、解釈せざるを得ない。そして「至らなさ」を補う解釈は、彼女の中で「不確かであいまいな」位置にある。

だからこそ、誤解をしていても、その誤解はコミュニケーションに致命的なものにならない。言語療法士の至らなさは誤解の可能性を予期している。だからこそ、彼女のブラックジョークへの怒りは、ジャン=ドーの代弁にはならない。代弁などできないと彼女は知っているからである。だからジャン=ドーは訂正しない。自らの代弁として言語療法士が怒っているのであれば、その齟齬についてジャン=ドーも怒るはずなのである。

ラカンが嫌ったのは、この種の齟齬である。ラカンはこう考えている、と読者が「完璧に理解した」と思っているものを読者は訂正できない。だからこそ、ラカンは最初から「完璧に理解した」などと、読者には思わせないような文体を用いて語るのである。その形を取れば、読者にとって誤解は致命的なものにならず済むのである。

極限で残るのは、めざしている「方向」

コミュニケーションの極限において、なおそこに残るものは何であるのだろうか。正確に自分の考えていることを伝えるのでもなく、相手のことを正確に読み取るのでもない。そのような極限で見出される関係には、「あなた」に「伝えようとしていること」と、「あなた」から「聞き取ろうとしていること」ということだけが残る。コミュニケーションの極限で削ぎ落とされ、なお残るものはめざしている「方向」である。そしてその方向こそが、唯一自分から抜け出し、外部に触れうる道なのである。

潜水服に閉じ込められたジャン=ドーは想像力で蝶になることができた。しかしそれは私たちにとって他人事ではない。私たちもまた、客観的世界という自らの作り出した世界に縛られている。そして、私たちは言葉にニュアンスを込めることができることで、また豊かな表情を持つことで、しばしばコミュニケーションにおける誤解は致命的なものになる。

潜水服に閉じ込められないために

私たちは言葉やニュアンスを操ることで、文字としては同じでも意味が逆になるというようなことを知っている。しかし意味を取るのは、聞いている「私」の独断である。そしてそこに起こる誤解について、私たちは訂正できない。「そんなつもりで言ったんじゃない」という言葉では、相手の傷ついた心を癒やすことはできない。

これはラカンで言うところの「誤解はどうしようもないものになって」しまったということであるのだろう。会話においては常に、言わんとしていることよりも、言われたことのほうが意味は多くなる。だからこそ、経験に照らし合わせて聞く側は解釈しなければならない。その解釈は、聞いている「私」にしかできないものであるが、言わんとしていることと完璧には合致することはない。

ジャン=ドーは身をもって「誤解」を体感する。閉じない右目を閉じるための手術や、点滴の係が消してしまうテレビは行為者としては良かれと思い行っている(もしくはそうせざるを得ない)。しかし、ジャン=ドー自身からすればその一つひとつに思うところがあり、そのことは伝わらないのだ。しかしまた彼が証明したように、コミュニケーションの本質は「方向性」にある。「あなた」が言わんとしていることを、「私」が聞き取ろうとすること、そして聞き取ったことは「私」が解釈した不確かなものであること。そのことを「私」は忘れてはいけない。でなければ、私たちは気づかぬままに潜水服に閉じ込められることになるのである。

対話を開始するときに、私は「あなたが何を知らず、何を知りたがっているか」を知らないし、あなたは「私が何を知らず、何を知りたがっているか」を知らない。しかしそんなことは対話の進行を少しも妨げない。なぜなら、対話は「あなたが語りつつあること」を「それこそ、私がまさに聞きたかったこと」であるというふうに体系的に「誤解」しながら進行するものだからである。(内田樹(2004)『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』文春文庫p.62-63)

 

他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)

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ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

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『紙の本は、滅びない』書評「紙の本と内田樹」

『紙の本は、滅びない』書評

『紙の本は、滅びない』というタイトルは私を惹きつけた。そのタイトルの中に、文字になっていなくとも電子書籍の脅威が見える。また、紙の本の絶滅可能性について人一倍考えているからこそ出てくるタイトルであり、どちらの側に肩入れしているかが瞬時にわかるからだ。ここでは、この本の著者である福嶋聡と、私に紙の本の特異性を思い知らせた内田樹、そして拙くも私の、本への「思い入れ」から紙の本の存続の可能性について考えていきたい。

「「いのち」とは、限りあるものである。本が「いのち」を持つのは、それがいつか無に帰する定めにある「モノ」だからである。」(『紙の本は、滅びない』34ページ)

この言葉に私は深く同意する。これは「動物占い」や「インド数学」など一時期ブームになったジャンルがあり、書店では死んでいくものであったが、電子書籍の世界では生き続ける、その不自然さを糾弾するものだ。確かに時代の流れの中で廃れていく本、ジャンルがあることは自明であるだろう。

内田樹の本の「いのち」観

しかし、本の「いのち」とは時代の流れの中にのみあるのだろうか。本は根本的に「モノ」とはその本質を異にするのではないか。内田樹は言う。

「「一冊の書物」の「意味」は、それを「読む」ことにおいて生成する。書物の意味は、読む人がそこに新しい意味を見出す限り、決して汲み尽くすことができない。」(『レヴィナスと愛の現象学』152ページ)

これは内田が、本の「いのち」は「読まれる」ことで起動すると考えていると言えるだろう。

本に対する愛が溢れる二人であるが、決定的に本の「いのち」観が違う。福嶋が想定する本の「いのち」は、不特定多数の読者(購入者)と本の間の「いのち」であるが、内田は一人の読者に本が読まれることに「いのち」があると考えている。『街場のメディア論』で内田は、読者が一人でもいる本にはアクセス可能であるべきで、紙の本では出版と在庫の関係上無視されてしまった読者にまで、電子書籍は配慮できる可能性があるとしている。

私がここで考えるのは、「動物占い」や「インド数学」は電子書籍の世界で、福島の言うような、永遠の「いのち」は得られないだろうということだ。読み手がいない文字の羅列はそのままで「いのち」と呼べるものではない。一方で、絶版になり、アクセスが難しくなり、『紙の本は、滅びない』に登場する「せどり屋」が高値で取引するような本は、市場の原理により「殺された」のであって読み手が存在する可能性がある。その読み手に、電子書籍という形であれ本が(せどり屋とは違い少なくとも定価で)渡ればその「いのち」は煌々と燃えだすのではないだろうか。

紙の本の特異性

しかし確かに、紙の本には特異性がある。内田の『レヴィナスと愛の現象学』は私にとってそれを教えてくれた本と言える。私はこの本を高校三年生の冬に買ったのだが、当時の私には難しく、途中で投げ出してしまっていた。それから大学に入っても、ずっとこの本は書棚で背表紙だけが見える状態であった。

「僕たちは書棚に「いつか読もうと思っている本」を並べ、家に来る人たちに向かって、いや誰よりも自分自身に向かって「これらの本を読破した私」を詐称的に開示しています。」(『街場のメディア論』155ページ)

内田の言い方ではこのようになるだろう。このとき本は「モノ」としてその役割を負っている。

最近になって、この本をふと書棚から取り出して読んでみるとすらすら読めた。これは内田の他の本を何冊も読むことによって、内田がどのように思考しているかの手がかりが掴めていたということもあったと思われる。しかし、その面白さが並みのものではない。それから読み終えるまで、信号待ちなどほんの些細な空き時間にも読んでしまいたいような衝動に駆られた。

それは他のどの内田の本にも勝る「こんな本が自分の書棚にあったとは思いもよらない」ような読書体験だった。このとき私は、本の意味が開示されるということは、書棚にあった「モノ」としての本とは、まるで別物になることがあると学んだ。

リアル書店における偶然の出会い

紙の本と電子書籍との間には大きな違いがある。それは紙の本が、やはり「モノ」でもあるということだ。福嶋はリアル書店の持つ、偶然の出会いに対してネット書店への優位性を説いている。私たちは今や、読みたい本・読まなければならない本に関してはアマゾンなどですぐに購入する術を持っている。しかし、読んだ後面白いと思える本・豊かになれる本に関しては全く分からないのだ。それは予想外の出来事であるはずであり、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」というような、「やっぱり」や「結局」の語法で語れるものではないのである。

本の意味は読まれるまで開示されない。しかし、その装丁が、背表紙が私たちに迫りくることがある。それは御茶ノ水三省堂において哲学のコーナーに足を踏み入れるときに感じる「底知れなさ」であり、そこに発生する、レヴィナスドゥルーズを「誰それ?」と言わせない無言の圧力であるだろう。リアル書店には「モノ」の強さがある。

「モノ」と「意味」の往来

「モノ」と「意味の開示」の間を紙の本が行き来することに、偶然の出会いがあるのではないかと私は考える。なぜならば、書棚での「モノ」としての本と、読むことで「開示された」意味が全く同じであるということはありえないからだ。書店において本は、「モノ」としてそこにある。それを私たちは(少しは書店で読むにしろ)「モノ」として購入する。その後になって、読むことで初めて「意味の開示」が起こる。私の例では丸3年が経っていたように、買った本の意味の開示はいつになっても構わないのだ。この「モノ」と「意味の開示」の時差が、電子書籍ではたして起こるだろうか?

「『多崎つくる』が電子書籍として流通し、配本不足や売り切れの心配がまったくなかったとしたら、即ちその気になればいつでも入手できるとしたら、発売3日で30万部がほぼ売り切れ、1週間で100万部を刷らねばならないような事態が発生しただろうか?」(『紙の本は、滅びない』85ページ)

即時的かつ永続的に購入可能な電子書籍を、スマホタブレットのアプリの本棚にしか存在しないものを、私たちは「モノ」として欲しくはならないだろう。希少価値がない上に、手触りのある「モノ」ではないからである。

こうして電子書籍では必然的に、その本からどんな意味が開示されるかが「モノ」に先行して考慮される。どのような内容なのか、私が好きな内容かということが購入の決め手になる。それは「やっぱり」や「結局」の語法であり、偶然の出会いというよりも、自分が求めていると「わかっている」ものとの出会いである。そこには想像を超えるものが入り込む隙がない。

紙の本は「モノ」としての存在と「開示される意味」が解離したものであるために、想像を超える可能性を秘めている。だからこそ、紙の本は「モノを超えたモノ」なのである。書店は紙の本を取り扱い、「モノ」としての魅力を引き出し「偶然の出会い」に私たちを巻き込む。私たちは読むことによって「モノ」から意味を引き出し、想像を超える面白さを味わう。そして、読み終えると自分の書棚に収める。そこにある本は確かに読む前と同じ「モノ」なのだが、見え方が全く変わっている。この一連の運動が続く限り、紙の本は滅びないのだ。

 

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

 
街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

 
紙の本は、滅びない (ポプラ新書 018)

紙の本は、滅びない (ポプラ新書 018)

 

『夜と霧』書評「極限状態に生きること―能動的主体の挫折―」

『夜と霧』書評

心理学徒としては『夜と霧』は読まねばなるまい。そして書かねばなるまい。というわけで今回は書評のようなものをお送りする。

『夜と霧』を読んで最初に感じるのは、フランクルという人間の温かみだ。巻末の写真や図には、見るだけで強制収容所の世界に巻き込まれるような恐ろしさがある。しかしフランクルが描く人間(フランクルも含めて)は実に人間的で、まるで骨と皮だけにやせ細った人間とは思えないのである。むしろ、その環境で血色も肉付きも良い、カポーやナチスの親衛隊員という存在がとても非人間的で不気味に見えてくる。
被収容者が人間的に見えるのは愛やジョークがあるからだ。それは、極限の形をとっているが故に、そこに潜む本質的な要素を浮かび上がらせる。

強制収容所における「愛」

強制収容所における愛において、愛する対象は目の前にはいない。帰ったら触れられるようなこともない。しかし、その微笑みをありありと見ることができ、対話することも可能だったというのだ。愛する対象はもう殺されているかもしれないが、そんなことは重要ではない。いつか帰宅する日を夢見て愛するのではないからである。愛は今起こっていて、それには愛する対象の身体ではなく、精神の存在こそが必要であったのである。
またそこに起こる沈黙を皆が各々の妻のことを考えている、これ以上ない有意義な時間であるとわかっていたのだ。このことは皆の団結力をも高めただろう。それは強制収容所が起こさせる群集の一部的感覚とは異なるものだ。愛という最も個人的感情が同時に起こることによる、またそれが儚い形をとっていることによる共感によって高まる団結力である。

ジョークの効用

またジョークは不謹慎ではあるが、私も面白いと感じてしまった。その例を以下に挙げる。

「俺はあいつがまだX市最大の銀行の総裁に過ぎないのを知っているんだ。ところがあいつは今ここではカポーの振りをしていやがる。」
(V.E.フランクル(1946)霜山徳爾(訳)『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』(1956)みすず書房p.162)

カポーは確かに通常の囚人よりは偉い立場にいる。しかし、カポーも囚人であることに変わりはなく、ましてや市最大の銀行の総裁であることとの落差は非常に大きいことだろう。それでもこの話の中では、カポーの方が総裁よりも上のように語られる。さらに、この話には2つの悲しさがある。かつての銀行の総裁が、カポーとして偉そうに振舞っていることの小物感。それから、そのカポーを偉いものとして扱わなければならないという自らの弱さである。

しかし、この悲しさがジョークとして笑いになるとき、彼らは被収容者やカポーという立場を俯瞰している。このとき、彼らは被収容者やカポーよりも高い位置にいる。ジョークが引き起こす、この力関係の逆転はトリックではあるが、強制収容所を高みから見下ろすような感覚を持たせる。ジョークをいう時の精神の状態は、フランクルが心理学的目線から状況を分析することと同じような、俯瞰する視点を作り出す。そしてそれは強制収容所に精神を縛り付けられないためには大切なものであったのである。 

「何故生きるか」と「生きるとはなにか」は違う

さらにフランクルは、心理学的観察の中で、収容所の世界に飲み込まれる人間の特徴として、精神的な拠り所を持たなくなることを発見した。

何故生きるかを知っている者は、殆んどあらゆる如何に生きるか、に耐えるのだ。
(V.E.フランクル(1946)霜山徳爾(訳)『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』(1956)みすず書房p.182)

「何故生きるか」という問いは「生きるとはなにか」という問いとは種類が異なる問いだ。「生きるとはなにか」という場合には生きることは前提になっており、生きることについての否定は含まれてはいない。しかし「何故生きるか」という問いには、生きることの否定「何故生きなくてはならないのか」が無言のうちに含まれている。

生きることの極限状態、強制収容所における生活での「なぜ生きるか」という問いは非常に危険に見える。まず意味があって、それから生きるのならばその意味は今ここか、もしくは未来になくてはならないことになるからだ。現在、苦役を受け続けていて、開放の日は無期限に延長され続けるような日々の中で、「何故生きるか」という問いは「何故死なないのか」という死への誘惑に姿を変えてしまうだろう。

フランクルはここで問いの意味を180度転換させる。つまり「何故生きるか」という、問いを発する者から、生きるということが私たちに要求していることに応答する者へのシフトを起こすのである。これは能動性による主体の基礎付けではなく、受動性による主体の基礎付けへシフトすることを意味する。

何人も彼の代わりに苦悩を苦しみぬくことはできないのである。
(V.E.フランクル(1946)霜山徳爾(訳)『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』(1956)みすず書房p.184)

レヴィナスアブラハム的主体」との関連性

他の誰にも代替不能であるような責任を引き受けることによって、立ち上がる主体性という構想こそが、強制収容所にいる人間を救いうる唯一の考えだとフランクルは言う。これは、ユダヤ人哲学者レヴィナスが言うところの「アブラハム的主体」に類比的だ。

この、代替不能の責任の引き受けというものは「いつか歴史が正しさを証明する」や「正義は最後に勝つ」といったものではない。そのようなものでは収容所の中での無意味に耐えられない。西洋哲学は「知能指数が高く健康で冷静な大人の男性」を前提にしているために、ここでは既に意味を失ってしまっていたのだ。「アブラハム的主体」は誰も救ってはくれない、神や正義に見放されるような絶望的な孤独によって立ち上がる主体性なのである。

また、被収容者を無意味な苦しみや死から救う考え方に、意味への転換がある。それは彼が自らの苦しみを、彼の愛する人間から苦痛に満ちた死を取り去るように願うことで受け入れることである。自己の苦しみは、自己が苦しむ限り無意味だが、(願うことしかできなくとも)他者のための苦しみだとすることで最も強い意味になりうるのである。

フランクルの過ち

フランクルはこの著書において、すべての人が生きる希望を持ちうる可能性を示している。その意味で、この本は人間誰しもが陥る可能性のある「何故生きるか」という難題にアクロバティックに立ち向かう、読む者に勇気を与えるものになっている。しかし、善意の人間とそうでない人間が「種族」として存在するという考え方については同意できかねる。ここでは少し、フランクルの客観的で冷静な記述が徹底されていないように思われる。

確かに、ナチスの親衛隊員にも善意が存すること、ユダヤ人の同胞にも悪意が存することを発見し、記述するという態度は尊敬に値するものだ。しかし、どのようなグループにも善悪が存在するというよりも、どのような人間のうちにも善悪が存在するというべきではないか。同郷の者や知り合いに対して少し豆が多くなるようスープを注ぐという行為も、善ではない。しかしこの状況では、それは悪であると誰も糾弾できない。極限の環境がそうさせたからである。

ジョークに登場したカポーも、かつては大銀行の総裁として温和であったかもしれない。つまりアイヒマンが凡庸な悪であったように、個人の悪の発現は環境によって起こるのだ。だからといってそのカポーが悪でなかったわけではない(もちろんアイヒマンもである)。たとえ環境がそうさせたとしても彼は悪を行ったのだ。こうして彼も、他の誰にも代替不能であるような責任を引き受けることになるのである。それは死刑であるかもしれないし、罪悪感であるかもしれない。

トラウマの克服としての「赦し」

しかし、フランクルはこの許されざる悪が生み出した悪夢を生き抜いてなお、それに赦しを与える。収容所から解放された仲間が、麦を踏みにじるエピソードがある。それは、解放された仲間が悪の客体であったところから悪の主体として暴力と権力に(以前とは異なる形で)固執している姿なのである。フランクルはそれを止めようとする。

それは過去への固執こそトラウマの病理だからだろう。彼にとって、愛や友情に満ちた世界は強制収容所に入ることによって終わりを迎えた。それならば強制収容所を出て最初に彼が望むのは悪に対して正義の鉄槌を下すことだろう。しかし、この正義の次元にとどまる限り、過去に固執し続けることになる。この過去を弔って、未来に歩むことこそが、トラウマを克服することである。フランクルは悪夢的過去を過去として歩き出すことこそ、生きるということが要求していることだと考えたのではないだろうか。

 

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

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レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

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イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

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コーラみたいな女の子論–神田恵介やくしまるえつこ論から

もっと知りたいやくしまるえつこ

私は相対性理論を含め、やくしまるえつこの歌が好きだ。ということで最近ユリイカやくしまるえつこ特集を買った。といっても2011年の特集であり、古本をアマゾンで買ったのだが。今更ではあるが彼女のことをもっと知りたくなったのである。

しかし「もっと知りたい」という気持ちに応えてくれている特集ではなかった。そもそもやくしまるは自らの情報を完璧に統御している。だからこそ私は知りたくなるのだが、読んだ後も彼女の「謎」性はそのまま残ることになった。

神田恵介やくしまるえつこ

それはそうとしてだ。神田恵介という人物がやくしまるえつこ特集に寄稿していた。彼は服飾レーベル「keisuke kanda」の主宰であるらしい。私はよく知らない。しかし彼のやくしまる論「コーラと「あの娘」とやくしまるえつこに捧げるラブレター」は私の気持ちをそのまま表していた。

あなたの歌は、まるでコーラのよう。甘くてさわやかで。身体にはあまり良くないってわかってても、ついつい口にしてしまう。そんな中毒性を持った歌だと思う。

僕は、身体に良い無添加100%の野菜ジュースよりも、コーラみたいな有害なものに魅かれてしまう。

コーラみたいな女の子というのがいる。彼女たちは多少のメンヘラ的妖しさを備えている。彼女たちの日常は私には想像すらできない。そんな感じだ。惹きこまれても傷を負うだけであることはわかっている。でも近づかずにはいられない。そんな感じ。

コーラみたいな女の子の魅惑

わかる方もいるだろうと思うが、女の子のメンヘラ的な部分を見たとき私の中では警告音が鳴り響く。「ウィーン!ウィーン!Caution!Caution!ウィーン!」という具合である。そうなると私の冷静さが飛躍的に上がり、可愛いとか、守りたいとかいう気持ちよりも巻き込まれないようにと、防衛的態度を取ることになる。要は引いてしまっている。

しかしコーラ系女子はそうはいかない。警告音は鳴り響いている。その先は泥沼であることがわかりきっている。巻き込まれて私がボロボロになったとき、実は彼女のほうは飄々と非日常的な日常を送っている、なんてことも想像がつく。しかし惹かれてしまう。

コーラみたいな女の子を私はこれからも愛してしまうだろう。だって可愛いし、危ういし、謎を秘めているし。私はボロボロになるだろう。でもボロボロになるのは所詮は私である。その子ではない。そうと決まればコーラの中で溺れて骨の髄まで溶かされようじゃないか。

巷のきゃりーぱみゅぱみゅ論への反論

ここから私は大いに飛躍して、きゃりーぱみゅぱみゅの話をしよう。といってもやくしまるとは違い、きゃりーぱみゅぱみゅのことが私は別に好きではない。しかし巷に溢れる「きゃりーぱみゅぱみゅもいつか篠原ともえのように普通になる」論には同意できないのだ。

別にきゃりーぱみゅぱみゅもいつか篠原ともえのようにならない!きゃりーは特別なんだ!ということではない。そうではなくて、篠原ともえのようになったとして、だから何なのだ、ということである。

きゃりーぱみゅぱみゅも戦略的に自己を打ち出すことで大いに謎を秘めた存在として、私たちの前に現れている。その「謎」性を支えているのはほかならぬ私たちだ。私たちがそれを謎として解読に取り組むからこそ謎は謎として存在できるのである。

篠原ともえはその「謎」性を時の流れの中で失ってしまった。それは仕方がないことだ。きゃりーもいつかはそうなるかもしれない。しかし、だからといって彼女たちの特異なキャラクターが意味のないものになるわけではない。謎が意味を持つのはいつでも「今」においてだからだ。今、謎として取り組まれているというその事実、それだけで十分ではないか。

コーラ女子は「今」を生きる

きゃりーぱみゅぱみゅの批判者は彼女の「謎」性を時間を用いて解消しようとしている。彼女を仮想的にオバサンにすることで生活感を与え、「謎」性を剥奪しようとしている。しかしそれは意味がないことだ。だって未来を先取りして謎を放棄しているだけだから。「彼女はいつかオバサンになるだろうから、興味がない」といっても、じゃあなにに興味を持つんだ、みんないつかは骨になるぞって話である。

きゃりーの「謎」性はいつか崩れ去り普通になるだろう。しかし「私は謎を放棄します!」という宣言は「今」は意味を持たないだろう。そして未来にその宣言が正しかったとしても意味がないだろう。そのときには新たな「謎」に皆夢中であるだろうからだ。コーラみたいな女の子は「今」を生きるのだ。そこ以外に意味も謎もないのである*1

 

RADIO ONSEN EUTOPIA

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天声ジングル

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*1:篠原ともえきゃりーぱみゅぱみゅを私はコーラ女子として認定していない。しかしこの「きゃりー論」はイメージとしては「やくしまる論」でもある。

日本とフランスとファッションとテクノ

ファッションショーの国際比較

最近ファッションショーの国際比較の授業を受けた。私はファッションに特別な関心を持っているわけではない。しかし授業が面白かったこともあり、ぐるぐると考えが頭を駆け巡ったのだった。

フランスでは日常、街で見かけないような奇抜な高級な服を、舞台装置までその日のために作られた会場で披露する。観に来た者たちは客席のように高い位置から遠くを見下ろすようにショーを見ている。

アメリカではハイブランドでも、そのまま街に着ていけるようなデザインのものを、バイヤーたちが横から間近で見る。大掛かりな舞台装置などもなくシンプルで、服という商品をよく見るためのショーという感じがする。それは商業的であり、ビジネスであることを感じさせるものだった。

日本では、ファッションショーを見上げるスタイルだ。見ている側も若い女の子が中心で、スマホなどを通じてその場で商品を買ったりする。それだけに価格は若者にも手の届く範囲になっており、デザインもハイブランドの流行を模倣したものになる。

 トレインスポッティングとTGC2016

このような比較であった。確かに面白いがこう並べると、日本のファッションショーは即物的なものだと言いたくなってしまう。現にこの授業の講師であるファッション誌の元編集長は日本のファッションショーやモデルについて手厳しい発言をしていた。

しかし、ここで「東京ガールズコレクション2016 AUTUMN/WINTER」の始まりの音楽がアンダーワールドの「Born Slippy」であったことは示唆的だと私は考える。この曲は、映画「トレインスポッティング」に使われた曲である。

トレインスポッティング」は1996年公開のイギリス映画だ。映画内で描かれるのは不況にあるスコットランドの若者たちだ。貧困と若者たちの溢れるエネルギーが描き出され、日本でも若者を中心に支持を集めていた。ではなぜ、東京ガールズコレクションにこの映画の曲が使われたのか。それを考えてみたい。

テクノによって 消滅する「本物―偽物」関係

アンダーワールドというアーティストはテクノやハウスに分類される。テクノには、サンプリングという技法がある。日常生活の音や、街の喧騒、或いは他の音楽までも新たな曲の素材(サンプル)にしてしまうのだ。その起源にはフランスの音楽家の「ドアの音」から作った音楽がある。フランスにはテクノの起源がある。

フランスのテクノアーティストで最も有名なのはダフトパンクだろう。彼らの中でも最も有名な曲「One More Time」はMVで松本零士のアニメを使用したことでも知られているが、この曲自体がサンプリングでできている。「One More Time」はEddie Johnsの「More Spell on You」でできている。では「One More Time」は偽物なのだろうか。私たちにはそう思えないだろう。

つまりこれはひとつのシミュラークルなのであり、「More Spell on You」と「One More Time」の「本物―偽物」関係は曖昧になり、消え去る。私はこのテクノ特有の「本物―偽物」関係の消滅が日仏のファッションショーとも繋がっていると考えている。

 TGCの意思

それにしても2016年のショーに1996年の曲を使うのは、いかがなものだろう。「ファッション」という視点に立つと20年も前の曲でモデルが登場するということ自体が滑稽に思える。しかしこの選曲にはひとつの意志が感じられる。

それは(観客も含む)若者たちこそが、ファッションにおける「本物」になっていくのだという意思だ。「トレインスポッティング」のテーマはスコットランドの若者がロンドンへ出て、幸せをつかもうとする、まさに「本物」になろうとする物語であったのだ。

ファッション誌の元編集長はこのように言う。「私たちはいち早く飽きなければならない。デザイナーと同じスピードで服に飽きていかなければ、次の流行は読めない。だからパリコレには毎回行かなければならない。」彼女はファッション・ビクティムという言葉を使って自らを表する。文字通り、ファッションの犠牲者である。

一方で日本の若い女の子たちは、もしショーに立つモデルの着る服が変わらなければ、恐らく現在の服に飽きることがないだろう。フランスの大学生のファッションが、そして日本の男子学生のファッションがここ数年変わらないように、彼女たちも止まってしまうだろう。その意味で、彼女たちは「本物=ファッション・ビクティム」ではない。

しかし、思い出すべきはダフトパンクの「One More Time」である。彼女たちは「本物」ではないが「偽物」でもないのだ。アンダーワールドの「Born Slippy」は映画音楽であり、またテクノである。この選曲は20年の時代を超えて、東京ガールズコレクションにマッチするのだ。彼女たちにとって、もはや「本物」でないという事実は「本物」になろうとするエネルギーにしかならない。

 フェイクレザーの逆襲

遠くない未来、フェイクレザーはもはやフェイク(偽)のレザーではなくなり、「これはフェイクレザーという素材なのだ」という逆転現象が起きるはずである。それは、先にパリコレで起こるのかもしれない。そのとき、ファッション業界は刷新されるだろう。

フランスの本物と日本の模倣品という関係が崩れ、新たに相互作用でファッション、すなわち流行が作られていく時代になるだろう。それは紛れもなくシミュラークルの世界であり、テクノの業界で、また東浩紀の『動物化するポストモダン』で言及されているアニメやゲームの世界では既に起こっている動きなのだ。それを歓迎できるかは、ファッション業界を牽引するフランスのデザイナーに掛かっている。

しかし、保身を考えてそれを拒否するデザイナーは遅かれ早かれ業界から退場せざるを得ないだろう。最も早く既存のものに飽きなければならない者たちにとって、過去にしがみつくことは命取りになるだろうからだ。自らがファッション業界の「本物」であろうとすると、今まで「偽物」だとしてきたものを見直さなければならない。そのような逆説的な時代になってきている。

この考えは間違っているのかもしれない。いや、間違っているのだろう。しかし楽しければそれでいいのだ。私にとってはフランスもファッションもテクノも女の子も、観光客気分で語ることしかできないのだから。残念ながら。

 

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動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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